第一話 君が俺を捨てた理由を、君の目の前で全て実現してやる
俺の名前は氷室透也。二十八歳で、市立図書館の司書として働いている。
窓の外では初夏の陽射しが眩しく照りつけていたが、俺の心はそれとは対照的に冷たく沈んでいた。目の前のテーブルには、四年間連れ添った恋人、早瀬美月が座っている。いや、正確には半年前に婚約した許嫁と呼ぶべきだろうか。
「透也、本当にごめんなさい」
美月はカフェのテーブル越しに、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。だが、その瞳の奥には明確な決意が宿っている。彼女は地方テレビ局のアナウンサーとして働く二十七歳の女性で、ルックスも良く、何より野心的だった。全国ネットのキー局で活躍することが彼女の夢だと、何度も聞かされてきた。
「婚約、解消させてほしいの」
予想していた言葉だった。ここ数ヶ月、美月の態度が明らかに変わっていたからだ。デートの回数は減り、電話も事務的になった。そして何より、彼女が局のプロデューサー、神宮寺蓮の話をする時の表情が、以前の俺を見る時とは違っていた。
「理由を聞いてもいいかな」
俺は努めて冷静に尋ねた。図書館司書という職業柄、感情を表に出さないことには慣れている。利用者からの理不尽なクレームにも、穏やかに対応してきた。今回も同じだ。
美月は少し躊躇った後、意を決したように口を開いた。
「透也は優しいし、一緒にいて楽だった。でも、それだけじゃダメなの。私には夢があるの。全国で活躍するアナウンサーになりたい。そのためには、業界で影響力のある人と一緒にいる方が確実なの」
「神宮寺プロデューサーのことか」
美月は頷いた。
「蓮さんは今、局でも注目されているプロデューサーなの。新しい企画もどんどん通るし、業界内での評価も高い。私が全国区のアナウンサーになるには、蓮さんと一緒にいる方が近道なの」
「要するに、俺では君のキャリアの足を引っ張るということか」
「そんな言い方しないで。でも、正直に言えばそうなの。図書館司書って、安定はしているけど地味じゃない。私の知り合いのアナウンサーたちは、みんな業界の人や医者、弁護士なんかと結婚してる。私だけ図書館司書の婚約者って言うのは、正直恥ずかしいの」
美月は自分の本音を吐露した。その残酷なまでの正直さに、俺は逆に冷静になれた。この女性は、最初から俺という人間ではなく、俺の持つ「肩書き」しか見ていなかったのだ。そして、より良い肩書きの男が現れたから乗り換える。それだけのことだ。
「分かった。婚約は解消しよう」
俺があっさり承諾すると、美月は少し驚いた表情を見せた。きっと、もっと食い下がられると思っていたのだろう。
「本当に? ありがとう、透也。あなたは本当に優しいのね」
美月は安堵の表情を浮かべた。その表情を見て、俺は確信した。この女性は、自分が俺を裏切ったという自覚すらない。ただ、より良い選択肢を選んだだけだと思っている。
「婚約指輪は返すよ」
美月は指輪を外し、テーブルの上に置いた。俺が三ヶ月分の給料を貯めて買った指輪だ。
「荷物は後日取りに行くから。鍵は郵便受けに入れておいて」
「分かった」
美月は席を立ち、最後にもう一度振り返った。
「透也、いい人見つかるといいわね」
その言葉を残して、彼女は颯爽とカフェを出て行った。
俺は一人残され、冷めたコーヒーをゆっくりと飲んだ。不思議と悲しくはなかった。むしろ、冷静に状況を分析している自分がいた。
その夜、俺は自宅のアパートで美月の荷物を整理していた。彼女が忘れていったタブレットが目に留まる。ロックはかかっていなかった。美月は俺を信頼していたのか、それとも単に油断していたのか。
好奇心に駆られて画面を開くと、メッセージアプリが開いたままになっていた。神宮寺蓮とのやり取りだ。
『美月、今日透也に言ったの?』
『うん、言った。あっさり受け入れてくれたわ』
『そうか。これで君は自由だね。今度の企画、一緒に頑張ろう』
『楽しみ! 蓮さんの企画、絶対に成功するわ』
俺は眉をひそめた。企画? そのメッセージを遡ると、添付ファイルがあった。開いてみると、それは番組の企画書だった。
『地方都市の隠れた文化財を発掘するドキュメンタリー ~忘れられた日本の記憶~』
タイトルを見た瞬間、俺は固まった。この企画内容、確か三ヶ月前に美月と話した内容とほぼ同じだ。
当時、図書館に郷土資料の寄贈があり、その整理をしていた俺は、地方の文化財や歴史的建造物が忘れ去られていく現状を知った。そして美月に、「こういう番組があったら面白いと思わないか」と熱く語ったことがある。地方に埋もれた文化財や、そこに関わる人々の物語を掘り起こす番組。視聴者の教養も高まるし、地方活性化にも繋がる。
美月はその時、「面白そうね」と言っていた。まさか、その内容を神宮寺に流していたとは。
さらにメッセージを読み進めると、確信に変わった。
『この企画、本当に透也が考えたの? すごいアイデアね』
『まあね。彼、図書館司書だから、こういう知識だけは豊富なのよ。でも、それを実現する力はないの。蓮さんならできるでしょ?』
『もちろん。君の恋人、いや元恋人か、のアイデアを形にしてあげるよ。美月が一緒なら、なおさらね』
俺は深く息を吐いた。なるほど、そういうことか。美月は俺との会話から得た情報を神宮寺に流し、神宮寺はそれを自分の企画として盗用していた。そして美月は、その神宮寺の「才能」に惹かれて俺を捨てた。
皮肉なものだ。美月が惹かれた神宮寺の「才能」は、実は俺から盗んだものだったのだから。
その夜、俺は一睡もできなかった。しかし、それは悲しみや怒りのためではなく、ある計画を練っていたからだ。
美月は俺を「地味な図書館司書」として切り捨てた。神宮寺は俺のアイデアを盗んで、自分の手柄にしようとしている。ならば、俺がやるべきことは一つだ。
美月が欲しがっていた全てを、俺が手に入れる。
神宮寺よりも優れた企画を世に出し、メディア業界で注目される存在になる。そして美月に見せつけてやるのだ。君が捨てた男が、君が夢見ていた世界で輝いている姿を。
翌日から、俺は行動を開始した。
図書館司書という職業は、一見地味に見えるかもしれない。だが、俺には一つの武器があった。それは、長年の勤務で築いてきた人脈だ。
図書館には、様々な人が訪れる。作家、学者、ジャーナリスト、映像作家、実業家。彼らは資料を求めて来館し、俺は彼らの調査を手伝ってきた。時には希少な資料を探し出し、時には専門外の分野でも適切な文献を紹介した。
そうして築いた信頼関係は、決して浅くない。
まず俺が連絡を取ったのは、映像作家の柏木誠だった。彼は独立系のドキュメンタリー制作で高い評価を受けている人物で、以前、戦後史の資料を探しに図書館を訪れた際、俺が全面的にサポートしたことがある。
「氷室さん、久しぶりですね。どうされました?」
電話口の柏木は、懐かしそうな声で応じた。
「柏木さん、ご無沙汰しています。実は、相談したいことがあるんです」
俺は自分が温めていた企画について説明した。もちろん、神宮寺が盗用しようとしている内容よりも、遥かにブラッシュアップした形で。
地方の文化財を単に紹介するだけでなく、それを守ろうとする人々の情熱や、現代社会における文化継承の意義を掘り下げる。さらに、海外の事例も比較し、日本独自の文化保存のあり方を提示する。教養番組としても、社会派ドキュメンタリーとしても通用する内容だ。
「面白い。すごく面白いですよ、氷室さん。でも、どうして急に番組企画を?」
「実は、この企画をテレビ局に持ち込みたいんです。柏木さんのお力を借りたくて」
「なるほど。氷室さんなら、確かにこういう企画を形にできる知識と情熱がありますね。分かりました、私の知り合いのプロデューサーを紹介しましょう」
柏木が紹介してくれたのは、東京のキー局でドキュメンタリー部門を統括する敏腕プロデューサー、三島瞳だった。彼女もまた、以前図書館で俺の世話になった一人だ。
「氷室さん、柏木さんから聞きました。企画書、送ってください」
三島のメールは簡潔だった。俺は徹夜で企画書を完成させ、送信した。
三日後、三島から電話があった。
「氷室さん、この企画、本気ですか?」
「はい」
「本気なら、うちでやりましょう。ただし、条件があります。氷室さん、番組の監修として名前を出してください。そして可能なら、番組にも出演してほしい」
「出演、ですか?」
「ええ。この企画、単なるドキュメンタリーではなく、文化的な教養番組としても成立します。そのためには、信頼できる案内人が必要です。氷室さんなら適任だと思います」
俺は少し考えた。番組に出演するということは、メディアに顔を出すということだ。美月や神宮寺の目にも留まるだろう。
だが、それこそが俺の狙いだった。
「分かりました。お受けします」
「素晴らしい。それでは、来週東京で打ち合わせをしましょう」
電話を切った後、俺は窓の外を見た。図書館の閲覧室からは、街の風景が見渡せる。あの街のどこかで、美月は神宮寺と幸せそうに過ごしているのだろう。
だが、それももうすぐ終わる。
その後の展開は早かった。三島プロデューサーの手腕で、企画は正式に番組として採用され、制作が始まった。俺は図書館の仕事を続けながら、週末や休日を使って番組制作に参加した。
撮影現場では、俺の知識が大いに役立った。文化財の歴史的背景、建築様式の特徴、地域に伝わる伝承。図書館で培った知識が、次々と番組の内容を豊かにしていく。
「氷室さん、本当に博識ですね。まるで歩く図書館だ」
スタッフたちは感心してくれた。柏木も撮影に参加し、彼の映像センスが番組に深みを与えた。
そして三ヶ月後、番組が放送された。
『忘れられた日本の記憶~文化財が語る私たちの物語~』
タイトルは三島が考えたものだ。番組は深夜枠だったが、予想以上の反響を呼んだ。SNSでは「こんな教養番組を待っていた」「案内人の氷室さんの解説が分かりやすい」と好評価が相次いだ。
さらに、番組内で紹介した地方の文化財に、実際に観光客が訪れるという副次効果も生まれた。地方自治体からは感謝の声が届き、文化庁からも注目された。
番組は深夜枠から、ゴールデンタイムの前の時間帯へと移動した。視聴率も安定し、シリーズ化が決定した。
そして俺の元には、出版社から本の執筆依頼や、講演会の依頼が舞い込み始めた。
「氷室さん、雑誌の取材を受けてくれませんか?」
三島から連絡があった。大手出版社が発行する文化雑誌だという。
「分かりました」
取材を受けると、記事は「地味な図書館司書から注目の文化評論家へ」という見出しで掲載された。写真撮影では、スタイリストが俺の服装を整え、メイクも施された。
完成した記事を見て、俺は自分でも驚いた。そこに写っているのは、確かに俺だが、以前とは全く違う印象を与える男だった。知的で、どこか余裕のある表情。
この記事が出た日、俺のSNSのフォロワーが急増した。そして、その中に美月のアカウントがあることに気づいた。
彼女は俺のことを見ているのだ。
俺は何も反応しなかった。ただ、粛々と仕事を続けた。
一方、神宮寺の企画はどうなったか。俺はさりげなく調べてみた。
結論から言えば、企画は通っていなかった。理由は簡単だ。俺の番組が先に放送され、しかも大成功を収めたからだ。同じような内容の企画を、地方局が今さら出しても、二番煎じにしかならない。
神宮寺は局内での評価を落としたという噂を耳にした。「あのプロデューサー、企画力が落ちたんじゃないか」と。
当然だ。彼は元々、他人のアイデアを盗んで成り上がってきただけなのだから。
ある日、図書館で仕事をしていると、館長から呼び出された。
「氷室くん、テレビで活躍しているそうだね」
館長は穏やかに笑った。
「はい。ご迷惑をおかけしています」
「いや、迷惑なんてとんでもない。むしろ、図書館の宣伝になっている。利用者も増えたよ。ただ、一つ聞きたいんだが」
館長は真剣な表情になった。
「氷室くん、この仕事を続けるつもりかね? それとも、メディアの世界に行くのかね?」
俺は少し考えた。正直なところ、俺はまだ図書館の仕事が好きだった。静かな空間で、知識を求める人々を手助けする。それは俺にとって、やりがいのある仕事だ。
だが、同時に新しい世界も見えてきた。メディアを通じて、より多くの人に知識や文化の素晴らしさを伝えられる。それもまた、魅力的だった。
「館長、もう少し考えさせてください」
「そうか。焦る必要はない。ただ、氷室くんには才能がある。それを活かす道を選んでほしいんだ」
館長の言葉は、俺の心に深く響いた。
その夜、俺はアパートで一人、これからのことを考えていた。スマートフォンには、様々な依頼のメールが届いている。出版、講演、新しい番組企画。
そして、その中に一通、見覚えのあるアドレスからのメールがあった。
早瀬美月。
件名は「お久しぶりです」。
俺は画面を見つめた。開くべきか、それとも削除するべきか。
結局、俺は開くことにした。
『透也、お久しぶり。元気にしてる? テレビで見たよ。すごく活躍しているんだね。本当にびっくりした。実は、話したいことがあるんだけど、会えないかな?』
短い文章だったが、その行間から美月の動揺が伝わってくる。
俺は返信しなかった。まだその時ではない。
美月が本当に後悔するのは、これからだ。俺がさらに高みに登り、彼女の手の届かない場所に行った時。その時初めて、彼女は自分が何を失ったのか理解するだろう。
俺は立ち上がり、窓を開けた。夜風が心地よく頬を撫でる。
「美月、君が望んだ未来を、俺が全て手に入れる」
俺は静かに呟いた。
これは、まだ始まりに過ぎない。




