少女とスカイライン
春の日差しを浴びて色づいた草の香りが鼻をかすめた。
頭上には午前中の新鮮な太陽が輝き、眼下には満開の桜が風にそよいでいる。花びらが地に落ちる音が聞こえるようだった。
ざらついたコンクリート製の平たい屋根に学校の制服を着た少女があぐらをかいている。
つややかな波打つ髪が肩まで垂れていた。熱して練り上げたチョコレートののような褐色の肌が粉砂糖のような光を帯びている。
叙瀬だった。
住んでいる養護施設や学校から離れた場所にある廃屋に侵入し、叙瀬は一人の時間を過ごしているのだった。入学して間もない、地元の公立中学校は無断欠席している。
この廃屋は小学校以来、叙瀬の隠れ家だった。
近隣は一戸建ての立ち並ぶ住宅地だが、大半が主を失った廃屋で、街全体が廃墟と化しつつあった。
往年は都会のベッドタウンとして発展した都市だったが、もともと交通の便がよくないために、人口減少の影響をまともに受け、衰退の一途をたどっていたのだった。
人気のない周辺は、異様なまでに静まり返っている。
かつてはここで顔見知りになった年配の中年男もいつしか顔を見せなくなり、今は姿を消して数年がたっていた。
たったひとりで、叙瀬は熱心に携帯(MIT)をいじっている。
端末のあちこちには小さい傷があった。数年前に華伝技術(HEC)から発売された中古の端末、“桔梗 HE‐22L”だった。
MITは、中学に進むと同時に養護施設で配布されたものだった。叙瀬以外にも受け取った者は数人いる。
画面には、不特定多数とのコミュニケーションツールである“スカイライン”の画面が表示されている。
すでに、会話の履歴がずらりと並んでいた。
ついさっき、MITをもって初めてできた友人と会話しているのだった。
……
○兄弟のことですか? わたくしにはたくさんいますが……。
●違う。兄弟じゃないけど一緒に何十人も住んでる。あと、センセーがね、五人くらいかな。
○五人だけしかいないのですか? こちらにはたくさんいます。姉が三人、兄が五人、父と母、父方の祖父、祖母、母方の祖父、祖母、伯父伯母、叔父叔母……。
●いーなー! 誰か分けて! あたしパパとママがいないんだ。
○それは困難です。しかし……頼む事を試みます。わたしの父と母に、あなたの父と母にもなってくれるようにすすめます。
●お願い! こっちもお友達になるようにお願いするから。
○本当ですか? ではそちらのお名前を教えていただけますか? スカラネームではなく、あなたの本当の名前です。でなければあなたの友達といっしょにいるときにあなたの名前をよべないからです。
●美蘭戸 叙瀬だよ
○おや? 字が正常に表示されません。なぜでしょうか?
●見えない? おかしいなぁ……ちゃんと入れたつもりなんだけど……。
○はい。なぜかわかりませんが、生気の文字が表示されていません。なぜかすみません。
●別に~。気にしてねーし
○ひとまず、私の本名を教えます。芒宗鉞と申します。
●??? こっちもそっちの名前が読めないよ。ちゃんと字が出てないし。
○おかしいですね……会話履歴を見ても入力間違いはなさそうなのですが……。
●いいこと思いついた。直接、通話しようよ!
○了解しました! こちらからかけます!
●OK。じゃーお願い。
叙瀬は“スカイライン”の機能をメッセージ送信から、通話に切り替える。MITを持ち替え、頬に添える。
咳払いし、歯切れよく声を出した。
「もしもし?」
甲高い声が鼓膜をつらぬく。
叙瀬は眉をひそめる。なだめるように話しかける。
「ちょっと落ち着きなよ。よく聞こえないんだけど」
「XXXXXXXX!」
全く聞きなれない音の羅列だけが聞こえてくる。叙瀬は不審な顔付きでMITを見おろした。
「壊れてんのかな……」
耳にMITを当てる。
注意深く耳を澄ますが、聞こえるものは雑音まがいの奇妙な声だった。
「あ、これ英語かな……」
ふと叙瀬は納得したようにつぶやいた。曖昧な笑みを浮かべ、視線を宙にさまよわせつつ口を開く。
「えー、ワータシはー、ジョセ、デース」
「XXXXXXX」
「ミランド、ジョセー。OK?」
「XXXXXXX」
「あかんわ」
肩を落とす叙瀬。
だが、聞こえてくる音を耳にしているうち、繰り返される単語を把握した。
「ツンフイ」
叙瀬は途方にくれた。
「……って、名前かな……あ、電話切れた」
MITを持ち替え、画面を見た。
○なにやら、話せませんね。
●そーだね。
○しかし、わたしは日本語を勉強します。そうすれば、会話が可能になるでしょう。
●ありがと。
しばらく世間話に花を咲かせた後、翌日にふたたび連絡する事を約束する。
会話が終わり、叙瀬はMITを眺めていた。
自動車のエンジン音が聞こえる。重々しい騒音のほうへと目をやると、数台の大型トラックが見えた。荷台に建設機械を搭載している。
トラックは街の入り口周辺に止まると、次々と機材をおろし、廃屋を取り壊し始めた。
突如湧き起こった騒音に、叙瀬は耳をふさいだ。