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聖人と少女

「見て!」

宗鉞の耳に声が飛び込んだ。

難民の少女が背後から声をかけていた。

ヘルメットをかぶっているように、物思いに没入していた宗鉞は顔を上げた。冷えた秋の風から朽ちた葉の匂いが漂っている。

天王町の検問所から、河沿いに下流側へ歩いてしばらく経っていた。すでに日は暮れて、夕闇が辺りを満たしている。

暗闇の中にたたずむ三人にの前に、まばゆい光の柱が幾重にも重なって構築された壮麗な市街地が出現していた。

内戦で荒廃した日本ではめったに目にすることのできない華美な光景に、難民の少女たちは、ぽかんと口を開けてその壮麗な光景に見入っていた。

「すごーい、なにこれ……」

「初めてナマで見た」

かすれた声を潮の香りに満ちた微風が運ぶ。

人が触れていたものに残った体温のような潮風が宗鉞のうなじを撫でた。

「“みなとみらい”地区だよ。ヨコハマの中心部さ」

「すっごーい、きれい」

「大きい。こんなの見たことない」

「今やヨコハマは世界有数の大都市だからね。環太平洋の資本が集積される重要な拠点になってるんだ」

「どーゆー意味?」

「世界中のお金が集まる場所ってこと」

空は煌々と照り映える“みなとみらい”の光を受けて、にじんだように赤らんでいた。

「もう少し歩くよ」

宗鉞は言い捨てて、棒立ちになっている少女を尻目に、さっさと歩き出した。

「待ってよお!」

「足痛い!」

文句を言いながら、もつれ合うように少女二人は宗鉞を追う。

昼のように明るい市街地に三人は入っていった。

生温かい湿気を含んだ生臭い海の匂いが周辺を包んでいた。

いたるところに店が立ち並び、その全てが派手なネオンや3D映像を空中に投影する看板で着飾っている。

夜闇が駆逐された地域になると、人通りが増えた。

きらびやかな服装から、破れはてたぼろをまとう人まで、肌の色も様々な色彩豊かな人波が、広い道を流れている。

二人の少女は目を輝かせ、せわしなく頭を左右にめぐらせている

「行くよ。はぐれないでね」

宗鉞の横に少女が並んだ。少女の身長は、宗鉞よりも頭一つぶん上にある。少女の腕が宗鉞の腕に絡まった。

「わかったよ。これでよくない?」

宗鉞は何か言おうとして口を開いたが、何も言わなかった。作業着をとおして体温が伝わってくる。

「照れてる? やっぱかわゆ!」

満面の笑顔を向ける少女に、不機嫌そうな視線を投げる。無言で先を急いだ。

三人は港につながる河川沿いの道をそれた。若干、通行人の数が減り、同時に裕福そうな格好が増える。

壁のように立ち並ぶ、いくつもの高層ビルを横目に通りを進んだ。

ほどなく、道の行く先に巨大な白い屋根が見えた。

巨大な天井が、激しい起伏で波打っている。

高級ホテルと広大な展示会場との複合施設コンベンション・センター、“パシフィコ横浜”だった。

横浜CTCの自治行政機関、協調条約都市議会で権力を振るう中華共産解放区(中共区)の政治家や、ヨコハマで強い勢力を誇る華僑一族が居住区として選んだ区域である。

“芒裕厳基金”の事務所は“パシフィコ横浜”の敷地内にあった。

展示会場にはさまざまな店舗が密集しており、そのほとんどが漢字の看板を掲げていた。

行き交う人間も中共区人民(解放区民)や東南アジアの浅黒い肌をもつ人々の割合が多くなった。

会場の端のほうに、小ぶりで質素だが上品な建物が見えた。そこの前で宗鉞は立ち止まる。

「着きましたよ」

そっけないようすで少女の手から自分の腕を引き抜いた。

「疲れた~」

甘えた声で少女が訴えた。もう一人の少女も言う。

「早く座りたい。眠くなっちゃった」

宗鉞はドアの端に張り付いている金具に指先を当てた。

指紋認証によって、ドアの施錠ロックが解除された。

ドアをくぐると同時に、建物の照明が点灯した。

内部は簡素なつくりだった。

玄関には装飾された壷が置かれている。壁には大きな絵画がかけてあった。かすかに線香のような香りが漂っている。

三人は廊下を進む。

建物内部は静まり返っていた。奥の部屋の前で、宗鉞は言う。

「じゃあ、事務所で登録するから、君はここで待ってて」

「えー!」

片方の少女が声をあげた。

「一緒がいい」

もうひとりが同意した。

宗鉞は、困ったような表情で二人を見る。

「わかったよ。一緒にどうぞ」

宗鉞は折れた。

三人が入った部屋は事務室だった。壁には事務ファイルが詰まった本棚と、がっしりした大きな机のある事務室だった。

年代物の机のせいか、かび臭い匂いが充満している。照明が暗いわけではないにもかかわらず、妙に陰気な雰囲気がただよう部屋だった。

壁に立てかけてあるパイプ椅子を少女たちにすすめ、宗鉞は大きな机についた。机に鎮座する情報端末ノートパソコンを起動する。

少女たちは椅子に座った。

「何すんの?」

「もう足痛い」

キーボードを叩きながら宗鉞は答える。

「慈善活動を受けたっていう証拠として、サインしてもらいたい書類があるんだ。あと、ちょっとした質問」

「偉いよね~、マジメにちゃんと仕事しててさ。まだちっちゃいのに」

「仕事なんてしたことない」

「ていうかアタシ、学校もあんまり行ってないし」

「……じゃ、質問始めるから」

宗鉞は二人のアタシ、騒がしいほうに声をかけた。

「はーい」

薄汚れて同じように見えていたが、返事をした少女は目や鼻、唇が普通より大きめだった。丸みを帯びた鼻先が庶民的な印象を与える顔つきだった。

目を輝かせて宗鉞の質問を待っている。

宗鉞は不安げに端末の画面を見た。

そこには、検問所で難民から聴取した情報が表示されていた。

横浜CTCは名目上、超国家的な都市を標榜していたが、治安維持と国家勢力の侵略から自らを防衛するために軍隊の駐留を許していた。その大半を中華解放軍とアメリカ軍が占めていた。

ヨコハマの有力華僑である芒家は解放軍の横浜師団の上層部と懇意であった。そのため、その当主の名を冠した“芒裕厳基金”は、解放軍の情報を参照することができる。

検問所で撮影された写真と目の前の人物を見比べながら、宗鉞は何度も名前を読み直した。

搾り出すような強張った声音で、質問を始める。

「君は……餅嘉もちよし叙瀬じょせ……だね?」

少女はほほえみを浮かべて返答した。

「うん」

「もちよし? で間違いない?」

疑っているように宗鉞は繰り返した。

「そうだよ。餅嘉叙瀬がアタシの名前」

「そうか……」

落胆したように宗鉞は声を落とした。

「ご両親は? 検問所で一緒にいた人はお父さん?」

「おっちゃんはヨコハマ来る途中で知り合いになったんだよ。アタシはパパとママとは別居してるから、一緒には来なかったの。ね」

もうひとりの少女が続ける。

「わたしの親でもない。全くの他人です」

「ふーん……。あ、そういえばきみの名前は?」

叙瀬の横に座っている少女に声をかけた。

上目遣いに少女は宗鉞を見た。視線だけで距離をおこうとするかのような怖れに満ちた目つきだった。

家利いえとし久礼子くれこ

「ありがとう」

はじめはぎこちなかった宗鉞の口調が、恐慌から回復したかのごとく、落ち着いていた。

「そっちも名前教えて」

叙瀬が、宗鉞へ慈しむような眼差しを投げていた。

虚をつかれたように、宗鉞はあわてる。

「そうだった、まだ名乗ってなかったね、申し訳ない。

ぼくは、芒宗鉞。

中共区人民さ。もっとも住んでるのはずっとヨコハマなんだけど。

で、芒裕厳が出資してる慈善事業の“芒裕厳基金”で一応、管理的なことをやってます」

目を丸くした叙瀬が、感激したように大声を上げる。

「すごーい! まだ子どもなのに、頭良いんだね! 学校とか行かなくても良いの?」

突然、殴られたように宗鉞の体が震えた。まるで仇敵のように叙瀬を睨みつける。

叙瀬は驚いたようすで宗鉞を見返した。

宗鉞の口から、怒りに満ちた言葉が流れでる。

「そんなことはきみの知ったことじゃない。だいたいぼくは年齢的にはもう充分大人だ。もう子どもじゃない」

言い終えてから、宗鉞は顔を伏せた。

紅潮した顔に、汗の玉がいくつも浮かび出た。胸元のポケットからハンカチを出し、顔を拭う。

一方的に投げつけられた宗鉞の敵意に反発するように、叙瀬は怒ったように言う。

「は? どー見てもガキなんですけど?」

宗鉞はいきなり怒鳴りつける。

「バカにするのか! ぼくは成長しない病気なんだよ! ぼくは年齢的には大人なんだ!」

椅子が音を立てた。

宗鉞は立ち上がり、荒い息をついている。怒りと悲しみの混交した激情によって、顔が醜くゆがんでいた。完全に自制心をなくしていた。

あまりに急な宗鉞の激変に、叙瀬は困惑したようだった。もう一人の少女はおびえた様子で叙瀬の背後に身を隠している。

宗鉞は机を迂回して叙瀬に詰め寄った。

叙瀬はあわててなだめにかかる。

「ご、ごめん……アタシが悪かった。病気なんだから、しょうがないよね」

叙瀬の謝罪を全く聞き入れるそぶりもなく、宗鉞は相手の両肩に手をかけた。

悲鳴とともに、叙瀬の横から少女が飛びのく。パイプ椅子が傾き、床が耳障りな音を立てた。

異様な昂ぶりに全身を侵され、宗鉞は夢中になって叙瀬の首を締め付けていた。

押し潰されたうめき声が叙瀬の口から漏れる。丸く開いた唇から、赤い舌が突き出した。

「やめて!」

宗鉞の体が横へと飛んだ。床に転がる。

いったんは部屋の隅に逃げていた少女が、両手を突き出していた。宗鉞を突き飛ばしたのだった。

咳き込む叙瀬。

十二、三歳相当の体格しか持たない宗鉞だったが、バネが弾けるように飛び起きた。全身で少女に体当たりする。

少女は壁にたたきつけられた。

叙瀬に向き直った宗鉞は動きを止めた。赤く染まっていた顔色が見る間に白く褪めてゆく。

きな臭い火薬の匂いが、鼻をついた。

宗鉞に向って、叙瀬はまっすぐ銃口を向けていた。

「もうやめてよ! いざこざなんてもうみたくない! やっと戦争から逃げてきたのに!」

ほとんど泣き声で叙瀬はわめいた。

一瞬のアタシに、宗鉞は叙瀬の腕から銃器を取り上げた。怖ろしく手馴れた動作だった。

宗鉞の手にはナイフがにぎられていた。青い刀身は平均的な大人の手のひらほどの長さがあった。

「きみ、ぼくに武器を向けたら、今ここで殺してもこっちには何の落ち度は無いことになるんだよ?」

異様に高揚した口調で、宗鉞は言った。叙瀬の胸元にナイフの切っ先を突きつける。

叙瀬はおびえた様子で命乞いする。

「やめて! 殺さないで、何でもするから!」

うわごとのように宗鉞は早口でしゃべる。

「だめ! ここではぼくの命令が絶対なんだ。きみの言うことなんか聞かないぞ。きみもあいつもここで死んでもらう」

「なんで? どうして殺すの?」

叙瀬は心底不思議そうに宗鉞の目を覗き込んだ。

「どうしてだって?……」

宗鉞はふと当惑したように言葉を切った。せわしなく視線をめぐらせた後、言葉を吐き出す。

「理由なんかぼくに聞いたって知るもんか! きみのほうが知ってるんじゃないのか?」

叙瀬は目を閉じた。目尻から涙があふれる。

「何でもするから、命だけは助けて! ほら、エロスしてもいいよ」

叙瀬は、ぼろぼろになったコートをはだけた。中は白色系統のカーディガンを着ていた。泥で汚れているため、正確な元の色は判別がつかない。

立ち昇る獣のような脂じみた体臭を宗鉞は真っ向から浴びた。

めまいを覚えたようすで、宗鉞は額を押さえた。呼吸が激しくなる。叙瀬にのしかかった。

「そんなことには興味ないんだ。相手ならありあまってるし、楽しいと思ったこともない。ぼくにとってはそんなことはしょせんママゴトに過ぎない」

宗鉞は叙瀬に馬乗りになった。

苦しげに叙瀬は声をあげる。

「じゃあ……じゃあ、アタシは二人分の命だから、あの子は助けてあげて」

叙瀬は部屋の隅で震えている久礼子を示して、言った。

「二人分? 何を言ってるんだい?」

「カレシの形見を横浜まで届けるって約束してたの。で、形見は今持ってる。だから、アタシを殺したら二人分って数えてよ。で、あの子は見逃がしてあげて。

そうしてくれるなら、殺していいよ」

虚をつかれた面持ちで宗鉞は質問する。

「え? 殺すだって? ぼくがきみを?」

叙瀬は涙を溜めた目でうなずいた。

「そう。そっちはアタシを殺したいんでしょ?」

「だから、なぜ?」

宗鉞は金切り声を上げた。

「わかんない。でもそうおもった」

叙瀬は宗鉞を避けるように顔をそむけた。

宗鉞は押し潰そうとするように、叙瀬に顔を近づける。

「本当にいいの? きみだけが死ぬって、それで納得するのかい?」

不意に叙瀬は宗鉞を睨みつける。

「どーしてもいやなら、いまここで自分で死ぬ!」

宗鉞のナイフに自らの体を押し付ける。

「真剣なのかい? きみは……殺されても平気なのか」

宗鉞の声には恐れが忍び込んでいた。

対して、叙瀬はふてぶてしい態度でふてくされた。

「平気じゃない」

「じゃあ、なぜ自分から殺してくれ、みたいなことを言うんだよ……?」

「自分で言ったんじゃん、自分で何したいかわかんないって、アタシが知ってんじゃないかってさ」

観念した口調で叙瀬が投げつける言葉に、宗鉞は苦笑いする。

「屁理屈だね。でもよりによって自分の命を……」

ふと生真面目な顔付きに戻り、宗鉞は低い声で訊ねる。

「ちょっと聞かせて欲しいんだけど……あの子はきみの姉妹なの? かばってたけどさ」

「違うよ。ただの友達だもん。でも、誰かが目の前で死ぬのを見るくらいなら、今度は自分が死ぬよ……」

叙瀬は記憶をさぐるような遠い目をして言った。厚ぼったい唇が痙攣するように震える。

「叙瀬ちん……」

おびえて固まっていた久礼子が泣き声をあげた。

宗鉞は感銘を受けた顔付きで叙瀬をじっと見つめた。瞳には狂おしい白い光がくるめいている。

「じゃあ、本当に殺すよ」

異様な輝きを帯びた宗鉞の双眸を、まっすぐに叙瀬は見返した。

ナイフの先端が、ゆたかに盛り上がったカーディガンの布地にじりじりと埋まってゆく。

叙瀬は眉をひそめた。

「痛……!」

ナイフを持つ宗鉞の手は、わずかに揺れている。手のひらが汗で濡れていた。歯を食いしばり、宗鉞はナイフを両手で握りなおした。

切っ先が離れ、緊張が解けた叙瀬の口から長い息が漏れた。

宗鉞はふたたびナイフを突きつける。呼吸がせわしなくなっていた。口を開き、喉を鳴らした。

ゆっくり刃の光が降りてゆく。

叙瀬の体がうごめいた。うめき声をもらす。

宗鉞の手が、叙瀬の肩を押さえつけた。

苦悶の表情を浮かべた叙瀬は、体を固くする。蒼白になった顔に汗がいく筋も流れた。

ナイフの柄に感じるわずかな抵抗を押しのけ、宗鉞は刀身を押し進める。

「あっ」

叙瀬が悲鳴をあげた。宗鉞は神妙な面持ちで尋ねる。

「痛い?」

「うん……!」

「ごめんね」

叙瀬のうえに覆いかぶさり、宗鉞はすこしずつナイフを降ろしてゆく。叙瀬のカーディガンに赤黒い血がにじんだ。

その苦悶を何一つ見逃すまいとしているかのように、宗鉞の目は叙瀬の顔に吸い寄せられていた。あたかも、叙瀬以上の痛みに苛まれているかのごとく、宗鉞の顔はおしひしがれている。

痛みと緊張のせいか、朦朧となっているようだった叙瀬の落ちかかっていたまぶたが、目覚めたように上がった。

澄んだ瞳が宗鉞を射た。

視線が繋ぎ合わさったかのように、二人の目は互いの眸に釘付けになっていた。

叙瀬の両腕が宙に浮いた。

手のひらが、宗鉞の背中に舞い降りる。

宗鉞を抱く叙瀬の腕に力がこもった。

接近する二人の体のあいだに挟まったナイフが叙瀬の体内に滑り込んでゆく。

宗鉞の顔が恐怖にゆがんだ。

「よせっ!」

おびえきった叫びを上げ、宗鉞は叙瀬の手を振り払う。体を勢いよく起こした。叙瀬の体から遠ざかる。

頭部に打撃をくらったかのように宗鉞の足元はふらつき、床にしゃがみこんだ。顔色は死人のように白くなっていた。

鈍く輝くナイフの先端に赤い球が震えていた。

宗鉞は手で鼻を覆った。

叙瀬の胸元に、握りこぶしほどの大きさにまでじくじくと広がっている血の染みが、肺腑をざわめかせる異臭を放っていた。

宗鉞は重苦しいカーテンの垂れた壁際へ駆け寄り、窓を開け放った。冷たい夜風が流れ込む。冴えた冷気をむさぼるように呼吸する。

床にあお向けになった叙瀬のかたわらに、久礼子が駆け寄った。

「ジョセちん! 大丈夫?」

叙瀬は顔をしかめて、あえいだ。

「痛い……でも、死ぬほどじゃないと思う。乳房ムネにちょっと刺さっただけっぽいから」

久礼子は叙瀬のカーディガンを捲り上げた。血液に汚れたワイシャツの襟を開く。

平均以上に隆起する叙瀬の乳房に、短い創傷が彫りこまれていた。口を開けた傷口から、すこしずつ血が滲み出ている。

一見して、傷は浅いと見て取れた。久礼子は安堵したように泣き笑いした。

「ジョセちん、ムネでかいから……でも、無茶だよ、解放区民チャイナ相手に駆け引きしたって、あいつらに日本の常識なんか通用しないんだから」

「そーなんだ、今日も物知りだね……でも、なんかわかんないけど、変な気になっちゃってさ。それに……」

気の抜けた虚ろな眼差しで、叙瀬は久礼子を見る。

「さっき、わかったんだ……」

消え入るような声でつぶやいた。

久礼子が尋ねる。

「何が?」

かすれた声で叙瀬は答える。

「この子を、助けてあげられるのは、アタシだけ」

驚いたような鋭い視線で、窓際の宗鉞は、倒れたままの叙瀬を見据えた。いきりたって怒鳴る。

「だから、ぼくが最後までやらなかったとでも言うのかい? 身勝手な妄想だよ、そんなこと! 君にそんなに価値があるはずない、体ひとつしか資本のない日本人の難民なんかが!」

無言で叙瀬は宗鉞へ目を向ける。

叙瀬の眼差しを避けるように、宗鉞はふたりに言い放つ。

「出て行け!……いや、ここから出るな! 誰か人を呼ぶ! それまでここを動くんじゃない、わかったな!」

茫然とする二人を残し、宗鉞は風のように部屋から出て行った。

後には、宗鉞が流した汗の残り香がかすかに渦を巻いていた。


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