第13話 冷蔵庫の暗号
朝、出勤前。
私の一日は冷蔵庫の前で始まる。
別に健康的にスムージーを作るとかそういうおしゃれな理由じゃない。ただ単純に、冷蔵庫を開けて「今日の弁当の具は何かな〜」と確認するだけだ。
だが、今朝の冷蔵庫は——いつもと違った。
「……何これ」
卵パックの表面に、マジックで太文字の『I ❤️ YUI』。
え、なに? 食品に直接ラブレター書くの新しい文化?
さらに、牛乳パックには『元気の素!飲んで!』とハートマーク。
ヨーグルトの蓋には『おなか大事に』。
そして、きゅうりには……きゅうりに!?
『いつもありがとう』と、まるで野菜が私に感謝しているかのような文字。
「健——!」
思わずキッチン奥に声を飛ばすと、フライパンを操っていた夫がニコッと振り返った。
「おはよう、結衣。冷蔵庫、見た?」
「見たよ! っていうか、見ない方が無理だよ! 何あの暗号みたいなの!」
「暗号じゃないよ。愛情メッセージだよ」
——うん、知ってる。知ってるけども。
問題は、その"愛情メッセージ"が食品に直書きされてることなんだよ。
「マジックって……これ、ちゃんと食品用の?」
「もちろん。昨日Amazonで『食品に書けるラブマーカー』ってやつを注文した」
そんなピンポイントな商品あるの!? Amazonって本当に何でもあるな……。
健は満足げに卵焼きを皿に移しながら、熱弁を続けた。
「毎日結衣が冷蔵庫を開けるたびに、僕の気持ちを感じてほしくて」
「いや、感じるよ! 感じるけど! これさ……会社でお弁当食べる時、隣の席の人に見られたらどうするの?」
「堂々と見せればいいじゃないか。むしろアピールできる」
——この人は本当に、私の羞恥心と夫の承認欲求を同じ天秤に乗せる。
出勤前、私は恐る恐るお弁当箱を開けた。
白米の上には海苔で描かれた『大好き』の文字。
……もはやサプライズでも何でもない。サプライズは予想外だからこそ成立するのに、この人の場合、"予想外"が毎日だ。
昼休み。
案の定、同僚の舞ちゃんが私の弁当を覗き込み、「あ〜! 今日も来たね!」と笑う。
彼女はもう慣れっこだが、問題は隣の席の新入り君だ。
「……すごいですね、旦那さん」
「えっと……まぁ、はい」
フォローの言葉が見つからない。いや、下手にフォローすると余計ややこしくなる。
午後、仕事に戻ろうとしたその時、健からLINEが届いた。
【冷蔵庫の下段、まだ見てないでしょ?】
……下段?
朝は上段しか開けなかったけど、なんでそんなこと知ってるの。
帰宅後、恐る恐る下段を開けると——
そこにはトマトのパックがあり、1個ずつに『笑顔』『幸せ』『愛』と書かれていた。
なんで野菜にまで人格と感情を持たせようとするの、この人。
「健、これ……」
「どう? 冷蔵庫を開けるたびに、ほっこりするだろ?」
「いや、ほっこり通り越して、もうちょっとホラーなんだよね」
私が正直に言うと、健はちょっとショックを受けた顔をした。
「ホラー……?」
「だって、野菜に愛を語られるって、ちょっと怖いじゃん」
しばし沈黙。
しかしこの男はそこで引き下がらない。
「じゃあ次からは、野菜じゃなくて容器に書くね」
そういう問題じゃないんだよなぁ……。
翌朝。
冷蔵庫を開けると、今度はタッパーの蓋に『君は僕の太陽』。
……タッパーは太陽じゃない。
でも、健は満足そうに「これなら怖くないでしょ?」と笑っている。
私も、なんだかんだでその笑顔に負けてしまうのだ。
——とはいえ、会社でタッパーの蓋を開けるたびに"太陽"が出てくる日々は、しばらく続いた。




