第20話 夫、軽い家出
朝のコーヒーにラテアートで「YUI♡FOREVER」と描かれているのは、もはや日常風景だ。
初めて見たときは吹き出したが、今は「あー今日もか」と、ほぼ天気予報を確認するくらいの気持ちで眺められる。
ただし——問題はその直後に来た。
「結衣、今日の帰りは何時? 駅まで迎えに行くから」
健が朝からスマホ片手に、私の勤務スケジュールをチェックしている。
ちなみに私、まだ歯磨き中。
「健、今日はちょっと残業になるかも」
「じゃあ待つ。駅の近くで」
「いやいや、待たなくていいから」
「……重い?」
歯磨き粉の泡を口に含んだまま、一瞬言葉に詰まった。
“重い”——この単語は、健にとって禁断のキーワードだ。
もちろん、これまで何度も心の中では思っていたけれど、口に出すのは初めてだ。
「いや、そんな……ちょっとだけ……」
「……そっか」
健はそれ以上何も言わず、食器を片付け始めた。妙に静かだ。
あれ? 拗ねた? いやいや、まさか。35歳の大人だし。
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その日の夜。
会社を出た私は、LINEを開いて驚く。
> 健:先に寝てて。
健:ちょっと考えたいことあるから。
「考えたいこと」? なにその小説みたいな別れの前兆ワード。
慌てて電話をかけたが、出ない。既読はつくのに、返事は来ない。
これって……もしかして軽い家出? いや、ガチじゃないよね?
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帰宅すると、家は真っ暗。
キッチンもリビングも完璧に片付いていて、まるでモデルルーム。
冷蔵庫の扉にメモが一枚貼られている。
> 結衣へ
夕飯は冷蔵庫。チンして食べてね。健
あまりにも事務的。
普段なら「僕の愛情カレーを召し上がれ♡」みたいな、暑苦しいキャッチコピー付きなのに。
急に“普通”になられると、逆にホラー感あるんだけど。
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翌朝。健は帰ってこなかった。
出社前に、私は捜索モードに入る。
まずは健の行きそうな場所ランキングを脳内で作成。
1位:私の実家(母と仲良し)
2位:お気に入りのカフェ(ラテアート仲間がいる)
3位:近所のスーパー(特売チェック)
順に回ってみたが、どこにもいない。
母に至っては、「あら、また喧嘩? たまには放っておきなさい」と、軽く笑っている。
いや、母さん、その“また”ってどういう意味。
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結局、見つかったのは夕方だった。
私が駅前の商店街を歩いていたら、遠くから見覚えのあるシルエットが。
白いエプロンをかけ、屋台のたこ焼きを焼いている——健だ。
なぜだ。
「……健?」
「お、結衣。買い物帰り?」
「いや、仕事帰り。ていうか何やってんの?」
「ここ、友達の屋台なんだ。手伝ってた」
さらっと言うけど、その“友達”って、多分昨日知り合ったレベルだよね?
健の交友関係、ほぼゼロだし。
どうやら駅前でぼんやりしていたら屋台の店主に声をかけられ、流れで手伝うことになったらしい。
家出というより、職業体験だ。
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帰り道、健は小声で言った。
「昨日さ……『重い』って言われて、結構ショックだったんだ」
「ごめん、悪気はなかったんだよ。ただ、仕事で疲れてるときは少し距離あってもいいかなって……」
「わかってる。でも、結衣のこと考えるのが習慣になってて。抑えると、なんか手持ち無沙汰で」
——なるほど。
愛情表現って、この人にとっては趣味であり、ライフワークなんだ。
「じゃあ、こうしよう。迎えは週2回まで。それ以上は“重い”ってことにする」
「……それ、結構つらいな」
「大人の練習だと思って」
「……わかった」
そう言いつつ、健は早足で私の手を握る。
距離を取る練習は、どうやら明日かららしい。
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家に帰ると、冷蔵庫には新しいメモ。
> 今日のたこ焼きは僕の愛情入り。
重さは……ちょっと軽め。
軽めってなんだ。
食べてみたら、ソースの上にマヨネーズで小さく「LOVE」と書いてあった。
——たぶん、この人の“軽め”は、世間基準だとまだまだ重い。




