第22話 夫、愛情セーブ練習
朝。
目を開けると、健がいない。
…いや、正確には、いつも私の枕元でスタンバイしているはずの夫がいない。
(あれ? 今日は「おはようのハグ」がなかった…?)
ベッドからむくりと起き上がると、キッチンから小さな音がする。
トントンでもなく、ジュウジュウでもなく、…カチャ、カチャ、と妙に控えめな音。
(…なんだその小動物みたいな作業音)
恐る恐るのぞくと、そこには――
> 健が、背筋をピンと伸ばし、エプロンの端を両手で握って立っていた。
「お、おはよう。…結衣」
「え、なにその“距離感のある声”」
「……あ、いや、その……」
健は一瞬だけ目を泳がせ、咳払いした。
「僕は今日から、“愛情セーブ”を実践することにしたんだ」
……えっと、何の宗教?
「昨日さ、君の過去の体調不良のことを思い出して…改めて思ったんだ。
僕、たぶん重すぎる。いや、重すぎた。いや、重すぎるのは変わらないんだけど、調節が必要かもしれないって」
「うん、三段活用みたいに言わなくていい」
健は真面目な顔で続けた。
「だから、まずは“適正距離”を意識することにした。今日は、必要以上に触らない。必要以上に見つめない。必要以上に……匂わない」
「最後の何、怖いんだけど」
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いつもなら、朝ごはんは私が席に座ると同時に湯気と愛情とラテアートが押し寄せてくるのに、今日は違った。
テーブルには、シンプルなトーストと目玉焼き。ラテアートもない。
(え、こんな健さんちょっと…レアすぎない?)
「お、おいしい?」
「うん、おいしいけど…なんか…」
「なんか?」
「愛情のコーティングが剥がれ落ちてる感じ」
「やっぱりか……!」健は机に突っ伏した。
この時点で、セーブ1時間目にして早くもメーターが振り切れそうな夫。
「結衣が物足りなそうに見える…いやでも、ぐっとこらえる…」とブツブツ呟いている。
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家を出る時も、いつもなら
「駅まで送る!」→「いや大丈夫」→「でも送る!」→「じゃあせめて曲がり角まで!」という寸劇があるのに、今日は玄関で立ち止まった健が、ぎこちなく手を振った。
「いってらっしゃい。……(小声)愛してる」
「なんで小声」
「セーブ中だから…」
いや、そんなところだけ控えめにしなくても。
むしろ余計気になる。
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昼休み。
同僚に「今日、健さんからの差し入れないんですね」と言われて初めて気づく。
そうだ、今日は会社にケーキも焼き菓子も届いてない。
(あ、そうか…これもセーブか)
しかし午後2時ごろ、私のスマホが震えた。
健からのメッセージ。
> 「セーブ練習中ですが、手が勝手に動きそうです。助けてください」
いや知らんがな。
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帰宅すると、玄関の空気が妙に張りつめていた。
靴を脱いでリビングに入ると、健が正座している。
「結衣、もう限界です」
「三日目くらいのトーンで言ってるけど、まだ初日だからね」
「今日、何回あなたの背中に飛びつきたくなったか…数えてたら途中で数えきれなくなった」
「やめて、カウントするな」
健はしばらく沈黙した後、いきなり立ち上がった。
「……やっぱり僕は、セーブに向いてない」
その瞬間、私の手を取って、くるりと回して抱きしめてきた。
「だって、こうやって触れないと、結衣が本当にここにいるってわからなくなる」
(あー…こういうこと言うから重いんだよ、でもズルいんだよ)
「でもね、ちょっとだけ学んだこともある」
「なに」
「“距離を取ると、その分だけ会いたくなる”ってこと」
「ほら、ちゃんと学びあるじゃん」
「でも僕は、会いたくなる時間すら無駄にしたくない」
「学びゼロに戻ったな」
その夜、健は「セーブ練習は一旦中止」と宣言した。
ただし、今後は「愛情の種類を変える練習」をするらしい。
(それ、絶対新しい迷惑が始まるやつだ)
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翌朝、起きたら――
ラテアートに「ゆいLOVE(やっぱりセーブ無理)」って書いてあった。




