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二夜

薄暗い階段を降り、重厚な扉を開けた瞬間、心臓の鼓動に重なるような重低音が鼓膜を震わせた。

そこは、現実という名の退屈から切り離された**「地下1階の武道館」**だった。

眩い光と、作り込まれた非日常

店内に入ると、まず目に飛び込んでくるのは、ピンクや水色のパステルカラーが踊るネオンサイン。カウンターの向こう側は、ただのお酒を作る場所ではない。そこは、一晩に何度も幕が上がるランウェイだ。

「おかえりなさい、プロデューサーさん!」

弾けるような声とともに、フリルとレースをふんだんにあしらった衣装の少女が駆け寄ってくる。彼女たちの笑顔は、営業スマイルというにはあまりに眩しく、けれど計算し尽くされた絶妙な距離感。グラスに注がれるハイボールですら、彼女たちの手にかかれば「魔法の聖水」に様変わりする。

熱狂と親密さの境界線

数分おきに店内の照明が切り替わり、アップテンポなナンバーが流れ出す。

カウンター越しの会話は一時中断。彼女たちはマイクを握り、狭いカウンターの中で完璧なステップを踏む。

推し色のサイリウムが、煙のたなびくフロアで弧を描く。

客たちのコールが、シェイカーを振る音と混ざり合う。

ステージが終われば、肩を上下させる彼女と「お疲れ様」の乾杯。

この場所において、客はただの飲兵衛ではない。彼女たちの夢を支える**「共犯者」であり、一番近くで見守る「最前列のファン」**なのだ。

祭りのあとの、心地よい残響

ふとした静寂の瞬間、氷がグラスに当たる「カラン」という音だけが響く。

隣の席では、常連客がチェキを眺めながら、さっきまでの熱狂を慈しむように酒を煽っている。

ユウヒは、目の前に広がる極彩色の光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「地下1階の武道館」――その言葉の意味を、今、網膜に焼き付けられる光と熱量をもって理解する。さっきまで外を歩いていた夜の静寂が、まるで遠い前世の記憶のように感じられるほど、ここは生々しい「夢」に満ちていた。

パステルカラーのネオンが、ユウヒの頬を交互にピンクと水色に染め上げる。空中に舞う微細な埃すらも、スポットライトを浴びてダイヤモンドの粉のように輝いて見えた。

「プロデューサーさん、こっちこっち!」

フリルの裾を跳ねさせながら駆け寄ってきた少女が、迷い込むように入ったユウヒの腕を軽く引く。その指先から伝わる体温は、この空間が単なる作り物ではないことを雄弁に物語っていた。案内された席に腰を下ろすと、冷えたハイボールが目の前に置かれる。

「今日は特別な魔法、かけておきますね!」

彼女がグラスの上で指を鳴らすと、ただの液体が、この熱狂を生き抜くための「聖水」へと昇華していく。ユウヒはそれを一口含み、喉を焼く刺激とともに、自分の日常が音を立てて崩れ去るのを感じた。

不意に店内の照明が一段と激しく明滅し、鼓動を急かすようなイントロが流れ出す。

そこはもう、酒を飲むための場所ではなかった。戦場であり、祭壇であり、そして誰かの祈りが形になったステージだった。

カウンターの向こう側で、さっきまで笑顔を振りまいていた彼女たちが、一転して鋭い眼差しでマイクを握る。完璧に統制されたステップ、空気を切り裂くようなコール、そしてフロアを埋め尽くすサイリウムの光の川。

ユウヒは、自分の右手が無意識にリズムを刻んでいることに気づく。

ステージの終わりを告げる最後の和音が響き渡り、照明が元の琥珀色に戻る。

「なんか……すごかった」

ユウヒの口から漏れたのは、語彙を失った者の率直な感嘆だった。耳の奥ではまだ大音量のビートが残響として暴れ、網膜には残像が焼き付いている。

パフォーマンスを終え、肩で息をしながらカウンターへと戻ってくるキャストの少女たち。フリルやレースが激しい動きで乱れ、彼女たちの肌からは生命力そのもののような熱気が立ち上っていた。その喧騒の渦中に、ユウヒは見覚えのある、けれど昨日とは決定的に違う輝きを放つ「個」を見つけた。

ハクだ。

昨夜、琥珀色の静寂の中でギムレットを傾けていた落ち着いた女性の面影は、今、極彩色のネオンの下で鮮やかに塗り替えられていた。視線がぶつかる。彼女の大きな瞳が、驚きと歓喜に一瞬で弾けた。

「あ! ユウヒだ〜!」

昨日までの落ち着いたアルトの声とは違う、高揚したソプラノが店内に響く。彼女は小走りにユウヒの元へ駆け寄ってきた。その頬は、度重なるアルコールのせいか、あるいは魂を削るようなステージパフォーマンスのせいか、林檎のように朱く高潮している。

「昨日ぶりだね! 偶然かな! 奇跡かな! まぁいいや、せっかく来たんだから、今日は心の底から楽しんでいってね!」

昨夜の「静」のハクが嘘のように、今の彼女は圧倒的な「動」のエネルギーを撒き散らしている。ユウヒはその熱量に圧され、椅子の上でわずかに身を引いた。

「ねぇねぇ、せっかくだし、またギムレットで乾杯しようよ!」

「あ……ああ、そうだな」

戸惑いながらも頷くと、ハクは弾けるようなウィンクを飛ばした。その奔放な魅力は、昨夜の「大人の女」の仮面を脱ぎ捨て、今この瞬間を全力で生きる「表現者」の顔になっていた。

「キャストへのドリンクは一杯1000円になりまーす! ありがとう、ユウヒ! 」

「は……ははは」

愛嬌たっぷりの「商売っ気」に翻弄されながらも、ユウヒは財布を取り出す。その無邪気なまでの強欲さと、それ以上に眩しい情熱。

「じゃあ、とびきりの作ってくるね! 待ってて!」

背中の大きなリボンを揺らしながら、彼女は再びカウンターの奥へと消えていった。残されたユウヒは、自分の胸の鼓動が、ギムレットの鋭い味を求めて激しくなっていることに気づき、苦笑いした。

ネオンの光を反射して怪しく、けれど美しく輝く二つのカクテルグラスが、カウンターの上で再会した。

「お待たせ!とっておきのやつだよ!」

ハクが差し出したグラスの中では、昨日と同じ鋭いライムの緑が揺れている。しかし、周囲を包むのは静寂ではなく、腹に響く重低音と客たちの熱狂だ。

「カンパーイ!」

彼女の弾けるような掛け声とともに、クリスタルの澄んだ音が重なった。ユウヒは迷わず、その冷たい液体を喉に流し込む。ジンの刺激が、熱を持った店内の空気と混ざり合い、脳裏を鮮烈に突き抜けた。

「……やっぱ、美味しいね」

ハクはグラスを置くと、満足そうにふにゃりと頬を緩めた。その表情には、ステージ上の凛としたプロの顔と、昨夜見せた大人の余裕が入り混じった、不思議な幼さが宿っている。

「うまいな。……昨日とはまた、味が違って感じるよ」

ユウヒの本音に、ハクはカウンターに身を乗り出し、大きな瞳をさらに輝かせた。

「ねー!でも、まさかユウヒがここに来るなんて思ってもみなかったよ。偶然って、本当に凄いね!」

「それは俺も思った。まさか、ふらっと入った店に君がいるなんて……想像もしてなかったよ」

二人は顔を見合わせ、どちらからともなく可笑しそうに笑い声を上げた。昨夜、あの静かなバーでの出会いが、この爆音の鳴り響く「武道館」へと繋がっていた。

「お互い、びっくりだね」

「……そうだな。でも、悪くない驚きだ」

喧騒の中、二人の間だけに流れる空気は、どこか昨夜の続きのような、けれど新しく書き換えられた物語の序章のような、不思議な親密さを帯びていた。

「しかし、ハクって名前は源氏名だったんだね」

ユウヒがふと思い至ったように口にすると、彼女は得意げに胸を張り、リボンのついた衣装を揺らした。

「そうだよ! 麻雀の『ハク』から取ってるんだ。こう見えて、私、麻雀は激強なんだから!」

意外な由来にユウヒは目を丸くした。昨夜の神秘的な白のイメージから一転、勝負師の顔が透けて見える。

「そうなんだ。……奇遇だな、俺も麻雀なら24時間打てるよ。強くはないんだけどね」

「えっ、めっちゃいいじゃん! ユウヒも打てるんだ」

ハクはまるで獲物を見つけた猫のように、身を乗り出して食いついた。その瞳はステージの照明よりもギラリと勝負への渇望に燃えている。

「雀荘とかは行かないの?」

「んー、友達が雀卓を持ってるからさ。基本は身内同士でしかやらないかな」

ユウヒの答えを聞いた瞬間、ハクの顔が今日一番の驚きに染まった。カウンターを叩かんばかりの勢いで、彼女の声が弾む。

「へえー! そうなんだ。家に雀卓があるなんて、凄いね! まさかそんなガチ勢だとは……」

「いや、友達の家だけどね!」

ユウヒがすかさずツッコミを入れると、二人の間に弾けたような笑いが起きた。

二人の盛り上がりに、背後から冷ややかな、けれど親しみのこもった声が割り込んだ。

「コラコラ、ハク。アイドルとは思えない会話が筒抜けよ?」

二人の盛り上がりに割って入ったのは、凛とした、けれど艶やかな響きを持つ女性の声だった。

ハクが弾かれたように振り向くと、そこには腕を組み、不敵な笑みを浮かべた女性が立っていた。彼女はこの熱狂の渦を束ねる指揮官であり、この箱の主。ハクは亀のように首をすくめ、ぺろりと舌を出した。

「あ、店長……じゃなくて、リーダー!」

「店長って呼ばないで。夢が壊れるでしょう? そんな賭け事の話で盛り上がる暇があるなら、ほら、さっさとマイクを握る!」

「店長」は呆れたように溜息をつき、ハクの背中を優しく、けれど力強く押し出した。その所作には、少女たちを預かる者としての厳格さと、深い信頼が滲んでいる。

「はーいリーダー! ……じゃ、ユウヒ、歌ってくるね!」

ハクは現金なもので、叱られたそばからすぐさま「アイドルの顔」へと切り替わった。彼女はユウヒに向かってパチンとウィンクを投げると、羽が生えたような足取りでステージへと駆け出していく。

「ははは、いってらっしゃい」

ユウヒは、彼女の背中を見送りながら、手元に残ったギムレットをゆっくりと煽った。

照明が暗転し、一瞬の静寂ののち、再び爆発的なイントロが店内の空気を震わせる。

マイクを両手で握り、ステージ中央でスポットライトを一身に浴びるハク。つい数秒前まで「麻雀激強だよ」なんて笑っていた彼女はもうどこにもいない。そこには、眩しいほどに研ぎ澄まされた「表現者」の姿があった。

目まぐるしくステージとカウンターを往復し、極彩色の光を振りまいていたハクが、ようやくユウヒの元へ辿り着いた。

「おかえり」

「ただいま……! ユウヒ〜、楽しんでますか〜っ!」

その足取りは目に見えてふらついており、語尾も甘く溶け始めている。

「だいぶ酔ってるね」

「うんっ! たくさんお酒、もらったあ……」

「それは良かったね」

「うん……」

重力に抗うのをやめたように、ハクがカウンターに身を預ける。

「いつもこんなに忙しいのかい?」

「う〜ん、今日は特別。プロデューサーさんたちが、いっぱいの日、かなあ……」

「そうなんだ」

「本当は、ユウヒとも……もっと、ゆっくり話したいんだけどねっ」

不意に、ハクが至近距離で顔を覗き込んできた。首を15度ほど、絶妙な角度で傾ける。上目遣いの瞳には、昨夜のバーで見せた静かな光とはまた違う、熱を帯びた本音が混ざっているように見えた。

「本当に……?」

「本当だよ?」

屈託のない、けれど確かな響き。ユウヒは不意を突かれ、耳の裏が熱くなるのを感じた。

「そっか……」

照れ隠しに視線を泳がせるユウヒを逃がさないように、ハクは弾んだ声で話題を切り替えた。

「そうだ! もう一つ、ユウヒにオススメのカクテルがあるんだ〜。えっとね、ベースはホワイトカカオでしょ、それにキャラメルと、紅茶と、ミルク……これをシェイクして、完成! はい、どうぞっ!」

差し出されたのは、雪のような白さに琥珀色が混じり合った、甘美な一杯だった。ユウヒが口に含むと、鼻腔を抜ける紅茶の香りと、カカオとキャラメルの濃厚な甘みが絶妙なハーモニーを奏でた。

「……いただきます。……うわ、めちゃくちゃ旨いなこれ、なんだこれ!」

「私の、とっておきだよ!」

「凄いな、自分で考えたの?」

「うんっ、凄いでしょ!」

「いや、本当に凄い。天才だよ」

褒め言葉に気を良くしたのか、それとも甘い香りに理性が負けたのか。ハクの視線が、ユウヒの持つグラスに釘付けになる。

「……ご褒美に、一口頂戴っ!」

「あ、おいっ」と言う間もなかった。彼女は我慢しきれなくなった子供のようにグラスを強奪すると、驚くべき勢いで飲み込み始めた。一口どころか、喉を鳴らすたびにカクテルは消えていき、最後の一滴までその細い喉の奥へ吸い込まれていった。

「俺の、酒……」

空になったグラスを呆然と見つめるユウヒの横から、凄まじい殺気が飛んできた。

「あ! コラ、ハクっ! プロデューサーさんのお酒、飲んじゃダメでしょ! ほら、ペッしなさい!」

いつの間にか背後に立っていた店長が、ハクの首根っこを掴む。

「ペッはもっといけないんじゃ……」

「もっと……もっと飲むぅ〜〜!」

ハクは完全に出来上がっていた。手足をバタつかせ、駄々をこねる姿は、まさに嵐そのものだ。

「すいませんね、プロデューサーさん。ちょっとこの子は楽屋へ強制連行していきますね。ほほほ……」

店長は優雅な微笑みを浮かべながらも、抗うハクを軽々と引きずり、奥のカーテンの向こうへと消えていった。

静まり返ったカウンター。手元には、彼女の飲み干した空のグラスが一つ。

ハクがいないのなら、この熱狂もどこか遠くの出来事のように感じられる。

「……さて、帰るとするか」

ユウヒは残りのカクテルの余韻を惜しむように飲み込み、席を立った。次は麻雀の話ができるだろうか。それとも、また別の新しい「オススメ」を教えてくれるのだろうか。

地下1階の武道館を後にするユウヒの足取りは、いつの間にか、昨日よりもずっと軽やかになっていた。

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