就職先
「あれ……?」
天井のしみが目に飛び込んできた。
「どこ? ここ」
戸惑ったようすで叙瀬は左右を見る。
自分の状況を把握しかねたように、真剣な眼差しで刺すように見つめる。けばけばしい化粧をした女の痩せた顔が、横倒しになっていた。女の耳にフックで固定された小型オーディオプレイヤーから音が漏れている。
女が不機嫌そうな声を出す。
「なんだよ」
叙瀬は寝そべっていた。
上体を起こす。体の下には薄い毛布がしわになっていた。
叙瀬に声をかけた女が怒鳴る。
「この新入り、なんなのー? じっと人見てさあ。寝ぼけてんじゃないの?」
「ごめんなさい」
叙瀬は素直に頭を下げた。
窓ひとつない部屋に、数人の女性がいる。
壁には鏡台が一列に設置されており、化粧品があふれんばかりに並んでいる。
その鏡台ひとつの幅と部屋の奥行きを掛け合わせた面積が、部屋にいる者ひとり分の占める場所だった。部屋に一つだけ設置されたドアのある壁に平行に並んでいた。
細長いスペースには布団を敷いたり、座椅子に腰掛けたりと、それぞれ思いおもいの格好でひまをつぶしていた。叙瀬の場所は、ドアに最も近い位置だった。
叙瀬は鏡台に映る自分の顔に目をやった。
東洋人離れしたはっきりとした目鼻立ちと、浅黒い肌の少女が鏡の中にいた。
きっちりと化粧をし、髪の毛が一房、丸く反り返っている。服は着ておらず、下着を丸出しにしていた。
叙瀬はあくびしながら、寝ぐせをなでつける。
部屋の扉が開いた。
服をだらしなく羽織った女が部屋に入ってくる。頭にタオルを巻き、髪の毛を仕舞っていた。肌には濡れたあとが残っている。シャワーを浴びた直後のようだった。片手にバッグを提げている。
女はぞんざいな足取りで床を踏んだ。叙瀬は女が通れるように体を縮めた。
周囲から声がかかる。
「おつかれ~」
「ご苦労さま」
自分に割り当てられたと思しき場所で、女は崩れるように座り込んだ。誰に言うともなく声を張り上げる。
「あー、いつもの限りなくだるかったわ」
隣で本を読んでいた女が笑顔で応える。
「いつものってプレーリードッグ(PD)?」
「あー、部屋入ったら、相変わらずこんなして立ってたわ」
タオルを頭に巻いた女は、前歯を突き出して両手を腹の辺りにそろえる。
その格好を見た周りの女は甲高い笑い声をあげた。
叙瀬も一緒に笑い声をあげた。
タオルの女はうんざりしたようにわめく。
「今日もレロレロマシーン起動で限りなく最悪だった。マジでキモイ」
部屋にいた者が会話に加わる。
「でもいーじゃん、この調子でいったら、多分来月にはクラスあがんじゃないの? ななんみ」
「PDのおかげでしょ、レロレロに感謝しなよ」
「鳥組になったら、PD来れないんじゃね? あいつ限りなくビンボーくせーし」
「料金上がっかんね。5000外円くらいだっけ」
「それで来れなくなるって、ダサ過ぎじゃん。っつーか、客層変わんだからどっちみち来れねーよ」
「だったら、マジうれしいんだけど! あいつ限りなく切りたかったわけだし」
「もう十人こなしたんでしょ? 一人くらい常連いなくなってもヨユーじゃん」
女たちの話は盛り上がっていた。叙瀬はぼんやりとした笑みを浮かべながら話を聞いている。
そのとき、部屋の隅にいた女のMITから着信が鳴った。
「メールだ……あ、仕事だわ。100分だってよ」
他の女たちが激励する。
「がんばって」
「やっと三人目。店長にいやみ言われなくて済むっつーか。行ってくるわ」
「張り切りすぎんなよ~」
メールを受けた女は、鏡台からポーチと小ぶりの四角いかご(バスケット)をとった。かごの中には潤滑液やうがい薬の容器が入っていた。
「じゃーね、あたしもななんみみたいにオイシー常連くわえ込んでくるわ」
女が出て行く。
そばの女が叙瀬に話しかけてくる。
「オメーもさー、少しは頑張らないとまずいんじゃないの?」
口元を嘲笑で歪めていた。
叙瀬はやけくそじみた笑い声をあげた。
「そーなんだよねー! 今日まだ0人だし」
同情するような声が聞こえる。
「おいおい、ヤベーよそれ。働さんに怒られんじゃん。」
「もうちょっとがんばりなよ~この仕事初めてなのはわかるけどさ~」
「でももう一週間は経ってんだから、慣れるでしょ、フツー」
「うん。でも、写真があまりよくなくてさ……ブサイクなんだよね」
叙瀬は不平をもらした。
すかさず、横から声がかかる。
「ブサイクなのは自分が悪りーんじゃん」
女たちは爆笑する。少し驚いたような顔をしていた叙瀬も顔を溶かすように笑いを作った。
「そーだよね……写真のせいにしちゃよくないね!」
「色黒いのは人気ないんだよ、あきらめな」
「まっ、今日もお茶ひきごくろーさん」
忍び笑いがあちこちから漏れる。
叙瀬は照れくさそうに頭をかいた。しかし、叙瀬を笑いものにすることに気が済んだのか、すでに他の女は叙瀬からそっぽを向いていた。叙瀬は話の輪から取り残された。
しばらくぼんやりしていた叙瀬は、おもむろに立ち上がってドアに手をかける。古びた軍用コートを肩からかけていた。
ふと会話が静かになった。
「どこ行くの~?」
「トイレ」
「限りなく長くなりそうじゃね」
「そうかも」
「サボりすぎて店追い出されんなよ」
「気をつけるよ」
叙瀬は部屋を出る。その背後で、ドア越しに部屋全員の爆笑が聞こえてきた。
困惑した表情で叙瀬はドアに目をやる。
気を取り直したように前へ向き直ると、廊下を進んだ。
久礼子の手が、ネクタイの結び目をつまんでいる。
スーツ姿で正面に立つ男の襟元を直していた。血色のいい裕福そうな中年男が、久礼子を見下ろしながら相好を崩している。
ふたりの様子は、豊かで仲のいい新婚夫婦のように見えた。
男は光沢のある高級スーツを身につけ、久礼子は体の曲線がはっきりわかる華麗な衣服をまとっている。髪形を整え、化粧をして美しく装っていた。
栗色の髪の毛がまっすぐ背中に伸びている。柔らかな面差しの白い肌に桃色の唇が弓なりに笑みを形作っている。
身奇麗にした久礼子は、人目を引く可憐な美貌の持ち主だった。
そこは豪華なビルの前だった。
20世紀はじめに流行した建築様式、アール・デコを模して幾何学的な装飾を施したビルは、四方から照明に照らされ、夜の中に昂然と浮かび上がっている。
建物の玄関の前には自動車が停車できる空間があった。
久礼子とスーツの男は広場の端に立っていた。
ほどなく、黒い乗用車がそばに停車した。
中共区の自動車メーカー、“希跡汽車”の要人向け高級車、“飛鳳”だった。
男は久礼子の肩に手を触れ、別れの言葉を告げる。
「じゃあ、また近いうちに来るよ」
「うれしい~、界さんが来るのだけがわたしの楽しみなんです。いつでも好きなときに来てくださいね、わたし、待ってますから」
久礼子は媚びるように笑いかけた。
車のドアが開いた。
男は車に乗りこんだ。窓越しに久礼子を見る。
久礼子は手を振った。
車が走り出す。久礼子は遠ざかる車を見送っていた。
門から出た車が姿を消すと、久礼子は建物に入る。
大きな玄関の中は、角張った装飾で覆われていた。
玄関には、ふたりのタキシードを着た従業員が入り口を囲むように立っていた。久礼子を見て、声を張り上げる。きびきびとした動作でお辞儀した。
「ご苦労様ですっ!」
広い玄関ホールには大きな昇り階段がある。
男性従業員のあいさつには一顧だにせず、久礼子は階段の側を通り過ぎ、奥にある両開きの自動ドアに歩み寄る。
木製のドアが音もなく開いた。
内部はエレベーターだった。玄関と同じく正装した男性従業員が控えめに立っている。
久礼子はエレベーターに入り、行き先を告げる。
「一番上」
「かしこまりました」
男性従業員は丁重に返事をした。
エレベーター内部にも玄関と同じく、靴底が埋まるほどのじゅうたんが敷き詰められていた。
男性従業員はボタンの並んだパネルを操作した。エレベーターが上昇する。
最上階に着くと、久礼子は足取り速く歩いた。
広い廊下を行き、麗々しく飾られた大きなドアの前に立った。
自動的に開錠される。
保安システムがドアの前に立った人間が身につけている微細集積回路(ICチップ)の情報を読み取り、カギを開けるかどうか判断しているのだった。
自室に帰った時、久礼子は小さく声を出した。
「あ」
「お帰り、くれんす」
「ジョセちん」
大きなベッドの上に、叙瀬が身体を横たえていた。
久礼子は全く無表情に言う。
「来てたんだ」
叙瀬は二つ並んでいる大きな枕に顔をうずめる。
「柔らかいおフトン、サイコー」
皮を剥がすように、久礼子は皮膚に密着した服を脱いでゆく。足首に小さなリング状に丸まった。靴ごと床に脱ぎ捨て、下着姿になる。
「控え室から出て、大丈夫なの? 怒られない?」
「知らなーい」
「テキトー」
「だってあそこ狭いんだもん。それにあたし今日もひまなんだよね」
久礼子のMITがアラーム音を鳴らした。
「また仕事だよ」
久礼子は短いため息をついた。
「売れっ子は大変だねえ」
叙瀬は久礼子をねぎらった。
久礼子が通話を受信するまでもなく、通話相手の声が聞こえてきた。MITにダウンロードされたインターホン機能が動作していた。
「10分後に芒宗楽様がいらっしゃいます。時間とプレイオプションの内容はデータ送信いたしましたので事前にご覧ください。
お分かりのことと思いますが、VIPですので、沮喪は許されません。丁重な対応をお願いします」
きれいに整った久礼子の眉根にしわが刻み込まれた。
軽く息を吸い、MITを怒鳴りつける。
「もう今日は連続で5人目です! ちょっとは休ませてください! だいたい10分って! これからシャワー浴びて化粧もしなくちゃいけないのに!
そんな短い時間でできるわけないでしょ!」
「今日は、強いね~」
感心した様子で叙瀬がつぶやいた。久礼子が早口でささやく。
「怒ってみせないと、わかんないから。こいつら、バカの上にずうずうしいんだよね。わかってきた、扱いが」
「厳しいね」
MITが男の声でしゃべる。
「しかし、すでにお客様には待っていただいておりまして……」
「20分! これからシャワー浴びるの!」
久礼子は声高に宣言した。
「ですが、お客様はそうした準備は不要だとおっしゃっておりますが……」
「うるさい! 20分しないと絶対お客の相手しない!」
久礼子は一喝した。MITの声がしぶしぶ了解する。
「わかりました……準備ができたらお呼びください」
久礼子はベッドの端に身を投げ出した。
長々とベッドに寝そべった叙瀬は、隅に身を寄せて久礼子の場所を作った。
「機嫌悪いね」
のん気そうに叙瀬は久礼子を眺める。
久礼子は叙瀬に噛み付くように言う。
「だってあいつら、人をこき使いすぎだよ! もう昼からずっと客の相手してんだから。すこしは休ませて欲しいよ、入店してからずっとこんな調子!」
薄く笑って叙瀬は返す。
「いーじゃん、あたしエロス好きだから何人でもオッケなのに、客が来ないんですけど」
久礼子は呆れたような声を出す。
「なに言ってんだか。ジョセちん、ヒマすぎてどうかしちゃったんじゃないの」
「そーなんだよね、あーあ……花鳥風月、せめて鳥組にはなりたいな~。花組の待合室って狭いんだよね、狭いし臭いし、みんなインケンだし」
久礼子が笑う。
「あはは! 確かに花組ってみんなキモイよね、もちろんジョセちん以外だよ? でも、なんなんだろうね、あれ」
「客が少ないと、働さんにメチャクチャ言われるからだろうね~。
みんなストレスたまってんだよ。
それに客も汚いのばっかしでさ。お金が無いのは良いけど、エロスの前に風呂はいれよって感じ。
お金持ち相手の月組には、そういう苦労はわかんないだろうね~」
「あははは! なんか苦労話始めちゃったよ。わたしも最初は花組だったんですけど?」
「そうだった。でも、すぐにキャリアアップしたじゃん。すごいよね」
「わたしもビックリした。っつーか、偶然だよ。大物客がたまたまついてくれたからね」
「運も実力のうち……つか、くれんす最初から店長イチオシだったじゃん。美人はトクだな~」
「でもこき使われるよりひまのほうがマシだよ、もう痛くてさ」
「マジで? 塗り薬持ってるけど、使う?」
「平気。でもわたしはまだ店から大事にされてるけど、ジョセちんは自分のことを気をつけたほうが良いよ、ひそかに病気はやってるらしいんでしょ?」
「や~だ、言わないで怖い! でも昨日も誰か病気になったって言ってたし、怖すぎだよ、あ~やだやだ」
「なんか欲しいものあったら言ってよ。月組はなんでもすぐにそろえてくれるからさ」
「ありがとう、くれんす、アタシ、くれんす大好き」
「あはははは! いやいや、いきなりなに言ってんの。じゃ、あたしシャワー浴びたらすぐ仕事だから、ベッド直しといてね」
「オッケ。まかしといて」
久礼子は腰を上げた。浴室へ入る。
ベッドから飛び起き、叙瀬は鼻歌を歌いながらシーツを整えた。
叙瀬のMITからアラーム音が聞こえる。
不思議そうに叙瀬はMITをポケットから出した。
「はーい、叙瀬でーっす」
「お客様だよ。プレイ内容はそちらに送信しておいたから。リピーター。初めてのね」
「はぁ? 久しぶりじゃん、仕事すんの! しかもリピーター? 正気かよ?」
「……数少ないチャンスを逃さないように、真剣にやってね」
「はーい、ちょっと待っててね」
「いや、急いでくれる?」
「了解、りょうかーい!」
叙瀬は鼻歌をいっそう大きな音で歌いつつ、ベッドメイキングを続ける。
久礼子は浴室にこもった。
浴室の温度は快適に保たれている。四方を囲む壁の上部に、無数にちりばめられた微小な放水孔から霧のように柔らかな水滴が溢れた。
音もなく久礼子の裸体を水滴がまんべんなく飾ってゆく。
「ああ……またあいつかよ」
久礼子の口から吐息がこぼれた。固く目を閉ざす。