叙瀬と久礼子
「と、言うわけなんだよ」
久礼子の前で、叙瀬は説明を終えた。奔田からスカウトを受けた事を相談しているのだった。久礼子の客、芒宗楽は、仕事の都合で早々に帰宅し、叙瀬はたった一人のリピーター(なじみ)である奔田との仕事が済むと、あとは空き時間になった。
“金楼夢”の規則では、契約期間中に退職することには罰則が設けられている。違反した場合、半年間、同業種で就職することの禁止と、多額の罰金を徴収することが決められていた。“金楼夢”の所有者はヨコハマ租界の有力者、芒一族であり、ヨコハマにとどまる限りその監視を逃れることは困難であることが予想された。
叙瀬は悩ましげに付け加える。
「どうしよう、困ったなぁ……急に言うだけ言って、帰っちゃうんだもん。そんな急には決められないよ……」
「え? 延長したのにエロスしなかったの? 楽じゃん、ラッキーだったね」
真剣な顔で言う久礼子に、照れくさそうに叙瀬は答える。
「あ、それはした。っつーか、アタシが終わったあと、お客さんに相談するのを完全に忘れてたんだよね……上手すぎて」
「はあ……変わってるね」
あきれたようすで久礼子は叙瀬を冷ややかに見つめた。
「そうかな?」
叙瀬は首をかしげた。
久礼子は話を戻す。
「叙瀬はどうしたいの?」
冷静に聞く久礼子。叙瀬は困惑する。
「そりゃやっぱ、ここ出られるんなら出たいよ……ずっと花組だし、そこから出られそうにもないしさ。
あと、ダンスなんかやったこと無いからちょっと興味あるしさ」
「だまされてるとかって無い?」
「う~ん……たぶん無いと思う」
「まあ、ジョセちんがそういうなら、間違いないんだろうけど」
「逃げても、後のこととか面倒そうだし……」
久礼子は即決する。
「だったらいいじゃない。逃げたほうがいいよ」
「え? いいの? っつか、なんか大丈夫かな?」
叙瀬は驚いたようだった。
「うん。ちょっと危ないかも知んないけど、このチャンスに賭けてもいいんじゃないかな?
だって、ずっと花組でしんどい仕事してるより、逃げて売春やめたほうがいいと思うよ。だってさぁ、病気でやめさせられた人いたじゃん? そうなったらマジ悲惨だよ。
……下手してばれても、罰金払えばいいんでしょ? どうせ前借で縛られてんだから、多少、額が増えても一緒だし」
「それもそうだよね、やっぱくれんすに相談してよかった! でも逃げれたあと、ちゃんとやってけるかなぁ」
力強く久礼子は請け負う。
「わたしにできることはなんでも手伝ったげる」
ふと叙瀬は淋しそうな面持ちになる。
「……アタシが出てっても、平気?」
不意を突かれたように久礼子は目を丸くする。叙瀬をまじまじと見つめた。唇の端が上へと反り返る。やや皮肉な雰囲気を漂わせた笑みを浮かべる。
「……ガマンする!」
「ちょっと心配だけど……」
名残惜しそうに叙瀬は言った。
久礼子は少し笑う。
「それより逃げられそう? セキュリティシステムで監視されてるはずだから、門の外に出るのも結構大変じゃない?」
久礼子の質問に、叙瀬は初めて気付いたように顔色を変える。
「そういえばそうだよね~。それもどうすればいいんだろーか」
「……そうだ。わたしが支配人(働さん)と話するからさ、その間に逃げちゃえばいいんだよ」
叙瀬は苦しげに身をよじった。
「ほんとにいいの? そこまでしてもらって?……やっぱやめようかな……いや~、でもやっぱりここ出たいなぁ」
久礼子は苦悶する叙瀬を激励する。
「しゃんとしなよ、きっちりやってあげるから、そっちもきちんと逃げのびてよね!」
「わ、わかったよ。でもグルだってバレバレじゃん」
久礼子の勢いに、叙瀬は気圧されたようだった。
「心配ないって。
あたし稼ぎ頭だし、最近も偉いさんに気に入られてるから、雇われ支配人ごときが何も言えないよ。
まかせて!」
久礼子は不安げな叙瀬へ、自信に満ちた態度で断言した。