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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼王丸

作者: ろく


 五つを迎えた月夜の晩に、母に捨てられ以来十年、奪い弑して生きてきた。

 縁の下に隠れた彼の前を、僧兵が泥を跳ね上げ駆け抜けていく。


 どこへ行った。

 どこに逃げた。


 鬼王丸め。


 じっと息を潜め、棍を手にした僧兵が過ぎるのを待つ。

 鬼王丸、と自ら名乗ったわけではない。気がつけばいつの間にやらそう呼ばれていた。

 母がくれた名も忘れて久しい。丁度良いと思い、それを自らの名前にした。

 黴た土の臭いと、血の臭いが鼻を突く。ぶんぶんと鳴る音は、蝿が飛び回る音だろう。すぐ側に鼠の死骸があった。

 しかし微動だにせず、全ての神経を僧兵へと集中させた。

 縁の下に、僧兵がぬっと顔を突っ込んできた。手にした灯りを巡らせる。

 だが、奥へと隠れた鬼王丸まで灯りは届かず、僧兵は口汚く罵って踵を返した。

 腹にじっとりと湿り気を感じた。先程斬り殺した僧兵の血だろう。

 その僧兵はまだ若いようだった。小坊主といっても良い程だった。彼は鬼が来た、鬼が来たと叫んで死んだ。

 しばしの後、僧兵の足音が遠ざかっていった。

 鬼王丸は縁の下から這い出て、足音を殺して森へと駆けた。

 懐には、僧院から奪った本尊がある。小さな物だが、見事な細工だ。売れば良い額になってくれるだろう。

 森は鬱蒼と茂り、足元に月影も届かぬほどだ。ほう、とどこかでじんわり梟が鳴いた。

 背後を振り返る。僧兵の姿はまだ無い。

 滲んだ汗を拭い、幹に背を預けてしゃがみ込んだ。

 懐から本尊を取り出し、包みを剥ぐ。仏の頬に刻み込まれた笑みは、まるで自分を嗤っているようだった。

 器量が良ければ、他の生き方も有っただろう。だがお世辞にも整ったとはいえない容姿は、鬼王丸が疎まれるのを助けるばかりだった。

 艶の無い痛んだ髪に、手入れなぞまるでされていないくすんだ肌。

 ぎょろりとただ大きいばかりの目は険が強く、それでいて陰気であった。

 頬に走る刀傷は、いつ得た物か知れぬ。傷は塞がっているものの、口を開けば皮膚が引き攣り痛みが走った。自然と口数は減り、表情も消えて久しかった。

 鬼王丸は本尊を包んでいた布で、腕の傷の血を拭った。観音堂を破壊した際に木片が飛び、腕を傷つけたのだった。

 ついでに布を裂き、止血を施す。犬を放たれたらすぐに居所がばれてしまうだろうが、何もせぬよりはまだましである。

 余った布で包み直し、本尊を懐に仕舞う。立ち上がり、森の奥へと足を運んだ。

 森の中央部には、ぽかりと開けた平地が有った。不自然な程に燦燦と降り注ぐ月明かりの中に、みすぼらしい庵があった。

 灯りに引き寄せられる蛾のように、鬼王丸はふらふらと庵に歩み寄る。

 ほぼ意味を成さない錠を壊し、中に足を踏み入れた。

 庵の隅には、布の塊が有る。

「おや、怪我をしているようだ」

 布の塊が声を発し、鬼王丸は咄嗟に腰の刀に手をかけた。

「怯えずとも良い。ただの盲僧だ」

 ごそごそと緩慢な動作で、僧が起き上がる。

 三十に手が届くか否やといった頃合の有髪僧だった。枯れ木のように痩せ衰えた、貧相な体をしている。

「こちらへおいで。手当てをしてやろう」

 破れた屋根から差し込む月影が、僧を照らしている。こけた頬に笑みを浮かべていた。

 優しげな人間ほど恐ろしいのだと、鬼王丸は知っている。だからじっと動かず、彼の様子を窺った。

 僧はやれやれといった仕草で肩をすくめ、鼻から息を抜いた。

「ほら、何も持ってはいない」

 言いながら、僧は袈裟を脱いで僧衣も諸肌脱ぎになった。

 見るからに貧弱だ。それに僧の物であろう錫杖も、彼の手の届かぬ位置にある。

 それでも警戒は解かず、そろそろと僧に近づき腰を下ろした。いつでも逃げられるように片膝を立て、いつでも斬れるように鍔に手をかける。

 僧はそっと、鬼王丸の腕に手を伸ばした。傷の在り処を確かめると、脱ぎ落とした僧衣を漁って軟膏を取りだした。

「毒か」

 久方ぶりに発した声は、低く掠れたものだった。鬼王丸の問いに、僧は伏せていた視線を上げた。

「まさか」

 小さく笑って、僧は掬った軟膏をぺろりと舐める。不味いとぼやき、眉根を寄せた。

「声からするに、まだ若いようだね」

 鬼王丸の腕の布を解き、僧は傷口に軟膏を塗りつけた。痛みに腕の筋が跳ねる。やんわりと鬼王丸の腕を押さえつけ、僧は布を手早く巻いた。

「しばらくは沁みよう。だがすぐに治る。安心しなさい」

 僧は手指の軟膏を、僧衣になすりつけて拭った。

「それにしても、今宵は見事な月夜のようだ」

 僧は破れた屋根越しに月を仰いだ。鬼王丸の疑問を感じ取ったのか、こけた頬に笑みを滲ませこちらに向き直る。

「盲と言えど、分かるものだよ」

 だが、と言葉を切った僧は少しばかり悲しげな顔をした。

「もしも過去へと戻れるのならば、目明であった頃に戻って、もう一度月を愛でたいものだ」

 僧は痩せた指を鬼王丸の顔に這わせた。

「こうして触れれば大概のものはみえるのだが、月は触れようもないからね」

 指は額から眉に、眉から瞼に、瞼から鼻に、鼻から唇に、唇から頬に、ゆるりゆるりと移動する。

「……もしも、過去へと、戻れるのならば」

 鬼王丸の呟きに、僧はゆっくりと頷いた。

「君なら何を願うかな」

 ふと、指を止める。

「おや、傷があるようだ。……痛かったろう」

 労るように頬を撫ぜ、僧は痛ましげな顔でそう言った。

 不思議な生き物だと、そう思った。

 はっと、鬼王丸は息を呑んだ。

 僧兵の気配を感じたからだ。まだ遠いが、声は確かにこちらに近づいてきている。

「追われているのか?」

 立ち上がった鬼王丸を、僧は見上げた。

 鬼王丸は逡巡した。

 もし僧が嘘を吐いているのだとしたら? 盲など真っ赤な嘘で、最初から全部演技だったのだとしたら?

 ならば不味い、顔を見られてしまった。この月明かりだ、はっきりと記憶に刻み付けられただろう。

 いや、盲は本当だとしても駄目だ。声を聞かれた。触れられた。触れればみえる、と僧は言った。

 僧兵の気配は近づいてきている。

「よし、匿ってやろう。隠れなさい」

 僧はごそごそと布の塊を広げた。

 この僧が、僧兵たちとは異門とは限らぬ。もしかしたら同門なのかもしれない。

 だとすれば、同胞を斬って本尊を奪った鬼王丸を、決して許しはしないだろう。僧兵たちに、鬼王丸を売るに違いない。

 僧兵の気配は近づいてきている。

「どうした、早く」

 僧の声が途切れる。

 鬼王丸が、一太刀に僧を斬り伏せたのだった。

 仰向けに僧が倒れる。

 血が広がった。

 ぜえぜえと荒い自分の呼吸がうるさい。

 僧兵の気配は近づいてきている。

 庵を後にしようとして、鬼王丸はやはり思い直し、事切れた僧のもとに駆けた。

 僧衣を漁る。金目の物は無い。

 軟膏と、袈裟を手に立ち上がった。

 僧兵の気配は近づいてきている。

 庵を飛び出す。

「いたぞ!」

「鬼王丸だ!」

「取り押えろ!」

 ひたすらに駆けた。

 月明かりの届かぬ森の奥へと、ひたすらに駆けた。

「逃がすものか!」

 追いついた僧兵の腹を斬る。それでもなお、鬼王丸を捕らえようと僧兵は手を伸ばす。

 その腕を斬り落とした。

 僧兵は最期に驚いた顔で己の腕を見て、そして息絶えた。

 同胞を奪われ、僧兵が叫ぶ。

 怒り狂った声を背に、鬼王丸は駆けた。

 ひたすら遠くへ、森の奥へと駆けていった。



 もしも過去へと戻れるのならば、孕み腹の母に伝えたい。


 その腹の子は鬼の子。


 どうか産み落としてくれるな、と。


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