第14話 妻の机大改造
朝の出社ラッシュ。
私は地下鉄の揺れに耐えながら、「今日は午前中にゲラチェック、午後は打ち合わせ三本」と頭の中でスケジュールを確認していた。
夫の健は今朝も例によって、私が出社する直前まで“出発前点検”を実施してきた。
「スマホの充電、100パーセント。お弁当、まだ温かい。あ、それと…」
と、なぜか耳打ちで「今日は“職場環境改善”の日だからね」と言い残したのだ。
職場環境改善?
うちの会社にそんなイベントはない。
健語録にある「意味深な宣言」は、大体の場合、私を困惑させる前兆である。
過去の例でいうと、
・「午後は“愛の防災訓練”ね」=帰宅したら、家中に私の写真入り避難誘導ポスターが貼られていた
・「今夜は“味覚サミット”」=夕飯が全品カレー味だった
…といった具合だ。
だから今回の“職場環境改善”も、ろくでもない匂いしかしない。
ただし、出社前の私には阻止する手段はない。
健は専業主夫だ。時間も体力も行動力も無限。しかも「妻のため」なら自分の限界を簡単に越える男である。
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午前十時。
私はいつも通りデスクでゲラに赤を入れていた。
そこへ、視界の端に妙な影がよぎった。
スーツ姿じゃない、作業服の男性が三人。台車を押している。
…って、え、こっち来るの?
「こちらですかねー、○○出版の結衣さんのデスク」
一人が確認し、もう一人が台車から何かを降ろす。
白い箱。いや、家具だ。新品のオフィスチェア? いや違う、やたら高そうな人間工学チェアだ。
「えっと、何ですか?」と聞くと、作業服の一人が笑顔で答える。
「本日ご依頼いただいた机と椅子の入れ替えです。奥様からのご依頼で」
奥様———つまり、健だ。
何勝手に「奥様」やってんのよ。私の机は会社の備品だし、勝手に替えるなんて…
あ、でも、この椅子、座り心地良さそう…いやいやいや、流されちゃダメ。
しかも台車の上にはまだ物がある。
木製の小さな引き出し、パステルカラーのデスクマット、そしてやたら目立つLEDスタンドライト。
「こちら、すべて“奥様監修”でカスタムされてます」
監修…? 私は一切聞いてないけど。
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作業は10分ほどで完了した。
私の机は、地味なグレーの事務机から、一瞬でカフェの一角みたいな温かい雰囲気に変わってしまった。
デスクマットには私の名前の刺繍入り。ライトの首の部分には小さな木製プレートが下がっていて、「YUI’s HAPPY SPOT」と書かれている。
引き出しを開けると、きっちり仕切られた中に、可愛いマスキングテープでラベルが貼られている———「付箋」「ペン」「おやつ」。
おやつの引き出しには、私の好きな塩チョコとミニクッキーがぎっしり。
…これ、確実に健の仕業。しかも、やたら几帳面に賞味期限ごとに並んでる。
極めつけは、机の奥に差し込まれた一枚の厚紙。
「今日も素敵な一日になりますように。世界で一番愛してる、健より♡」
いや、職場でこういうメッセージカードやめてほしい!
後ろから覗かれたら、完全に惚気暴露じゃないの。
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案の定、隣の席の佐伯さん(同僚・30代独身女子)が、にやにやしながら話しかけてきた。
「結衣ちゃん…これ全部、旦那さんが?」
「…たぶん」
「たぶん、じゃないでしょ。愛されすぎ案件だよこれ」
「案件って…」
別の部署の後輩まで寄ってきて、「すごーい! いいなあ〜」「椅子、高そう!」と騒ぎ始める。
あっという間に私の席は“職場見学ツアー”の目的地みたいになった。
極めつけに、部長までやってきて「結衣さん、この椅子、座り心地いいね。私のも替えてほしいなあ」なんて言い出す。
いや、部長、それは会社経費じゃなくて私情です。
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昼休み、こっそりスマホを開くと、健からLINEが入っていた。
『机、気に入った? 人間工学的に最高の環境を整えたよ。これで肩こりゼロ間違いなし!』
『引き出しの右奥も見てね』
右奥? 恐る恐る開けると、小さな封筒があった。
中には、近所のカフェのギフトカードとメモ。
『残業で疲れた日は、帰りにここで甘いもの食べてね(できれば僕も迎えに行く)』
迎えに行く、じゃなくて、迎えに来る、でしょ。
こういうときだけ控えめな表現をするのが、健のズルいところだ。
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午後、再び仕事に戻ろうと椅子に腰を下ろした瞬間———背もたれの中から「ピロリン♪」と電子音が鳴った。
…は?
慌てて椅子の裏を見ると、小さな温湿度計が内蔵されている。
そして、下の方にはBluetoothのマーク。まさかと思ってスマホを見ると、新しいアプリがインストールされていた。
名前は「YUI-WORK-MONITOR」。開くと、「座りすぎ警告」「室温変化アラート」などの通知がずらり。
いやこれ、確実に健が設定したやつ。
座りすぎたら「そろそろ立ってストレッチしてね♡」ってメッセージが来るんだろう。
…いや、案の定5分後に来た。しかも「そろそろストレッチ(※君の笑顔が見たい)」という余計な一文付きで。
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終業後。
私は新しい机と椅子に囲まれた自分の席を見渡した。
正直、座り心地は最高だし、机も使いやすい。おやつの引き出しも、午後の眠気覚ましにかなり助かった。
でも、それ以上に問題なのは、この“健の存在感”だ。
私は会社にいるのに、半径1メートル以内に夫の気配が充満している。
職場にまでラブラブ臭を漂わせる夫って、どうなの。
帰宅すると、玄関で健が満面の笑みで待っていた。
「どうだった? 仕事しやすくなったでしょ?」
「…まあ、そうね」
「よし! 次はパソコンのキーボードも変えよう。君の指の長さに合わせて特注して———」
「待て」
私は健の口を手でふさぎ、「しばらく改造禁止」とだけ告げた。
彼はしょんぼりした顔をしながらも、「じゃあ、その分、家を改造するね」と呟いた。
———それはそれで嫌な予感しかしない。
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オチとしては、翌週、会社の人事部から「備品の私物化について」のお知らせが全社員に回り、暗に私がやり玉にあげられた。
もちろん、犯人は私じゃない。
犯人は、世界で一番愛情過剰な専業主夫———健である。




