第26話 新婚旅行リベンジ
「結衣、パスポートの有効期限は確認した?」 朝、目覚ましより早く耳元に届いた低い声で目を覚ます。うっすらと目を開けると、私の枕元に正座している夫・健がいた。しかも両手に持っているのは、私のパスポートと封筒いっぱいの旅行書類。
――おはようより先に有効期限を聞かれる新婚三年目の朝ってどうなの。
「……おはよう、健」 「おはよう、結衣。今日は大事な日だからね」
夫の目は輝いていた。そう、今日は“新婚旅行リベンジ”の日だ。
本来なら結婚してすぐ、ハワイに行く予定だった。だが直前に私が急な編集仕事を抱え、キャンセルになった。それから丸三年。健はずっと「いつか必ず」と温め続け、ついに今年、有給を死守して日程を確保した。
いや、正確には「私の有給を勝手に会社に申請してきた」のだが(第15話参照)、今回はまあ、ありがたく乗っかることにした。
「まずこれ。行程表」
健が渡してきた紙は、A3両面カラー印刷。朝の集合時間から食事のメニュー、トイレ休憩予定時間まで秒単位で書かれている。
……もう笑うしかない。
「健、この“15時12分:小腹満たし用チョコ一粒”って何?」 「低血糖になると結衣が不機嫌になるからね」
よく見てるな、とは思う。思うけど、行程表に書くことじゃない。
それにしても、旅行前夜から健のテンションは異常だった。スーツケースを三つも引っ張り出し、一つは私の着替え専用、一つは非常用持ち物専用、そして最後の一つは――。
「これは結衣の“心の安定セット”」
そう言って見せられたのは、私の好きな紅茶、クッション、家の匂いのするブランケット、そして私が夜中に読み返す漫画の全巻セット。
「ここまで持ってく?」と突っ込んだら、「当然だろう」と即答された。
出発当日、成田空港に到着すると健の“監視モード”が発動した。
「結衣、そこ段差あるよ」
「結衣、キャリーは僕が」
「結衣、あの人ぶつかりそうだから僕の後ろに」
まるでSPである。いや、SPにしては近すぎる距離感だ。背中に健の胸板が当たってる。
保安検査場では、私のバッグから取り出された小袋を見て係員さんが首を傾げた。
「これは……?」
「結衣専用・機内用おやつセットです」
健が胸を張って答える。中身はチョコ、ドライフルーツ、ミニ羊羹、のど飴、そして“寝落ち予防用”と書かれたカフェインタブレット。
係員さんは一瞬固まったあと、「……どうぞ」と通してくれた。たぶん、いろんな意味で。
機内では、健が完全に“添乗員”と化した。
「結衣、窓側取っておいたよ。景色がいいから」
「結衣、耳が痛くならないようにこの飴を」
「結衣、これは“長距離フライト腰痛予防体操”のプリント」
CAさんが飲み物を配りに来たとき、健はなぜか私の好きな銘柄の紅茶をすでに知っていて、先回りでオーダーしてくれた。
……うん、ありがたいけど、CAさんの「素敵な旦那様ですね」という笑顔がちょっと痛かった。
目的地に着くと、健の過保護はさらに加速した。観光地では人混みを完全に避ける裏ルートを事前調査済み。レストランは全席図面を確認し、私の好きな「壁側・端っこ・店内照明が柔らかい席」を予約済み。
極めつけはホテルの部屋だった。扉を開けた瞬間、ふわっと漂ったのは……我が家の匂い。
「……え、これ、うちの柔軟剤?」 「そう。ハウスキーピングに頼んで、結衣のタオルだけこれで洗ってもらった」
狂気じみた愛情の細やかさ。怖い。けど、ちょっと嬉しい。……いや、怖いが勝ってるか。
二日目の夜、ビーチ沿いを散歩していると、健がふと立ち止まった。
「結衣、三年前、行けなくて泣いてたでしょ。あのとき、僕、絶対にいつか連れてくって決めたんだ」
……そんなに泣いたっけ? 自分では「ちょっと残念だな」くらいだった記憶なんだけど。
健は続けた。
「だから、今回は全部完璧にしたかった。もう、どこにも不満なんて感じさせたくなかった」
ああ、この人の“重すぎる愛”って、こういうところから来てるんだなと、妙に納得してしまった。
……とはいえ、その後の健は「完璧主義モード」から「暴走モード」に切り替わった。
お土産屋で私が「これ可愛い」と指差した小物を、全色買い。
ホテルの朝食ビュッフェで、私の好きそうなメニューを全部皿に盛ってきて、結果テーブルが食の万博状態。
帰りの飛行機では、私の足元に自作のフットマッサージ機を仕込んでいた(どうやって持ち込んだのかは聞かないことにした)。
こうして“新婚旅行リベンジ”は、笑いと呆れとちょっとの感動にまみれたまま終わった。
空港からの帰り道、健が真剣な顔で言う。
「次は“結婚十周年旅行”のプランを作っておくね」
「……健、ちょっとは休んでいいから」
でも、きっとまた彼は全力で準備するのだろう。重すぎる愛情とともに。




