第2話 職場潜入大作戦
今日は、絶対に夫が職場に現れない——はずだった。
朝の時点では、そう信じていた。
朝5時、いつものように健に起こされ、朝食を食べ、弁当を持たされ、バッグの中身を念入りにチェックされる。
「はい、会議用のミント。午後の眠気用のカフェインクッキー。帰りの電車で読む用の小説」
「……図書館の貸出カードまで入ってるんだけど」
「帰り道で返せるから」
有難いけど、職場で図書館カードを握りしめている社員、見たことない。
家を出るとき、玄関で「行ってらっしゃい、今日も愛してる」と言われるのもいつも通り。
会社に着くと、机の上に何の変化もない。よし、今日は平和だ。そう思っていた。
午前中は資料作成に追われ、あっという間に昼休みになった。
同僚の美香と一緒に社内カフェテリアへ向かうと、入口付近で見覚えのある背中が見えた。
——いや、あの肩幅、まさか。
「健?」
振り返ったのは、まさに私の夫だった。笑顔100%。
「お昼、一緒に食べようと思って」
「……なんでいるの」
「差し入れ。君のために作った特製ランチ。冷めないように保温バッグに入れてきたよ」
美香がクスクス笑っている。私は笑顔を引きつらせた。
保温バッグを開けると、そこには見事な三段重。
一の重:色とりどりのサンドイッチ(具は全部私の好物)
二の重:サラダと温野菜(ドレッシングは別容器、3種類)
三の重:デザート(ハート型ゼリー、苺の飴細工つき)
「……これ、カフェテリアで広げる勇気ない」
「じゃあ会議室借りよっか」
そんな勝手な。
結局、空いていた小会議室で二人きりのランチ。
私はゼリーをつつきながら、問い詰めた。
「で、本当の目的は何?」
「目的って……君に美味しいものを食べてもらいたくて」
「ほんとにそれだけ?」
少しの沈黙。
「……君の新しい上司って、どんな人?」
出た。これだ。
実は、今週から私の部署に新しい部長が配属された。五十代前半の男性で、物腰柔らかく、仕事もできそうな人だと評判。
健はその噂を聞いた途端、やたらと「どんな人?」と聞いてきていた。
「まさか、そのために職場に来たの?」
「偶然だよ。たまたま通りかかったら会社だっただけ」
いや、うちの会社ビルは駅から徒歩15分、通りかかるような立地じゃない。
午後の会議が始まる時間になり、健をエントランスまで見送る。
「じゃあ、また夕方に迎えに来るね」
「来なくていいから!」
念押しして仕事に戻った。
——しかし、夕方。
会社の出口に立っていたのは、笑顔の健と、なぜか私の上司だった。
「結衣さんの旦那さん、差し入れをくださってね」
上司が嬉しそうに手にしていたのは、ラッピングされた小箱。
「部長の好きな洋菓子、調べて作ってみました」
「……どうやって好きなもの知ったの?」
「ちょっと調べただけ」
その「ちょっと」が怖いんだってば。
帰り道、私は健に言った。
「お願いだから、会社はプライベートゾーンにしよう」
「わかった。じゃあ今度は君の通勤ルート全部で待ち伏せするね」
——この人、本気で悪気がないからタチが悪い。