第17話 健の交友ゼロ事件
金曜日の夜。出版社の仕事を定時で終えた私は、同僚たちとの飲み会に向かっていた。珍しく、校了もなく、電話もかかってこない。こういう夜は貴重だ。
駅前の居酒屋で同僚たちとワイワイ騒ぎ、帰宅したのは22時半。玄関を開けると、リビングの明かりがぼんやり漏れていた。
出迎えてくれるのはもちろん健――我が家の専業主夫であり、元商社マン。相変わらずエプロン姿で立っている。いや、この時間にエプロンって何を作ってるの。
「おかえり、結衣。おつかれさま。……遅かったね」
声色は柔らかい。でも、その奥にかすかな寂しさが混じっているのは、長年の経験でわかる。
「飲み会だって言ったでしょ。楽しかったよ」
「そっか……よかったね」
――あ、これ完全に拗ねてるな。
キッチンのカウンターには、私の好物・いちごショートケーキが一人分だけ置かれていた。たぶん、飲み会帰りでも甘いものを食べるだろうと予想しての用意。優しい。優しいけど、同時にちょっと怖い。
「健も一緒に食べる?」
「ううん、俺は……お腹いっぱいだから」
そう言ってソファに座った健は、テレビをつけもせず、私の一挙手一投足を観察している。まるで大型猫が獲物を狙っているかのような眼差し。
「えっと……どうしたの?」
「いや……」
沈黙。こういう時はだいたい、地雷がどこかに埋まっている。私はスプーンを動かしながら、慎重に探りを入れる。
「……何かあった?」
「結衣さ」
「うん?」
「俺って……友だち、いると思う?」
――え? 今なんて? 私は思わずケーキのいちごを口から落としそうになった。
「いきなりどうしたの」
「いや、さっき、スマホの連絡先を整理してたら……ほとんどが結衣関係だったんだよね」
「……」
「会社辞めてから、飲みに行く相手もいないし。今日も結衣は同僚と楽しそうだったなぁって……」
これは……嫉妬というより、孤独感に近い。しかも、普段「結衣がいれば十分!」と豪語していた健が、珍しく弱音を吐いている。
「じゃあ、友だち作ればいいじゃん」
「……作り方、忘れた」
35歳男性、友だち作りのスキル紛失。いや笑えないけど、笑ってしまう。
私は少し考え、提案した。
「ほら、地域の料理教室とか参加してみたら? 料理得意だし」
「俺が行ったら、結衣以外の人に俺の味を知られることになるよ?」
「その発想がもうダメなんだってば!」
健は真剣な顔で「俺の味は結衣専用」とか言っている。愛はありがたいが、それが交友関係ゼロの一因になっているのは明らかだ。
翌日。健の「友だち作り計画」を強行すべく、私は彼を半ば強引に市民センターの「家庭料理サークル」体験会に連れ出した。
会場に入るなり、健は周囲を見回して固まる。参加者は主に主婦層。
「……なんか場違い感がすごい」
「大丈夫、あんた料理スキル神レベルでしょ。むしろ頼られるから」
実際、健はあっという間に包丁さばきを褒められ、若干の囲い込み状態になった。
が、そこで出た第一声が――
「このレシピ、結衣にしか作らないんで」
……おい。初対面の人に何の宣言をしてるんだ。
案の定、場は「???」という空気になり、健はそれ以上打ち解けられないまま体験終了。帰り道、私は説教モード全開。
「だから、なんでそこで私の名前を出すの」
「だって、俺にとって料理は結衣への愛情表現だから」
「それはわかってるけど、友だち作りには向かない愛の使い方なの!」
結局、その後も健の友だち作りは難航。試しにジムに連れて行っても、「結衣の健康維持のために筋トレしてます」とか言い出す始末。おかげで、トレーナーさんが「奥さん大事にされてますね」と笑って終わる。
数週間後。私は仕事でまた飲み会に参加した。その帰り道、ふと思い出して健にLINEする。
「今日は友だちできた?」
既読がつくと、すぐに返事が来た。
『うん。スーパーのレジのおばちゃんが名前覚えてくれた』
……それ、知り合いだよね? 友だちとは違うよね?
帰宅すると、健はにこにこして言った。
「でも、やっぱり俺は結衣一人でいいや」
ああ、この人は本当に治らない――と、ため息混じりに笑う私だった。




