第11話 夫の料理教室
土曜の午前十時。
私はまだ寝ぼけ眼でコーヒーをすすっていた。健はいつも通り朝食をフルコースで用意し、食べ終わったあともキッチンで何やらゴソゴソしている。
「……今日は何作ってるの?」
「うん、ちょっと試作だよ」
「試作?」
「午後から料理教室だから」
……料理教室? うちで?
「え、あの……どこでやるの?」
「市民センターの調理室。生徒さんは三人だけどね」
「なんで健が先生なの?」
「ママ友からの紹介だよ。僕の出汁巻き卵を食べて、『これは教わらなきゃ損』って言われて」
……ママ友って誰だ。私はママじゃないのに。
「でもさ、健が人に料理教えるって……」
「大丈夫。僕、レシピ全部覚えてるし。もちろん、結衣の好きな味だけ教えるから」
ああ、やっぱりそう来たか。
この人は料理を「誰が食べるか」より「結衣が食べるか」で全て判断する。つまり、今日の料理教室の三人は、私の味覚に完全に巻き込まれる運命だ。
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午後。健の付き添いとして、市民センターへ。
「一人で行ってきなよ」と言ったら、「結衣の味を忠実に伝えるために必要な立会人だよ」と返された。なにその重要参考人みたいなポジション。
調理室に入ると、生徒さんは三人の女性。みんなエプロン姿で、私を見て「奥さんですか?」と笑顔を向ける。
「はい……あの……今日は見学で」
「うわー、旦那さんのお料理食べられて羨ましい!」
……いやまあ、羨ましがられるのは悪い気はしないけど。
健は開始早々、卵を片手で割りながら宣言した。
「今日は“世界一おいしい出汁巻き卵”を作ります」
(おい、世界一って……)
しかも続けて、
「これは妻のために日々作ってきたレシピです。なので、味の基準はすべて妻です」
(あー、もうやめて、私を盾にしないで)
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実演が始まると、健の手際はさすが。卵液を混ぜる音、出汁を加えるタイミング、温度管理……完璧すぎて逆に笑えてくる。
「ポイントはね、妻の好みに合わせて、塩分は〇%、甘味は蜂蜜で〇グラム。出汁は昆布と鰹をブレンドして妻の舌に一番合う比率にしています」
(いやいや、なんでそんな詳細まで……みんな困ってるじゃん)
案の定、生徒さんたちは困惑顔。
「えっと……これって、普通のレシピだとどうなんですか?」
「普通? ああ……普通って、妻じゃない人用のですか?」
(質問の意味をねじ曲げるな!)
健は最後まで「妻基準」を崩さず、試食タイムへ。
出汁巻きを口に運んだ生徒さんたちは、たしかに「おいしい!」と感動していた。でも、その直後に健が言った。
「でもこれは結衣が食べたときに一番幸せになる味です」
(だからなぜ毎回私を巻き込む)
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教室が終わり、後片付け中に一人の生徒さんが私にこっそり言った。
「旦那さん、奥さんのこと本当に好きなんですね」
私は苦笑しつつ、「ええ……まあ……」とだけ答える。
(“まあ”の中に色々詰まってます)
帰り道。健は上機嫌で言った。
「どうだった? 結衣の味、ちゃんと伝わった?」
「……いや、伝わりすぎたと思う」
「よかった! これで僕の料理は世界に広がるね」
(いや広がらない、狭くて深い愛の沼に沈むだけだよ)
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夜。夕食はもちろん出汁巻き卵。
「今日のは午前中の試作より、ちょっと甘さ控えめだよ。だって午後、結衣が少し疲れて見えたから」
(味付けまで私の顔色で変えるのやめて)
でも、ひと口食べてしまえば——やっぱりおいしい。
くやしいけど、健の料理は本当に私に最適化されている。
「ねえ、健」
「なに?」
「次からは……私基準じゃない料理も、たまには作ってあげたら?」
「……なんで?」
「……世界、広げたほうがいいと思う」
「いや、僕の世界は結衣だけで充分」
はい、やっぱりこの人は変わらない。
そしてきっと、その変わらなさが——ちょっとだけ、うれしい。




