第15話 勝手に休暇取得
それは、まったくもって普通の火曜日の朝――のはずだった。
出社準備をしていると、健がいつになく落ち着いた声で言った。
「結衣、明日はゆっくり寝てていいからね」
え、なに? 急にそんな優しい言葉。いや、健は普段から優しい。優しいというか、愛が重い。
ただ、今のは妙に落ち着いていて、かつ、自信満々な感じが鼻につく。
「なんで?」
「明日、会社お休みでしょ?」
「え、そんな予定ないけど」
「あるよ」
ニッコリ笑って断言された。いや、私のスケジュールは私が一番知ってるからね。
明日は編集会議、午後は著者との打ち合わせ、夜は校了。むしろ週の中で一番ハードな日だ。
「……健、まさか」
「うん、取っといた。休暇」
「いやいやいや、なに勝手に私の有休申請してんの!」
思わず声が裏返る。
健は悪びれるどころか、コーヒーを私の前に置きながら言った。
「だって最近すごく忙しそうだったから、少しでも休ませたくて」
「気持ちは嬉しいけど、社会人の有休ってそんな軽くないから!」
コーヒーのラテアートには、いつも通り「ゆいLOVE」。
ああ、朝から平常運転だなと思ったのも束の間、健はスマホを見せてきた。
「ほら、ちゃんと部長さんにメールも送ったから安心して」
そこには私の名前で送られたメールが。
――件名:【有休申請】明日お休みいただきます。
――本文:私用のため、明日一日お休みをいただきます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いいたします。
――署名:結衣
「いやいやいや! なりすましメールじゃん! 犯罪じゃん!」
「でも部長さん、『たまには休みなさい』って快諾してくれたよ。ほら、返信も」
たしかに部長からの返信は「了解。ゆっくり休んで!」とあった。
……部長、優しいけど、そういうことじゃないんだよ。
「ちなみにさ、打ち合わせは?」
「全部、翌週にずらしておいた」
「勝手に!? どうやって!?」
「著者さんに『結衣さん、明日はご主人が大事な日なんです』って説明したら、『じゃあ仕方ないですね』って」
……待って。なんでみんなそんなにあっさり納得してくれるの?
著者さんまでグルってどういうこと。
「で、その『大事な日』ってなに?」
「結衣と過ごす、ただの平日」
平日だからこそ人混みは少ないし、予約も取りやすいし、二人でのんびりできる。そう語る健は、完全に遠足前の小学生の目をしていた。
「で、行き先は?」
「サプライズ」
あ、これ絶対ろくでもないやつだ。
健のサプライズ=物理的・精神的にフルコースでくるパターンしかない。
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翌朝。目覚ましが鳴る前に健がベッドサイドに立っていた。
いや、正確には立って私をじっと見ていた。目を開けた瞬間、心臓が跳ねた。
「おはよう、結衣。朝ごはんできてるよ」
テーブルにはフレンチトースト、ベリーソース添え。
ラテアートはハートだらけ。しかも、ラテの上に小さな旗が立っている。「きょうは結衣と一日」って書いてある。いや、どこのテーマパークのイベント日だ。
「じゃあ、出発しようか」
「まだ食べ終わってないけど!?」
「大丈夫、車の中で続きを食べられるように、ランチボックス仕様にしてある」
私はなんの抵抗も許されないまま助手席に押し込まれた。
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着いた先は――貸し切り温泉旅館だった。
「ここ、一年待ちなんだよ。でも平日ならキャンセル出やすいから狙ってたんだ」
いや、すごい情報戦だな。
でもちょっと待って、私まだ現実を受け止めきれてない。
「健、私、昨日まで仕事してたんだけど」
「知ってる。だからこそ今、休むのが大事なんだよ」
そう言いながら、私の荷物(いつの間に!?)を宿のスタッフに預ける健。
もうここまで来たら、私は湯に身を委ねるしかない。
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露天風呂、食事、マッサージ――すべてが過剰なまでに私仕様。
お刺身は全部私の好きなネタだけ。浴衣は私のサイズと色指定。マッサージ師さんまで「旦那さんから、肩と腰を念入りにって」と。
「これ……完全に健の独壇場だね」
「そうだよ。今日は僕が結衣の一日を管理する日だから」
怖い。やっぱり怖い。
でも、正直言うと、心地よさの方が勝ってしまっている自分もいる。
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帰り道、夕焼けを見ながら健が言った。
「やっぱり、結衣は笑ってるのが一番いい」
その一言で、勝手に休暇を取られた怒りはだいぶ薄まってしまった。
……悔しいけど。
「でも次はちゃんと私に相談してね」
「うん。じゃあ次は、相談だけしてサプライズするね」
「それ相談じゃない!」
助手席でツッコミを入れながら、私は窓の外の景色を見た。
まあ、こんな平日も悪くないか――と思ってしまった自分に、心の中で小さくため息をついた。




