第16話 夫、サプライズ失敗
朝、キッチンから聞こえてくる音がいつもと違った。
普段は「シャッ、シャッ」と包丁のリズムと「コポコポ」とコーヒーメーカーの湯気音だけなのに、今日は何やら「パリ…パリ…」とラップの音がやたら長い。
そして、ときどき聞こえる「ふふっ」という…え、独り笑い?
嫌な予感しかしない。
「おはよー」
恐る恐るキッチンを覗くと、健は慌てて何かを背中に隠した。
しかも、そこはかとなく漂うチョコレートの甘い香り。
…バレンタインは随分前に終わったはずなんだけど。
「おはよう、結衣。…あ、ダメ! まだ見ちゃダメ!」
両腕を広げてシンクをガードする健。
いやいや、朝から何のスパイ映画だ。
「何それ」
「えっと…サプライズ用の…いや、なんでもない!」
健が「サプライズ」と口にした瞬間、脳内に過去の惨状がフラッシュバックする。
去年の誕生日、玄関を開けたら部屋が天井まで風船で埋まっていて、入室不可能になった事件とか。
結婚記念日にベッドの上を花びらまみれにして、その後二人で3時間かけて掃除した事件とか。
私は静かにコーヒーを入れ、静かに飲むことにした。
こういう時は、追及しないのが平和への近道だ。
だが、隣で「ふふっ、完璧だ…」と呟く声が聞こえるたび、心の中のツッコミメーターはジリジリ上昇していく。
---
その日の仕事は、朝から妙に落ち着かなかった。
健が“サプライズ”と言った以上、何かが家で進行しているのは間違いない。
しかも、私のスケジュールを把握している健なら、帰宅時間に合わせて何かを仕掛けてくるはず。
これが怖いんだ。彼は準備力が異常に高い。商社マン時代に培った段取り力を、なぜこういう方向に全振りしてしまったのか。
夕方、メールが届いた。差出人は健。
件名:「今日は直帰だよね?」
本文:「冷蔵庫の下段、開けないでください」
怖っ。
普通は「冷蔵庫にプリン入ってるよ」とかほのぼの連絡が来るのに、「開けないでください」って、ホラー映画のフラグじゃん。
---
定時ちょうどで仕事を切り上げ、家の近くまで帰ってくると、玄関前に見慣れない花屋のトラックが停まっていた。
いやな予感が現実になる瞬間って、こんなに早いんだ。
そっとドアを開けると——。
「おかえり! 結衣!」
そこは、花、花、花。
廊下からリビングまで、道の両脇に花瓶が並び、赤いカーペットまで敷かれている。
…いや、うちの廊下、カーペットなんて敷く仕様じゃないから。段差が地味に歩きづらい。
「わぁ…すごいね…(足元見ないとコケるけど)」
「今日は、結衣と出会ってちょうど1200日記念日なんだ!」
「……え、数えてたの?」
「もちろん! スプレッドシートに毎日ログしてる」
やっぱり怖い。愛のスプレッドシートって何。
---
リビングに入ると、中央に大きなテーブル。その上にはホールケーキ。
しかもケーキの上には、私の似顔絵がチョコプレートで立体的に再現されている。
正直、似てる。似てるけど…立体感がリアルすぎて、ナイフ入れるのためらうやつ。
「これ、全部手作り?」
「うん! ケーキも、チョコプレートも、あと…冷蔵庫の下段に隠してたオードブルもある」
…やっぱり冷蔵庫案件だった。
私は花とケーキの圧に押されながら座る。
健はスマホを手に「じゃあ、プロジェクターの準備するね!」と言い出した。
そう、彼はサプライズを「一発」では終わらせない。
必ず二の矢、三の矢を用意してくる。問題は、その矢がいつも方向を間違えることだ。
---
部屋の照明が落ち、壁一面に映し出されたのは——健が撮りためた私の写真スライドショー。
朝食を食べる私、ソファでうたた寝する私、髪を乾かす私…。
待って、これいつ撮ったの? っていうか、完全に盗撮角度なんだけど。
「結衣の1,200日間を、全部ここに詰めたよ!」
「ありがとう…(いやありがとうって言うしかないけど)」
スライドショーが進むにつれ、健の解説が熱を帯びる。
「この日は、初めて結衣が俺のオムライスを“おいしい”って言った日!」
「この時は、雨で傘忘れた結衣を駅まで迎えに行ったよね!」
…うん、覚えてるけど、そんな実況中継されると恥ずかしさで死ねる。
---
そしてクライマックス。
健が手に持ったリモコンを高々と掲げ、「最後のサプライズ!」と宣言した瞬間——。
「……あれ? つかない」
どうやら天井から花びらが降るはずだったらしい。
仕掛けのコードがカーペットに引っかかり、天井の袋が破れず、中の花びらが全部一箇所に溜まってしまっている。
健が必死に踏み台に乗って直そうとするが——
「うわっ!」
足を滑らせてケーキにダイブ。
私の立体チョコ似顔絵は、無残にも健の顔型のクレーターになった。
---
一瞬の沈黙。
花、ケーキ、プロジェクター、全部が妙に間抜けな空気を醸し出す。
健はクリームまみれの顔で、申し訳なさそうに笑った。
「…ごめん、結衣。サプライズ、台無しになっちゃった」
「ううん、むしろ最高に笑ったから大成功だよ」
私がそう言うと、健は少しほっとして、でもすぐに真剣な顔になった。
「でもね、本当に思ってるんだ。結衣と過ごせる毎日が、一日も当たり前じゃないって」
…やめてよ、そのセリフ。
クリームまみれで言うと、笑うしかないのに、ちょっとだけ泣きそうになるから。
---
その夜、花だらけのリビングで、ケーキを崩れたまま二人でつついた。
甘すぎるクリームも、甘すぎる夫の愛情も、まあ…たまにはいいかと思えた。




