第25話 二人の約束
朝、目が覚めると、視界いっぱいに夫の顔があった。
……おはようの距離感じゃない。顎を引いたら鼻と鼻がぶつかりそうな距離。
というか、もう当たってる。
「おはよう、結衣」
声は低くて穏やかなのに、目はギラッと輝いている。朝からフル充電の目。
「おはよう。……近い」
私が枕を押しのけると、健は残念そうに数センチ下がった。
「今日は会社、何時に出る?」
「いつも通り」
「……本当に?」
ああ、この"本当に?"が曲者だ。健の"本当に"にはだいたいGPS機能か監視カメラが紐づいている。
朝食の席につくと、テーブルには「ゆいLOVE」と書かれたラテアート。
いや、26章目にしてもはや突っ込む気力も薄れてきたけど、そろそろ別のバリエーション欲しい。
「今日のは筆記体にしてみた」
「進化の方向がおかしい」
健はパンケーキを一枚ずつ皿に移しながら、妙に神妙な顔をしている。
「結衣、俺、昨日考えたんだ」
「……何を?」
「俺たち、これからの距離感をどうするか」
思わずパンを噴き出しかけた。健が"距離感"なんて単語を口にする日が来るとは。
先週、私が「ちょっと重い」と正直に言ったことが引き金だろう。
いや、"ちょっと"は完全に社交辞令だった。あのとき本心は「GPS機能はもういらない」だった。
「俺、決めたんだ。ほどよい距離感を保つ」
「え、どうやって?」
「物理的に二メートル以内には必ずいるけど、心理的には自由を尊重する」
「それ、ストーカーと何が違うの?」
健は真剣そのもので、ホワイトボードを取り出してきた。
そこには『結衣と健の幸せ距離感計画』とタイトルが書かれ、びっしりと矢印やメモ。
「出社時は会社の入口まで。帰宅時は駅の改札まで。昼休みは週3回だけ差し入れ。寝る時は顔までの距離を5センチ空ける」
「最後のだけは今すぐ実行して」
正直、この計画、私が望んでいた「ほどよい距離感」とは少し……いや、かなり違う。
でも、健なりに本気で努力しようとしているのは分かる。
昼休み、同僚の美咲にこの話をしたら、案の定爆笑された。
「もうそれ、健さんの中では"距離感"じゃなくて"持続可能な過剰愛"だよ」
言い得て妙すぎる。
その日の帰宅時、駅の改札を出ると健がいた。
あれ?週3回じゃなかった?
「今日はその初日だから」
まあ……そういうことか。
家に着くと、テーブルの上に封筒が置かれていた。
「なにこれ?」
「契約書」
中には『二人の約束書』なる紙が。
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【二人の約束書】
1. 結衣のプライバシーを尊重する。ただし健康管理のため最低限の位置情報は保持する。
2. 健は結衣の仕事時間中、差し入れ・連絡を控える。ただし非常時は例外。
3. 毎日必ず「好きだ」と口にする。
4. 言い争いになったら、どちらかがギブアップする前にハグする。
5. どんな時でも、お互いの味方でいる。
署名欄にはもう健の名前が書かれていた。
「これ、結衣のサインがあれば成立」
「……条項3と4が重い」
「結衣は軽くていいの?」
その問いに、笑いながらサインしてしまった。
健は紙を抱きしめて、子どもみたいに喜んだ。
その顔を見た瞬間、やっぱりこの人の重さは、私にとって必要な重さなんだと分かってしまった。
夜、寝るとき。
健はちゃんと顔との距離を5センチ空けていた。
でも、その5センチの間に、彼の熱量がじわじわと満ちてくる。
……多分、これは一生なくならない。
そして私は、それをちょっとだけ楽しみにしている自分に気づいた。




