第1話 誕生日からの逃亡者
男は裕福な家の次男として生まれた。
兄は家業を継ぐために厳しく育てられたが、
次男の彼は、金と自由だけを与えられて育った。
努力も責任も知らないまま、
ただ「欲しいものは手に入る」という世界で生きてきた。
そんな彼のそばには、
物心ついた頃からずっと仕えている執事がいた。
彼はいつも静かに「お坊ちゃま」と呼び、
必要以上のことは言わない男だった。
年明け、彼は四十歳になる。
誕生日は1月1日。
世の中が祝うその日に、
彼だけは祝われないことを、
ずっと根に持っていた。
そして今は、2026年12月31日の22時だった。
誕生日まで、あと2時間。
「四十」彼はその数字を見ただけで、
背筋が冷たくなった。
「今のうちに逃げれば、
1月1日を迎えずに済む」
彼は本気でそう考えた。
幼稚な発想だが、
金があると人は簡単に暴走する。
「お坊ちゃま……」
執事は止めようとしたが、
次男は聞いていなかった。
彼は12月31日の23時、
自家用ジェットを飛ばした。
西へ、西へ。
地球の自転に“乗り”
1時間で経度15°、
時間を巻き戻すように進めば、
1月1日という“日付の壁”を
物理的に回避できると信じていたのだ。
日本を離陸し、
海を越え、
やがて上海の上空へ差しかかった頃。
機内の時計は、まだ12月31日23時のままだった。
「おい、起きろ!」
「坊ちゃま……私はいつの間にか眠って……」
「見ろ!見ろ! 」
「…はい?…」
「見て見ろ! まだ31日のままだ!
やっぱり西が正解だったんだよ!
時間が追いついてこない!」
彼は勝ち誇ったように笑った。
執事は静かにため息をついた。
「お坊ちゃま……それは、ただの時差でございます」
「違う! 俺が速いんだ!」
次男は胸を張った。
そして飛行機は日付変更線を越え、
気づけば、予定より1時間遅れで地球を一周していた。
着陸した空港の電光掲示板には、
「1月2日 0時」
と表示されていた。
男は目を疑った。
さっきまで12月31日だった。
今が1月2日なら——
1月1日、つまり彼の誕生日は、
世界のほうが勝手に
飛び越えてしまったことになる。
「どういうことだ。
私は逃げたのだぞ」
男は叫んだ。
執事は静かに答えた。
「お坊ちゃま……地球は、お坊ちゃまより速うございます」
しかし、誰も彼の誕生日を覚えていなかった。
家族も、友人も、秘書も、
まるでその日が最初から
存在しなかったかのように振る舞った。
世界は、彼の不在を埋めるように、
一日を丸ごと飲み込み、
先へ進んでしまったのだ。
男は空港のロビーで立ち尽くした。
誕生日から逃げたつもりが、
誕生日のほうが彼を見捨てたのだ。
結局、
祝ってさえももらえなかった。
そして彼は気づいた。
自分が得たのは、
ただ“ニセモノの12月31日”を
他人より少し長く楽しんだだけだった。
年齢も、祝われるはずだった一日も、
何ひとつ変わっていなかった。
イエスマンしかいないから、
四十にもなって、
やる前に解ることすら解らなかったのだ。
そして、世界で一人だけだろう、
四十歳の誕生日を迎えずに
四十歳になったモノは。
それでも——
気づけたのなら、まだ遅くはない。
彼は、生まれて初めて、
自分の足で帰る道を探し始めた。
・ ・ ・ !
まずは、空港から自宅へ。
執事は慌てて後を追いながら言った。
「お坊ちゃま、歩いて帰るのですか……
その、意味が……」
次男は振り返り、真剣な顔で言った。
「自分の足で帰るって、こういうことだろう?」
執事は深くため息をついた。
「そういう意味ではございませんよ~……
お坊ちゃま……お待ちくださいませ~!」




