ここに”トレイル”があるから
第一章 この町で
立山連峰を望み、少し歩くと海に辿り着くことのできるこの町で生まれ、この町で育った。
幼少期は小児喘息を患っていたせいもあり、とても病弱だった。
運動音痴なのは、この頃、全く運動しなかったことだと今でも思っている。
病院に通うことが生活の一部だった僕にとって、注射に泣きわめくまわりの子供がとっても弱虫に思えたっけ。
寒風摩擦をして鍛えたこともあり、小学校高学年の頃には、風邪もひかなくなっていた。
インフルエンザで学級閉鎖があったときも、ピンピンしていて、他の人の給食まで食べていた。
いつも真っ暗になるまで、外で遊んでいたね。
順番に家に帰り、最後の友達がいなくなるまでずっと。
でも、からだは小さく、いつも前から数えてすぐだった。
一番前になったことだけは、なかったけど、一番後ろが前から4番目。
前から4番目になったのは、中学生になってからだったような気もするけど。
いつもいつも眺めているばかりのあの山に登ったのは、小学六年の頃。
この町の子供は必ず登る。
山と言えば、”立山”。
たぶん、富士山よりも有名。
小学校、中学校、高校とどの校歌にもでてくる。
海の向こうに3000メートル級の山を望むことができる景色はこの町で育った僕たちの誇りであり自慢である。
その立山への登山なんだけど、頂上付近で気持ちわるくなってもどした記憶しか残っていない。
胃が強くないのは今も同じだ。
もしかしたら、高山病なのかもしれない。
未だに富士山に登ったことがないので定かではないが。
山に近い環境で育ちながら、山に登った記憶はこの時くらい。
今では考えられないし、実にもったいないことだ。
第二章 そしてこの町で
高校までを近くの海から山々を臨むことのできる町ですごした僕は、1年の時を経て、この町にやってきた。
風の向きがかわると、えも言われない匂いがするこのおだやかな町で4年間を過ごすこととなる。
この町からも山を臨むことができた。
美しい姿から富士山とも対比され、「西の富士、東の筑波」と並び称される筑波山である。
冬には、冷たい筑波颪が吹いていたっけ。
そうそう、この町に住み始めた頃は、行政でいうところの村で人口4万人の日本最大の村。
秋には、町村が合併し、ひらがなの市にかわったけどね。
結局のところ、毎日眺めていた筑波山には、自分の足で登ることはなかった。
頂上付近の駐車場までは、何度も友人の車やバイクでいったけれども。
なぜか筑波連山の加波山には、ハイキングで登ったっけ。
この筑波山の登ることになるのは、この町を離れて十数年後のことである。
第三章 この町ではじめた(前編)
筑波山を眺めてすごした日々から、10数年の時がたっていた。
都会と観光地を合わせ持ったオシャレな?この町で暮らしていた。
山下公園や港の見える丘公園にも歩いていくことができる、そんな場所だ。
そのオシャレな場所には、とうてい似つかわしくない僕がいた。
40にもうすぐといった年齢。
お腹を突き出し、ちょっと体を動かしただけでも、汗びっしょりになり、肩で息をする。
巷ではメタボという言葉ががはやりだした頃であり、典型的なメタボであった。
それは、夏真っ盛りの8月中旬のことだった。
僕はダイエットを始めることを決めた。
なぜ、ダイエットをはじめようとしたのかは、覚えてはいない。
MBTを履いてとにかく歩く。
これが、僕の決めたダイエット方法。
当時、神奈川県内では、元町にあるお店ぐらいしかこのMBTを取り扱っていなかった。
休日には、MBTを履いて家の周りをとにかく歩いた。
幸いなことに家の周りには、観光名所や公園が多く、いろんなコースをとることができた。
山下公園、港の見える丘公園、大桟橋、みなとみらい、根岸森林公園に本牧山頂公園…
3時間位かけて。
飽きてくると、新しいコースを歩く。
横浜ベイサイドマリーナ(現アウトレットパーク横浜ベイサイド)まで遠回りしていったこともあったなあ。
早く着きすぎてまだお店が開いていなかたっけ。
国道1号線を東京方面に。
あの時は、大型トラックの排気ガスなのか空気も悪く、気分もすぐれなかったので鶴見駅で電車に乗り、帰ってきたっけ。
そして、雨の休日は、トレッドミルの上で歩く。
この町で僕はダイエットをはじめた。
第四章 この町ではじめた(後編)
ダイエットをはじめて3ヶ月がすぎた。
体重は10キロ減っていた。
11月20日の夜のこと。
僕は、ジムにいた。
幽霊会員の僕は、今までインストラクターと会話することもなかったのだが。
「測ってもらえますか?」
僕は、体組成計を指差した。
計測後の会話。
「すこし体重を落としたほうがいいですね。」
「10キロ落としたところなんですが。」
「そうなんですか?どんなふうに落とされたんですか?」
「ひたすら、歩いてですが…」
「歩くだけではもう落ちませんよ。若いんだから。走らないと。」
「はあ。どのように?」
「トレッドミルでしたら、1回最低30分。」
「はあ。走るなんて10分でもたいへんなんですが…」
「ゆっくりでいいんですよ。でもあくまでも時間ですよ。距離を目標にするとペースあげて終わらせようとするから。」
「…」
「では、目標決めましょうか。あと5キロですね。」
「いつまで?」
「年末まで。」
「えっ。あと1ヶ月ちょっとしかないんですけど。」
「大丈夫ですよ。なんとかなりますよ。食事は、夕食だけ気をつけてください。」
適当なこといいやがって。こっちは10キロ落としたばっかりで、あと1ヶ月ちょっとしかないんだぞ。それに30分も走れるかっつうの。
「はあ、頑張ってみます。」
へんなことになっちまった。
でも、信じてやるしかないか。
このところ、ほとんど体重落ちてないもんな。
ちょうどこの時期、仕事が落ち着いていたこともあり、それから、1ヶ月あまり、ジム通いをすることに。
休日は、早朝の外でウォーキングして、午後にジム。
最初は、30分走り続けることがキツくてキツくて。
それが、12月の終わりに近づく頃には、なんとか1時間走り続けることができるようになっていた。
そして、会社も冬休みに入り、明日から海外旅行。
つまり、年内最終日。
ジムにいき、体重計に。
マイナス5.1キロ。
クリア。
小さくガッツポーズ。
でも、担当のインストラクターは休みをとっていていなかった。
年が明け、ジムにて。
「やりましたよ。」
「すごいじゃないですか。」
「なんとかね。」
「やるようにと言って、やってくる人はほとんどいないんですよ。ちょっと、皆きて。」
まわりにいたインスタラクターが集まってきた。
「すごいですね。」
「やりましたね。」
「毎日、トレッドミルで閉店近くまで走っている人がいて、注目していたんですよ。それもここでは、トレッドミルしかやらないし。」
こうして、担当のインストラクター以外の人とも仲良くなった。
ダイエットをはじめて、15キロ減。
こうして、僕のダイエットはなんとか成功した。
この町で僕は走ることををはじめた。
まだベルトの上だけではあったが。
第五章 出逢い
年も明け、もう1月の半ば。
僕は、近所のウォーキングも飽きてきたので、鎌倉のハイキングコースを歩いていた。
北鎌倉駅から鎌倉アルプスに入り、鎌倉天園を左折し、港南台に向かう。
冬の朝は、歩く人もまばら。
僕は、のんびりと歩いていた。
前方から、一人の人が駆けてくる。
バックパックを背負って。
えっ~。
ここを走るの。
すごいなあ。
なんだか楽しそう。
しばらく歩いて、平坦なところで。
前後、確認。
誰もいない。
走ってみよ。
へえ~。
楽しいかも。
おっと、このシューズ(MBT)じゃ、上り下りは無理。ここまでだな。
翌週のこと。
違うシューズを履いて、ハイキングコースにいた。
そして、走ってみた。
楽しい~。
こうして、僕は「山を駆けること」と出逢った。
これが、トレイルランニングだと知るのは後日のことである。
第六章 ひとり
その翌週には、バックパックとシューズを購入していた。
全く調べずに購入したため、すぐに買い替えることになるのだが。
そして、休日のウォーキングがトレイルランニングにかわった。
正確にいうと、トレイルランニング&ウォーキング。
ちょっと走って、しばらく歩く。
そんな感じ。
そのコースは、バカの一つ覚えみたいにずっと同じだった。
港南台駅~いっしんどう広場~(ビートルズトレイル)~市境広場~鎌倉天園~(鎌倉アルプス)~六国見山~大船駅。
2月、3月の寒い時期は、8時くらいのスタート。
少し暖かくなってくると、6、7時のスタート。
ハイカーが増える前にトレイルを抜けるために。
5月だったかなあ。
六国見山の山頂で。
「こんにちは。」
「こんにちは。あんた、毎週のように通っているやろ。」
「おじさん、なんで知ってるんですか?」
「いつもそのカバン背負ったアンタに抜かされるからな。」
「おじさんも毎週ですか?」
「雨の日以外は、毎日やな。」
「毎日?」
「そや。毎日や。あんた、なんで走っとるのかわからんけど、頑張ってな。」
「ありがとうございます。」
僕のトレイルランニングは、いつもひとりだった。
第七章 それは挑戦なのか無謀なのかそれとも・・・
ある時、ある大会の存在を知ることとなる。
その大会は、日本山岳耐久レース。
通称「ハセツネ」。
71.5キロを24時間で。
申し込みが始まった。
前年までは、定員になるまで2ヶ月ほどあったみたいだけど、今年は、2週間ぐらいで定員になりそうだという情報をキャッチした。
ってことは、迷っていられない。
ええい、申し込んじゃえ。
おいおい、人生最初のレースがこれでいいのか。
5キロ、10キロもきちんと走ったことないやろ。
歩いても大丈夫っていう情報もあるし、歩くの好きだし。
(歩くことがキライだということが判明するのに時間はかからなかった。)
ちょっと、話はかわる。
この頃、はじめてあの材木座のセミナーに参加した。
というのもいつもひとりのトレイルランニング(正確には、トレイルランニング&ウォーキング)だったから、ほんとのトレイルランニングはどんな感じなんだろという気持ちで。
講師は、もちろんあの人。
記憶では、参加者は30名ほどで、半数が女性だったような。
全く、ついていけませんでした。。。
しばらく、ここには、近づかないでおこう。
ほんと、そう思った。
話を戻そう。
とにもかくにも、僕は、あの「ハセツネ」に申し込んだ。
それは挑戦なのか無謀なのかそれとも単にアホなだけなのか。
今だったらわかる。
3番目だということが。
第八章 こころみ
「ハセツネ」に申し込んだ僕は、7月から試走にいく。
“試走”というよりも“試歩”に近いものである。
このレースに出場する知り合いもいなくて、全てひとりで。
知り合いがいたとしても僕の歩きに近いペースにあわせてくれるはずもないので、やっぱり、ひとりだったかもしれないが。
新・分県登山ガイド「東京都の山」の巻末にある「日本山岳耐久レースのコースを歩く」をたよりにコースを廻ることに。
本ガイドでは、コースを8分割しているが、そのとおりにいこうとすると、コース距離よりもアプローチ距離のほうが長い場合があるので、そこは自分なりにアレンジをする。
また、本ガイドでは、レースでは通らない市道山山頂や生藤山山頂を歩くことになっていたため、そこはガイドどおりに実際に歩くことにした。
7月に入り。
僕のひとりでの“こころみ”は始まった。
はじめての武蔵五日市の駅。
今後、この地に何度も訪れることになろうとはこの頃は、思いもよらなかった。
スタート地点に向かう。
そして、スタート。
しばし、進んで
「???」
こんなことの繰り返し。
沢戸橋のほうにいっていました。
って感じ。
道標みても、山や峠の名前わかんないから。。。
そんなこんなで、道中、水がなくなり、ヨメトリ坂を下ることに。
みっ、みず。
と泣きそうになりながら、歩いても歩いても林道につかない。
まして、ここはコース外。
ようやく林道にでた。
でも、自販機がない。
命からがらとはこのこと。
あ~、初日から散々。
小中学生の夏休みがはじまった平日のこと。
しとしとと小雨が降っていた。
バスで都民の森までいく。
バスから降り立ったのは、僕を入れてたったの3名。
残り、2名はハイカー。
そして、スタート。
静寂な空間が続く。
人の気配がない。
そんな中、地図を見ながら進む。
もちろん、道迷いあり。
ここでいったん、ロードにでて。
ここが、あの月夜見第2駐車場ね。
えっ、ここ降りるんですか。
滑ってコケちゃいました。
レースだと、真っ暗だし。
惣岳山への登り。
ここは、ほんとに泣きたくなりました。
大岳山近くでようやく、登山のご一行と遭遇。
数時間ぶりです。
人と会うの。
そして、夕方、ようやく御岳に。
ここでギブアップ。
ケーブルカーに乗りましょ。
えっ、貸切ですか。
誰もいません。
一応、夏休みでしょ。
ある日のこと。
山中でシューズの紐を結び直していたら、後方から駆けてきた人に声をかけられる。
「暑いですね。」
「そうですね。」
「試走ですか?」
「あっ、はい。」
「シューズ、おんなじですね。」
「色もおんなじですね。」
シューズはモントレイルコンチネンタルディバイド。
当時は、トレランのシューズの3分の2以上が、モントレイル。
そして、その大多数がコンチネンタルディバイド。
おんなじシューズ、おんなじカラーなんてことは、珍しくなかった。
数分間話をし、彼は元気よく駆けていった。
何日もかけて全コースをひとりで廻った。
暑い日も。
雨の日も。
え~、ここ登るんですか~
え~、ここ下るんですか~
え~、ここ通るんですか~
え~、ここ走るんですか~
え~、この道であってるんですか~
全コース廻るのに何日かかったのかについては、覚えてはいない。
何回、このコースに行ったかについても、覚えてはいない。
第九章 雨の今熊山
9月のとある日のこと。
自身は、ハセツネの試走に向かった。
もちろん、一人で。
天気予報は、曇り、そして下降気味。
八王子駅からバスに乗り、今熊で下車。
今熊山登山口で左折し、しばらく行くと本コース。
今熊神社をこえたあたりで、雨が降りはじめ、あっという間に、本降り、そしてどしゃ降りに。
走りはじめて10分もたっていない。
自身はあきらめて引き返すことに。
この雨の中、ぞくぞくとランナーが駆け登っていく。
レインウェアを纏うことのないTシャツだけのランナーも多い。
まじかよ。こいつらクレイジーだな。
って思っていると、一人のランナーから声をかけられた。
「以前、お会いしましたよね。」
「人違いだとおもいますけど。」
だって、ランナーの知り合いなんてほとんどいなかったから。
「人違いですか。これからどちらに。」
「やめて戻ります。」
「本番が雨かもしれないし、せっかくのいい練習になるのに。」
「ちょっと、この雨の中、進む自信ないですから。」
「残念ですね。」
「頑張ってください。」
こんなヤツらと一緒に走るのかよ。
自身がレースにでることって間違ってるのかなあ。
レースにエントリーした重大さに気がついた瞬間だったかもしれない。
そして、傘もささずにどしゃ降りの中、とぼとぼ歩いていた。
バス停に向かうため、右に曲がる。
ちなみに左に曲がると変電所。
そこに軽トラに乗ったおばちゃんから。
「よかったら、この傘使いな。」
それは、ビニール傘。
「あ、ありがとうございます。」
そしてその傘をさしてとぼとぼ歩く。
さっきの軽トラが止まっていた。
「どこまでいくの。」
「そこのバス停まで。」
「バスでどこまで。」
「八王子まで。」
「バスあんまり来ないから、途中まで送ってあげるから乗っていきな。途中まで行けば、バスも多くあるから。」
「ありがとうございます。でも、びしょぬれだし…」
「いいから、乗りな。」
軽トラに乗り込む。
「ところで、半年前くらいに、近くに越してきたんだけど、走っている人が毎週のように増えてきているんだけど、あれは何?」
自身はハセツネの説明をした。
おばちゃんは、最初は遠くの八王子駅まで行くつもりはなかったようだけど、結局、八王子駅まで送ってくれた。
そして
「よくわからないけど、そのなんとかってレース頑張ってな。」
「頑張ります。どうもありがとうございました。」
八王子の空は晴れていた。
今でも、今熊神社の近くを通るたびに思い出す。
名前も知らない、顔も覚えていないおばちゃん。
どうしているかな。
おばちゃん、あの時はありがとうございました。。
レースの名前、覚えていただけました?
第十章 スタートライン
いよいよ、レース当日。
早めに体育館に到着。
開いている空間に場所をとる。
あっ、敷物いるんか。
ブースみてこよう。
ここで、知り合い二人と会い、軽い会釈。
おそらく、この大会に参加する中で自身の知り合いはこの二人だけだろう。
一人は、8月に高尾山のセミナーで教えてくれたM社の社員の方。
15時くらいから始まって、夜までのセミナー。
そして、もう一人は、山中で声をかけていただき、同じコンチを履いていた方。
戻ってきたら、僕のバッグが移動されていて僕のスペースが小さくなっていた。
敷物必要でした。
ただ、ひとりで静かにスタートの時が来るのを待っている。
時がなかなか進まない。
とても長く感じる。
仲間で来ている人がうらやましく感じる。
そして、いよいよ。
グランドへ。
スタートラインに立つ。
スタートの号砲。
最後尾グループからのスタート。
人生最初のレースのスタート。
とても重要な”あるもの”を携帯していないことで後悔するにことなろうとは、この時は、まだ知らない。
第十一章 三頭山
24時間の旅が始まった。
遅いながらも変電所あたりまでは、皆と同様、走ることに。
そして、今熊神社からの登り。
すでにキツく。
入山峠近くになると完全に渋滞。
まあ、急ぐわけでもないですから。
早々と、ヘッドライトが必要に。
辛いなあ。
ようやく、第1関門浅間峠を通過!
ゆうに6時間が経過していた。
何でこんな辛いことしなきゃ。
何でライトつけて。
でも、楽しそうにしている人たちもいるね。
彼女達、チームエントリーしているのかな。
いよいよ、あの三頭山。
何度も何度も天を仰ぐ。
一歩の足が前にでない。
ようやく、三頭山山頂に。
時計の針は何時をしめしていたのだろうか。
少し休んで。
さあ、出発。
ハイドレーションのポカリを飲む。
ずずずっ。
ここで、ポカリがなくなりました。
”予備の水”なんて持っていません。
どうしましょう。
三頭山は、35キロを過ぎた地点。
給水ポイントである第2関門の月夜見第2駐車場は42.09キロ。
あと、7キロもある。
かなり、あせる。
三頭山を走って下ることに。
下りでどんどん抜いていく。
最後尾に近いところにいたため、まわりはとっても遅い。
走れば、追い抜ける。
下りの途中。
あわてるあまり。
痛っ!
左ひざをやってしもうた。
鞘口峠を通過。
風張峠のあたりって、こんなに長かったっけ?
水欲しいよう。
ひざ痛いよう。
そして、左ひざをかばうあまり、左股関節が。
まだ、つかないのか。
そうこうするうちに、右股関節までもが。
トボトボと歩く。
どんどん抜かれる。
もう、ダメ。
あそこで休憩しよ。
月夜見山で休憩。
もちろん、ここで休憩している人なんていません。
残りわずかで、月夜見第2駐車場なんだから。
痛っ!
痛っ!
あがらぬ足、痛む足を前に進めて、ようやく月夜見第2駐車場。
2時をまわっていた。
水ください。
すみません。水はもう、500ミリしかありません。
あとはポカリスエットになります。
ちょうど、自分の前の人で水が切れてしまったようです。
遅いと水ももらえんのか。
ポカリでお願いします。
ハイドレの中身がポカリだったからよかったようなものの。
でも、このまま前に進んでいいのか。
第十二章 大ダワ
前へ。
そう、決めて、月夜見第2駐車場を後にした。
「前へ。」が後悔にかわるまでには、そう時間はかからなかった。
駐車場の後の下り。
痛っ!
痛っ!
惣岳山への登り。
全く足がでません。
何度も天を仰ぐ。
どれだけ天を仰いでも、先には進まないことを知りながら。
惣岳山から御前山。
下って登る。
完全に脚がいかれました。
激痛です。
リタイアを決めました。
激痛が睡魔をかき消す。
これから先は、リタイアのために前へ。
そんな状況。
御前山からは、止まっている人以外は誰も抜いていない。
後ろに人がくるたびに道を譲り。
激痛で顔がゆがむ。
”ストック”を持ってこなかったことをとてもとても後悔することに。
”ストック”さえあれば。
夜があけて。
ようやく鞘口山を越えたところ。
後ろからきた選手に声をかけられた。
「大丈夫か?」
「かなり痛いです。大ダワでリタイアします。」
「この時間だったら、完走できるよ。まだ。」
「もう、痛くて痛くて。」
「オレのストック貸すよ。」
彼のストックは一本のTバー型でした。
もちろん、ものの貸し借りは失格行為です。
「ありがとうございます。でもリタイアしますから、結構です。」
「もったいないな。それじゃあ、先にいかしてもらうよ。」
彼を見送った。
その彼は、足をひきずり、ヨタヨタしていた。
人に貸すなんて言ってる場合じゃないだろ。
それじゃあ、アンタが完走できんへんよ。
この時間にここを歩く選手は、皆、手負いだった。
やっとのおもいで大ダワに到着。
6時15分。
僕は、係員に手でバツをあらわし、リタイアの旨を伝えた。
ここでレースは終了。
そして、テントに入ろうとしたその時。
「おーい、ひとり、リタイア者出たから運んでやってくれ。」
僕は、車の助手席に乗り込んだ。
ボランティアの彼は、友人がゴールしそうだということでリタイアの選手を運ぶことなく移動しようとしたいた矢先。
なので、その車でのリタイア者は僕だけ。
「三頭山の下りを走っていた時、脚を怪我してしまいました。」
「全部歩いてもいいんだよ。僕は近くに住んでいてね。毎年、出ているんだよ。この大会に。今年は怪我していてでなかったけど。」
「はあ。」
「変電所あたりまでは、皆に合わせて走るけど、その後は一切、走らない。その代わり、絶対に止まらない。飯食べるときも。それでも17時間台でいけるよ。」
そんな会話を車の中でしていた。
五日市会館に到着した。
僕は、車から下りた。
「ありがとうございました。」
僕は、体育館にいき、荷物をまとめ、ゴール方向に一礼をし、ひとりで会場を後にした。
足をひきずりながら。
僕の人生最初のレースはこうして終わった。
悔しさは、なかった。
第十三章 大ダワのムコウ
大ダワのムコウには、大岳山も日の出山も金比羅尾根もなかった。
むろん、フィニッシュゲートも。
でも、悔しさは、なかった。
己の力をわかっていたからだろうか。
それとも完走に対するこだわりがなかったからだろうか。
こだわりがあれば、多少は情報を集めて対策を練っていたに違いない。
鎌倉のハイキングコース以外に見つけたフィールドが楽しくて。
って感じだったかな。
ひとりなんだけどね。
コースに通った。
立川のホテルに泊まり、3日連続。
八王子のホテルに泊まり、2日連続。
ってことも。
歩きに近くて遅いから、なかなか進まなかったけど。
この祭りの準備が楽しかった。
そして、祭りが終わった。
つい先日のことなのに、遠い過去のことのように感じていた。
むしろ、夢の中の出来事のような気さえした。
ただ、傷ついた脚が、その事実を覚えていた。
当然のごとく、しばらくの間、トレイルに踏み入ることはおろか、走ることもできなかった。
11月に入り、陣場山のトレイルレースがやってきた。
あの大会前に申し込んでいた唯一のレース。
あの日以降、一度も走ってはいなかったが、出場することにした。
案の定、下りはじめて、すぐに痛みが再発。
ここで、痛めると非常にツラい。
後ろに人がくるたびに道を譲り。
まるで再現フィルムのように。
そして、ダラダラとしたあの長い登り坂。
あの長い登り坂もあとわずか。
制限時間に間に合わない。
ダラダラとしたあの長い登り坂で一緒になったランナーと声を掛け合い、最後のトレイルを走ることにした。
間に合うのか。
確か、制限時間の1、2分ぐらい前だったかと。
ゴールしたのは。
順位は指で数えることができた。
後ろから。
そう、これが人生最初の完走。
そして、トレイルに踏み入ることはもちろん、走ることさえなく、年の瀬をむかえようとしていた。
第十四章 セミナー参加
まもなく、一年が終わる。
来年は、もうちょっとトレランやろっと。
そう思って。
脚もよくなってきたし。
このセミナーに申込。
あのセミナーに申込。
そのセミナーに申込。
1月に3つ。
2月に2つ。
・・・
1月半ば。
あの材木座のクラブハウスへ。
あの日以来。
タイムアタックやって。僕は15分あまり。
遅すぎです。
ほぼ、最下位。
あっ、半数は女性です。
それをいれてです。
階段のぼりでタイム計測。
衣張山からの下りでタイム計測。
1分間で何回腹筋できるかを数えて。
このセミナー辛いです。
そして、1月末。
高尾山~陣場山往復。
雑誌の取材がきていました。
モデルの女の子はとってもかわいかったです。
遅くても大丈夫ですか。
って、行く前に聞いたのに。
僕よりもはるかに遅い子がいて。
スタッフがそっちについた。
おかげでエラい目にあった。
他の人は、速いし。
雪の上、すべるし。
場所によっては、ドロドロだし。
完全に心が折れました。
それにしても、はるかに遅い子は、ゴールのケーブルカーのところで待てども待てどもきませんでした。
ケーブルカーが止まり、周りのお店が閉まり、真っ暗になった頃、戻ってきました。
2月に再び、高尾山。
別のセミナー。
前日に大雪。
ほんとにやるんですか。
ふかふかの雪の上を走る。
これは、楽しい~。
そして、雪だるまづくり。
これがメインですか。
今度は、大山。
あの材木座のセミナー。
なにっ!
道路凍結でバスがヤビツ峠まで登らないって。
ということで蓑毛から大山に登る。
2月の雪の大山で、軽装は、われわれ30人だけ。
途中の富士山がとてもキレいでした。
雪のうえ、滑る滑る。
雪があるところまででした。
きゃっ、きゃっ、と叫んでいられたのは。
そこからが、たいへん。
高取山、善波峠では、熾烈な後方グループでのブービー争い。
最下位は、人生はじめてトレランという男性がいましたが。
普段、運動していないのに、娘さんに勝手にセミナーに申し込まれ、道具を用意されて送り出されたとのこと。
その後もいろんなセミナーに参加。
武蔵嵐山に青梅に宮ヶ瀬湖・・・
あいかわらず、ひとりでの参加でしたが。
第十五章 仲間ができた
4月のセミナーで。
セミナーで何度かお会いしている方から声をかけられた。
「今度、一緒に走りませんか?」
仲間うちでよく鎌倉や葉山のトレイルを走るとのこと。
よろしくお願いします。
4月末の晴れた日に、僕は東逗子駅へと向かった。
もちろん、僕が一番、遅かった。
分岐では、常に皆に待ってもらった。
ようやく、僕に一緒に走る仲間ができた。
そして今も一緒に走る仲間だ。
最終章 ここに”トレイル”があるから
「ねえ、このトレイルどこに繋がっているのかな?行ったことある?」
「ないなあ?」
「行ってみる?」
「行こうか。」
「どっちいく?」
「たまには右に行こ。」
「あの下り、いいよね。」
「気持ちいいからね。まあ、その分登るんだけどね。」
「ちょっと、おもしろいトレイル発見したんだよ。」
「どこ?」
「これ以上、すすむのムリだよ。どうする?」
「撤退!撤退!」
「明日、雨だけど、どうする?行く?」
「関係ないでしょ。雨でも。」
「先にいっててください。」
「それじゃあ、先、いってるよ。」
「おーい。」
「こっち、こっち。」
「はやく。はやく。」
「走れ。走れ。」
「お待たせしました。」
今日もまた、トレイルを。
そして、明日も。
~ここに“トレイル”があるから~(完)
全てはこの一本のトレイルからはじまった。
当初は、ずっとひとりでした。
”遅い”というコンプレックスがあったんでしょうか。
話かけれられれば、答えるけれど、自ら声をかけることはしなかったですね。
おいおい。
今とは全然違うじゃないか。
なんて、声が聞こえてきそうですが。
一緒にトレイルを駆ければ、それだけで友達、仲間なのだろうけれど。
結局のところ、こうなのかもしれないと思う。
「黙っていれば、友達になれない。」
そんな皆さんといろいろなトレイルでお会いできることを楽しみしにしてます。
「トレイルを楽しみ、RUNを楽しみ、出逢いを楽しみ、会話を楽しむことができることを」。
「走ることが好き?」
と聞かれたら、おそらくこう答えるだろう。
「好きじゃない。」
「なぜ走るの?」
と聞かれたら、きっとこう答えるだろう。
「友達、仲間がいるから。」
そして
「なぜトレイルを走るの?」
と聞かれたら、こう答える。
「ここに”トレイル”があるから。」