あなたへの思いは噴水に沈めました
「エリアーナ・アルデレテ、お前との婚約を破棄する!」
その声を中心にして、波が伝わるように喧騒は静まっていき、やがて楽団の演奏も止まった。
学園のホールには、今や息苦しいほどの沈黙が充ちている。
卒業パーティーの参加者たちの好奇の視線が、発言者である第一王子のレナートと、婚約破棄を告げられたエリアーナに注がれる。
レナートの隣には、ひとりの令嬢が彼に腰を抱かれ立っていた。
ガステルム伯爵家の令嬢で名前はマリルー。
うる、と目に涙を溜めながら、豊満な肢体をレナートに寄せている。
エリアーナは、足元に暗い穴があいたような心地だった。
――こうなってしまうなんて。
はは、と乾いた笑いが思わずこぼれ、静かなホールの石床にぽとりと落ちた。
レナートの碧眼が、エリアーナに冷たく向けられるようになったのは、いつからだろう。
婚約したばかりの頃は、もっと温かくて柔らかいものであったと思う。
十になってすぐ、同い年で王家の嫡男であるレナート王子との婚約が調えられた。
エリアーナの生家であるアルデレテ公爵家は、遡れば王家に連なる血筋を引く国有数の名家であり、世情や派閥のバランスを鑑みての政略結婚。
エリアーナの意向など一切訊かれることもなく、両親からは決まった後でそうなったのだと告げられた。
「はじめまして小さなレディ、どうか顔を見せてくれないか」
顔合わせのために訪れた王宮の庭園で、それがレナートの最初の一声だった。
礼を執っていたエリアーナが顔を上げると、金髪の下の青い目と視線が絡む。
整った面立ちが、綺麗に並ぶ白い歯を見せた。
「なるほど。将来、私の妃となる人は、妖精のように可憐な見目をしているようだ」
機嫌良さげにそう言って、白手袋の手を差し出してくる。
おずおずとその手をとると、茶会のテーブルまで丁寧にエスコートをしてくれた。
「レナート殿下。この度はご尊顔を拝しまして、光栄の至りにございます」
出された紅茶は緊張で味が分からなかったけれど、挨拶は問題なくできたはずだ。
そうして、ややギクシャクとお互いの趣味嗜好などについて軽く話し、ほどなく顔合わせの会は解散となった。
――まるで、物語に出てくる王子様みたいに素敵な方だったわ。
帰りの馬車に揺られながら、エリアーナはついさっき別れたばかりのレナートに次に会えるのはいつだろうか、と小躍りしたいような気持ちになるのだった。
この国では、王妃は国王と同じ「陛下」の尊称で呼ばれる。
最優先は子をなし次代へ血を継ぐことだけれど、この国では王妃にも種々の仕事が振られるのだ。
内容は社交会の牽引や外交、祭礼への参加から、公益性の高い大規模事業まで様々。
過去には王妃の主導により、複数の貴族領を横断する河川の治水工事をしたこともあったのだそうだ。
もちろん実務は官僚たちが行うのだけれど、方針を定め、案を精査し、進捗を確認して――なにより結果に責任を負う必要があるのだった。
だから、エリアーナはより多くの知識を修めようと必死に努力した。
王子妃教育で教わるものはもちろん、自国や交流のある他国の文化、歴史、政治に関わる全てのこと。
将来レナートが王になった時、隣で彼を支えられるように。
もしも苦手な分野があるのなら、その仕事を巻き取ったりできるように。
「薔薇は好きだろうか? 特に綺麗に咲いたものを庭師に選んでもらったのだが」
渡されたブーケから、甘くて優雅な香りが漂う。
「はい、花はみな好きですが、薔薇は香りが良く、実もお茶として楽しめるので特に好んでおります」
月に二回ほどの頻度で催された二人の茶会では、よくレナートから花束や装飾品を贈ってもらった。
それが嬉しくて、授業や自習にいっそう励んだ。
レナートは溌剌とした性分で、剣や乗馬を好み才を示したものの、一方で座学を嫌う傾向があった。
王城で並んで授業を受けていると、彼が決して愚鈍ではないと分かる。
教師をたじたじとさせる鋭い質問をするのは、いつもレナートだった。
けれど、ある程度まで理解するとそこで飽きてしまい、以降の授業では上の空になることも多いのだった。
そうやって何年か過ぎるうち、教師たちは次第にエリアーナばかり褒め、レナートには苦言を呈するようになっていった。
そんな中で少しずつ、エリアーナへの対応は変わっていったように思う。
二人の茶会は放置されることが増えていき、たまに姿を現し話題を振っても無視や舌打ちで返される。
エリアーナの自室の花瓶は、空になって久しい。
十五で一緒に貴族学園へ入学したあとは、レナートは多くの令嬢と浮名を流したし、エリアーナは彼女たちから嫌がらせを受けた。
さすがに直接、公爵家令嬢が身を害されるようなことはなかったけれど、不名誉な噂を流されたり、
「この日傘は一緒に街に出た際、レナート殿下に買って頂いたのです。エリアーナ様には申し訳ないことですわ」
などと、面と向かい嫌味を言われることもあった。
学園の食堂は、二階の一区画が特に身分の高い子女専用の特別席となっている。
そこで令嬢たちを侍らせながら、豪華な昼食を摂るレナートとは距離を置き、エリアーナは外のベンチや空き教室で隠れるようにサンドイッチなどの軽食を食べるのだった。
自分が惨めなのだと認めてしまったら、きっと心が折れてしまう。
薄い金属板についた折れ目が元には戻らないように、前より弱くなってしまうのかもしれない。
学園での三年間は、レナートにとって猶予期間みたいなものだ。
卒業の後はすぐに立太子される予定であり、さらにその先で王となれば、羽目を外せる機会もそうないだろう。
――だから、いいのだ。
学生のあいだは、レナートの好きにさせよう。
将来、立場を狙う美女に秋波を送られた場合など、女性への耐性があった方が良いのかもしれない。
色々と試しながら、上手くいったり失敗したりをすることも大事な経験だ。
そんな風に、自分に言い訳をしながらの学園生活だった。
嫌なことから目を逸らすように登城の頻度が増えていき、王妃室に詰め王妃の補佐をすることに傾倒していった。
「エリアーナ、毎日のように来ているけれど、学園は大丈夫なのかしら? あなたが手伝ってくれるのはとても助かるのだけれど、そのせいで卒業できなかったでは、私が叱られてしまうわ」
「問題ございません、王妃陛下。今日の授業内容はすでに修めておりますし、学園にも許可をもらっております」
これまでに積み上げた知識が役に立ち、確かな成果として表れる。
それは萎れそうなエリアーナの心に、水のように染み入り活力を与えてくれるものだった。
けれど、それがいけなかったのだろうか。
王宮では次第に、レナートの悪評がエリアーナにも聞こえるようになってきた。
女性関係ではなく、主に執政面で。
レナートにも、次の王として軽めの公務が割り振られていたけれど、良い結果が出ないことが続いていた。
決して指示が的外れだったというわけでなく、事故や悪天候など、どうしようもない不運も重なった。
あえて足りない点を挙げるとすれば、仕事に傾ける熱量くらいだろうか。
そうして募った苛立ちが、レナートに付けられた官僚たちへと向けられる。
日々、嫌味や罵声を浴びせられて居心地が悪く、仕事の失敗で出世も遠のく。
結果、優秀な官僚ほど、早くに見切りをつけ転属を願い出る悪循環になってしまった。
エリアーナも手伝いを申し出たけれど、すげなく断られてしまう。
「レナート殿下で大丈夫なのだろうか。次の王はフェルナン殿下の方がふさわしいのでは?」
「婚約者のエリアーナ様は、立派に実績を重ねているというのに」
そんなあからさまな声まで聞こえてくるようになった。
フェルナンは、レナートの二つ下の弟。
レナートの国王に似た男性的な容貌に対し、フェルナンは王妃を思わせる美しく優しい面立ち。
子供のころは王宮でたまに会って遊ぶ、小さくてかわいい弟のように思っていたけれど、いつの間にか背丈は大きく抜かれてしまった。
「エリアーナ嬢、目の下に少し影が。あまり無理をされぬよう」
最近では城や学園の廊下ですれ違う際など、そんな台詞で艶やかに笑いかけられると、幼いころから知っているエリアーナでもドキリとしてしまう。
公務でもめきめきと頭角を現し、次第に重要な仕事を任されるようになってきていた。
そうしてできた、学園での不遇と、王宮からの高い評価。
ねじれの中で、やがて諦めるように、学園を卒業さえすれば状況が良くなるのだと信じてしまった。
後から考えれば、もっとレナートと向き合い、彼の立場や心情に寄り添うように振るまうのが正解だったのかもしれない。周りの年長者にも助言を仰ぐべきだったのだろう。
それでも、レナートと出会ってからこれまでずっと、エリアーナはできる限りを彼のために尽くしてきたつもりだった。
残念ながら、その尽力が実を結ぶことはなさそうだけれど……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
婚約破棄の宣言の後、ホールが沈黙し皆の注目を集めたことに気を良くした様子のレナートが、続けて気炎を吐く。
「エリアーナ、お前はマリルーに陰湿な嫌がらせを行ってきたのだと聞いている!」
そうして懐から出したメモであろう紙を朗々と読み上げる。
どうやらエリアーナは、公爵家令嬢という身分や、第一王子の婚約者である立場を笠に着て、学園内でやりたい放題やってきたらしい。
――マリルーの教科書を取り上げ池に投げ込んだり。
そんなことをして、一体何になるというのか。
紙が無駄になるだけで、学園からはすぐに新しいものが支給されるだろう。
――食堂の料理人に金を握らせ、マリルーの食事に味や体調が悪くなるものを混入させたり。
エリアーナは食堂に近づかず、いつもランチボックスを持参して、少ない友人と外や教室で昼食を摂っていた。
――教師を家の権力で脅し、試験の成績を操作したり。
学園は公正を何より是としている。
公表こそしていないけれど、過去には、不正を行おうとした王族が問答無用で除籍されたことさえあったのだという。
等々、いずれもエリアーナにとって、欠片も身に覚えのないことである。
一通りを読み終えたレナートが、長身から険のある目でエリアーナを見下ろした。
「ここまで性根の歪んだ女だったとは。まったく、嘆かわしいことだ」
レナートに体を寄せるマリルーの、こちらへ向ける勝ち誇ったような眼差しも不快だけれど。
なによりエリアーナを絶望へと落としたのは、そんな虚言をレナートが信じていることだった。
それなりに長い時を、共に過ごしてきたからわかる。
彼は演技をしているわけでなく、マリルーの言っていることを信じて疑っていない。
エリアーナが彼女に嫌がらせをしたのだと、本気でそう思っているのだ。
――私はその程度の信用さえ、得ることができなかったのね。
学園を卒業するまで我慢すればなんとかなるなど、そんな浅はかさに口の中が苦くなる。
弁明する気力さえ湧かず、ただ震える足に力を込めるのが精一杯だった。
「学園にも、お前の卒業資格を取り消し、退学処分とするよう言わねばなるまい――」
「兄上、どうかお待ち下さい」
追い打ちの言葉を切ったのは、銀鈴のように涼やかな声だった。
声の主に気づいた人々の波が割れ、道ができる。
「エリアーナ嬢とは、小さなころから一緒だったではないですか。彼女がそのような恥ずべきことをする人ではないなど、今さらわかりきったことでしょう」
そう言って、第二王子のフェルナンが盾になるようにエリアーナの前に立つ。
まだ学園の一年である彼は、本来ならこの卒業パーティーにはいないはずの人である。
「フェルナン……お前、どうしてここにいるんだ?」
「学園がパーティーのスタッフを募集していたので、手を挙げました。設営のあとは外で来賓の案内などをしていたのですが、いやぁ、ホールの様子がおかしいのに気がつけてよかった」
シンプルなスーツを纏うフェルナンの片腕には、スタッフであることを示す腕章がつけられていた。
横槍で勢いを削がれた形のレナートが、眉根を寄せる。
「王族が下働きとは、相変わらず物好きなことよ。何の用だフェルナン、お前はマリルーが私に嘘をついているとでも言うのか!?」
「あいにく、僕はそのご令嬢についてよく知りませんので。忖度が働かないよう、城から室付きでないものを派遣し、エリアーナ嬢の嫌疑について検めたいと思います。いかがでしょう兄上?」
「好きにしろ! どうせ無駄なことだろうがな!」
沈黙していた周囲の人々からどよめきが上がった。
事の成り行きについて行けず困惑していると、不意に振り向いたフェルナンが、その顔を耳元へ近づけてくる。
「やあエリアーナ嬢。僕に任せてくれれば、全部上手くやってみせるよ」
吐息さえかかりそうな距離でそう囁いてから二、三歩下がり、パチリと青い目の片方を瞑ってみせる。
なんだか呆然としてしまい、エリアーナはそれ以上、何も考えられなくなってしまった。
それから一週間ほどが過ぎ、王都邸で謹慎していたエリアーナに、王城からの呼出状が届いた。
二日後、両親と共に馬車で王宮へと向かう。
案内された部屋には縦長のテーブルが設えられており、レナートやフェルナン、マリルーと、彼女の親であるガステルム伯爵夫妻がすでに席についていた。
しばらくして時計の針が定刻を指すと、教会が打つ時告の鐘の音とともに、国王と王妃が文官たちを引き連れ入室し、人が揃う。
誰もが固い表情で唇を引き結び、肌がひりつくような緊張感の中、立席したフェルナンが飄々と調書を読み上げる。
「――ガステルム伯爵令嬢が訴えた一連の被害について、目撃者として報告されている学園関係者に確認した結果、ほぼ全員が否認しました。残りの者も、信憑性が高い証言は皆無です。試験についても、不正は一切ありませんでした。以上から、令嬢の告発には、事実や証拠の捏造が多く含まれていることは明らかです」
フェルナンがそう締めくくると、耳まで紅潮させたレナートが勢いよく立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待て。そんな訳があるかっ! ……中にはマリルーの思い違いもあったのかもしれないが……それで全てでっち上げだとするのはさすがに乱暴ではないか?」
「そ、そうです。私、確かにエリアーナ様に何度も虐められてっ。これは誰にも言ってなかったんですけど、先月は、背中を押され階段から突き落とされたんです! 幸い怪我はなかったんですが、下まで落ちた私を、とても恐ろしいお顔で見下ろされていました」
庇護欲をかきたてる表情と声音で訴えるマリルーに、フェルナンが驚いたように目を大きく開く。
「ガステルム伯爵令嬢、それは本当のことでしょうか? エリアーナ嬢が先月あなたの背を押し、学園の階段から突き落とした。万物の母なる女神に真実であると誓えますか?」
国教の寓話を元にしたこのような言い回しは、古くからこの国に根付いているものだ。どうしても信じてほしい。自分は潔白なのだと強く訴える際に用いられる。
「もちろん誓います。ごめんなさい、他に見ていた人もいなかったし、私……怖くて言えなくって。お願いです、皆様どうか信じて下さい」
そして、誓いを立てなお偽りを述べたのだと露呈した場合、その者の信用は地に落ちて、誰にも相手にされなくなる諸刃の剣。
フェルナンの顔からふっ、と表情が消える。
マリルーに向けるのは、路傍の石でも見るような乾いた眼差しだった。
「エリアーナ嬢は、学園の授業について出席の免除が認められています。試験の成績が特に優秀な生徒のみに与えられる特権なので、日々、遊ぶのに忙しいお二人には縁遠いものかもしれませんが」
そこで言葉を切り、顔を赤くするレナートとマリルーを一瞥した後、フェルナンが続ける。
「エリアーナ嬢はこの三ヶ月、登校は試験日のみで、それ以外は城や視察先などで王妃陛下の公務を手伝っていました。つまり、試験のなかった先月、彼女は学園に一度も行っていないのです。もちろん城に正式な記録も残っています」
部屋には今や、重たい沈黙が横たわっている。
誰もが言葉を発せず、時計の針の硬質な音だけが響いていた。
レナートは顔色をなくして下を向き、マリルーは口元の片側が引きつって、細かい痙攣を繰り返している。
「さて、学園にいなかったエリアーナ嬢に押され、階段から突き落とされたというガステルム伯爵令嬢は――」
「フェルナン、もうよい」
それまで黙していた国王が、はじめて声をあげる。
「下らん茶番にこれ以上は時間の無駄であろう」
言い捨てながら、目線でフェルナンを座らせ入れ替わりに席を立つ。
「ガステルム伯爵令嬢よ、嘘はすでに暴かれた。そなたの罪は愚息を誑かし、稚拙な虚言で王族の婚姻をかき乱したことだ。エリアーナを貶め、自らが妃となる夢でも見たか。随分と、この国の王妃の重責を見くびられたものだ。刑は法に則り下すゆえ、しばし牢で待て」
椅子からずり落ちるマリルーを、控えていた兵士たちが速やかに連れて行った。
彼女の両親はうつむき、憔悴で十年も老け込んだようにさえ見える。
国王が天井を仰いでひとつ嘆息し、それからレナートへと顔を向けた。
「次はお前だレナート。お前への沙汰は、この場で決めねばならぬ」
レナートがぎくりとした様子で、背筋を正す。
この国には、王族を裁く法は存在しない。大概のことは目溢しされる。
しかし、いや――だからこそ、看過の一線を少しでも踏み越えたならば、国の頂点からの、法に守られない苛烈な私刑を受けるのだ。
「お前の良くない話は聞いていた。それでも失敗を糧とし、少しずつでも成長してくれることを願っていたが……此度の愚はさすがに度し難いな」
威厳のある重い声には、悲嘆と怒り、そして諦めがない交ぜになったものが滲んでいた。
「まさか王家と公爵家で決めた婚約を手前勝手に撤回するとは。エリアーナは聡明で美しく、将来お前を支えられるよう懸命にやってくれていた。お前には勿体ない相手だぞ」
「それはっ、私はマリルーに騙されて――」
「黙れ痴れ者がっ! お前は吹き込まれた話が真実か調べようとしたのか? 本来守るべき婚約者の悪評を聞かされ、嬉々としてそれに乗ったのであろう。情けない王家の恥さらしめ!」
部屋の緊張が飽和点に達し、息の仕方さえ分からなくなってしまいそうになる。
「………………」
レナートが押し黙ると、国王は隣に座る王妃に何かしらを耳打ちする。
王妃は黙考するようにしばらく目を閉じて、それから黙ったまま首肯した。
「レナートよ、お前の王族籍を剥奪し、北の開拓村での労役を命じる。一方的な婚約の解消で発生する違約金は王家が立て替えるが、お前はそれを働いて返済しろ。給金の八割は徴収するので、残りで倹しく暮らすがよい。百年働いても返せるものではないが、慶事の折には恩赦が出るかもしれぬ」
下された罰は、犯した過ちに対し重すぎるとも思う。
けれど罰が王族籍の剥奪だけだった場合、恐らく王城から放り出された彼はすぐに死ぬのだ。
王の怒りを買って平民落ちした元王子を受け入れる者がいるはずもなく、王子として生きてきたレナートが市井で一から身を立てることも現実的ではないだろう。
開拓村には飯場があり、朝晩は食事が出るし、寝床も用意される。
給金は、それらの諸経費を差し引いて出されるものだ。
王宮で育った彼には到底満足できない粗末なものだろうけれど、それでも最低限、人らしく生きることはできるのだ。
そこに国王と王妃のレナートに対する思いの断片を感じ、エリアーナは胸が苦しくなった。
「連れて行け」
国王の声で、兵士たちが寡黙に動く。
両腕を拘束されたレナートが引きずられながら、忙しなく視線を彷徨わせる。
そうしてそれは、エリアーナのものとぶつかった。
「エリアーナ……私を助けろッ!」
余裕なく、感情的な声。
反対に、感情をなるべく表に出さないようにして、静かに椅子から立つ。
少しでも綺麗に見えるよう、背筋を伸ばして顎を引いた。
「レナート様、私では国王陛下のご裁量に否は申せません。ですが、もしも貴方が望まれるのなら、共に生きて死ぬことはできます」
「――は?」
ぐっと腹に力を入れる。
ドレスの下に隠したペンダント。それに付いたお守りの石を、服の上から強く握る。
今この瞬間こそ、人生の岐路に違いなかった。
「私も共に北の地へ参りましょう。この細腕では木を切ったり、岩を動かしたりはできないでしょうが、それでも何かの役には立つかもしれません」
おかしなことを言っている自覚はある。
それでも、胸の内から自然と出てきた言葉だった。
自分はもう、壊れてしまっているのかもしれない。
レナートが青い目を大きく見開く。
それから顔をくしゃりと歪め、下を向いた。
「結構だ。お前など……いらん」
言葉とは裏腹に、顔を上げた彼はかつてのような優しい目をしていて。
「……承知いたしました。どうか寒い地でもお体を大切になさって下さいませ」
会うのはこれが最後だろう。
この先で、違えた道が再び交わることは恐らくない。
自分は、彼の中に何かを残せたのだろうか。
レナートが、滑らせるように視線を外す。
そうして部屋の面々に頭を下げてから、兵士に従い静かに出ていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レナートが北へ送られてから三ヶ月が経ったころ、エリアーナは王宮の古い区画を訪れていた。
そこは水の豊かな庭園で、古の噴水群が今も現役で稼働しており、水景や飛沫が涼感を与えてくれる。
あの後、ガステルム伯爵家の令嬢マリルーについては、法廷で判決が下された。
科されたのは、宮廷への無期限の出入り禁止と、少なくない額の財産刑。
取り立てた罰金は、アルデレテ家への違約金に充てられた――つまり、レナートの借金が減ったのだった。
ずいぶん軽い処分だと思ったけれど、結局その後、彼女は家から縁を切られ、遠くの修道院に入れられたという。
レンガの小道をしばらく進み、最も古いだろう一基の前で足を止める。
石造りの噴水は上下二段になっていて、上段からの水を受ける下段に特徴があった。
縁には男女の老人の顔が意匠されており、全部で二十四の顔が、盤のまわりをぐるりと囲んでいる。
そして、時刻に応じた数の口から水が流れる、不思議な水時計になっているのだった。
ここには、大切な思い出がある。
あれは十二歳だったか。
レナートと婚約して、しばらくした頃だった。
彼に案内され、初めてこの水園を訪れた。
生き生きと弾かれた水が、心もワクワクと躍らせる。
そうして顔のついた奇妙な噴水の前で、かつての少年は、少女に小さな石を贈った。
小指の先ほどの、ころりとした菫青石。
群青から淡い枯草色へと、見る角度によって色を変えるそれは、レナートが避暑地に赴いた際、河原で拾ったのだそうだ。
「エリアーナにあげるよ」
「よろしいのですか?」
「うん。綺麗なものは自分の箱にしまうより、大事な人に贈った方がいいって母上が言っていた」
その瞬間、エリアーナは、はっきりと恋に落ちた。
――これが、私の宝物だわ。これさえあれば、どんなことだって――
そんな宝物を、今日はここに置きに来た。
見方で色が変わる石は、複雑に絡まったレナートへの想いが形をなしたもののようにも感じられる。
これが最後だと、祈るように握りしめた。
――これまで、私を支えてくれてありがとう。
石を、下段の水盤へと落とす。
ぽちゃり、と小さな音がして。
ゆらゆら揺れながら沈んでいく石と、水鏡の自分が重なった。
「……っ、ふっ、く……」
ぐっと歯を食いしばっても、嗚咽が漏れてしまう。
瞼を閉じ、目の奥に力を込めても、涙はとめどなく溢れた。
弱ったところへ付け込むように手を差し伸べ、それでも選んではもらえなかった。
――泣くのはこれが最後、最後よ。
今の自分は、きっと酷い顔をしているだろう。
化粧も崩れ、とても人には見せられない。
噴水の人面も、どこか呆れたような表情に見えて。
――あなたへの思いはここに置いて、私は先に進みます。
たとえ少しずつでも、光のあたる方へ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから六年が経った。
エリアーナは立太子した第二王子のフェルナンと結婚し、王太子妃となった。
一昨年に男児を出産し、今は第二子を身ごもっている。
レナートとのことについて、後ろめたさがあるのだろう。
夫になったフェルナンをはじめ、周りからは過剰なほど丁寧な扱いを受けていると感じる日々である。
フェルナンは、エリアーナの心が落ち着くまで、辛抱強く待ってくれた。
決して急かすようなことはなく、ときおりエリアーナのもとを訪れ、明るい話で笑わせようとしてくれた。
弟のように思っていた少年は成人を迎え、美しくも覇気ある立派な青年になっていた。
かつてレナートの婚約者だった頃から、国王夫妻との会話の中などで、これは国や王家の秘密だろうと思えるものが幾つもあった。
緊急時の隠し避難路から、どの書物にも記されていない過去の王族の醜聞など様々。
さすがに秘中の秘とされるものはないだろうけれど、そういったことが重なるにつれ、枷のようなものなのだと理解した。
フェルナンには、婚約者を決める話が不自然なほどになかった。
エリアーナは、未来の王妃となるべく国の秘密を含めた教育がされた。
だからきっと、そういうことなのだろう。
「エリアーナ、いいだろうか」
そう言って、エリアーナの私室にフェルナンが入ってくる。
その顔には、口にしたくない言葉を抱えている苦悩の色がありありと浮かんでいた。
嫌な予感で、反射的に喉が鳴る。
「兄上が……亡くなった」
「……」
「流行り病にかかり、五日ほど臥せってそのまま逝ったのだそうだ」
「……」
「君へ残した手紙を預かっている。……よければ読んでもらえるだろうか」
頭の中は真っ白に染まり、何も考えることができない。
手紙は検閲を受けたのだろう。すでに封が開いていた。
粗末な紙の上で、震えるように乱れた文字が綴られている。
病床の中、最後の力を出したのだろうか。
『城で活躍するエリアーナが羨ましくて、都合のいい話を信じてしまった』
『頭を空にして体を動かす日々は、思ったより悪くなかった』
『出てくる飯は最悪だったが、たまに村の男たちに奢ってもらう、水で薄めた安酒は旨かった』
そして最後に、
『私はもうすぐ死ぬだろう。色々と悪かった。君には嫌がられるかもしれないが、あの世で幸せを祈っている』
手紙から顔を上げると、フェルナンが不安気に瞳を揺らしていた。
「……開拓村での暮らしは、意外とレナート様には水が合っていたようです」
「……そうか」
婚約破棄を言い渡されたあの日を思い出す。
あれから、随分と遠くまで来てしまった気がする。
かつての婚約者は遠くへ去り、今はその弟と結婚し子を生んで、腹には二人目を宿している。
――もしかして、私は許されないことをしているのかしら?
分からない。
けれど、それでも。
できることを、できる限りでやってきたはずだ。
あの日、もう泣かないと決めた。
せめてもの矜持だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
長い時が流れた。
国王となったフェルナンはまず名君といってよく、その治世には大きな災害や戦争もなく、国は栄えた。
もちろん万事うまくいったわけもなく、浮き沈みはあったし、国が傾くのでは、と眠れない日々を過ごす局面もあった。
それでも、総じれば平和で豊かな数十年であった、と後世の歴史書には記されるだろう。
エリアーナも王妃として、国策の数々を推し進めた。
とりわけて、各地に国営の産院を建て、裕福でなくても安心して子を生める環境を整えたことが喜ばれた。
フェルナンとの間には、二男と一女を授かった。
私人としての彼は最期の時まで誠実な夫であり、愛情深い父親であり、孫には甘い祖父だった。
十年前にフェルナンを見送ったあと、立太子していた長男が目立った反対もなく王位を継ぎ、今のエリアーナは太后の立場である。
最近では、たまに国王となった息子の相談を受けたり、遊びに来る孫たちの相手をしながら、基本的にはベッドの上で静かに過ごしている。
日中も、覚醒している時間と、ぼんやり微睡んだ時間が交互に訪れるようになっていた。
そして日を追うごとに、後者の比率が高くなっていく。
昨日の事すら霞がかったように思い出せないことも多いのに、遠い思い出ばかりが鮮やかに脳裏を過る。
なかでも、封じた蓋を内側から叩くように、強く浮き上がろうとする記憶と感情があった。
――まったく浅ましいわ。こんなおばあちゃんになっても振り切れないなんて。
「エリアーナ様、お体の加減はいかがでしょうか?」
自嘲していると、身の回りの世話をしてくれている侍女が、心配そうな顔で聞いてきた。
「今日は少し楽よ。悪いけれど、あなたにお願いしたいことがあるの」
嘘だった。命は今日にも尽きるだろう。
家族や友人、世話になった人たちとは十分に言葉を交わしてきたと思う。
医師やたくさんの人々に囲まれた仰々しい看取りなど、エリアーナの趣味ではなかった。
「はい、何なりとお申し付け下さいませ」
「探してきてほしい物があるのよ。もうずっと昔に手離した物なのだけれど……」
詳細を伝えると、侍女は承りましたと応えたあと、頭を下げ部屋を出ていった。
ドアの閉まる音を聞きながら、小さく息を吐く。
――とっくに失くなってしまっているわよね。
もう何十年も前に捨てたものだ。
残っているはずがないと分かっている。
向かわせた彼女も、無駄足になってしまうだろう。
それでも、もしまだ残っていたならば、その時はもう運命なのだと受け入れてしまっても良いのではないか。
しばらくして、侍女が戻ってきた。
「エリアーナ様、ただいま戻りました」
ベッドの上のエリアーナは目を閉じ、寝入っているように安らかな表情をしている。
けれども、その顔色は生者にしては白すぎた。
「エリアーナ様? だ、誰かッ……!?」
声を上げながら揺すっても反応はない。
エリアーナは、六十有余年の生涯を閉じたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ぱちゃりぱちゃり――軽やかな水の音で意識が浮上する。
瞼を上げると、飛沫が涼やかに辺りを跳ねていた。
「あ、あらっ?」
思わず出た声は、老人の掠れたものではない。
見ると、枯れ木のように痩せ細っていた腕が、若々しく戻っている。
噴水の水面に映るのは、かつてレナートと婚約を結んでいた頃の姿で。
不思議と、状況を静かに受け入れることができた。
生の果てで、人はその一生を回想したり、幸せな夢を見るのだという。
久しぶりに車椅子ではなく自身の足で、水の庭を歩く。
そうして人の顔がついた、ひときわ古くて奇妙な噴水へと辿り着いた。
下の水盤を覗き込むと、底には石がころりと転がっているのが見えた。
――ああ、あった。あったわ。
手を伸ばす。水は思ったよりも冷たくて、久しぶりの感覚が体を走った。
手にした石を掲げて見やる。
ふふ、と、笑いが零れた。
最後に宝物が戻ってきた。それが素直に嬉しい。
夫のフェルナンに知られたら、叱られてしまうだろうか。
「――エリアーナ」
何十年ぶりか。
後ろからひどく懐かしい声がして、振り返る。
「その……迎えるのが私で良いのかとも思ったんだが、フェルナンに頼まれたんでな」
かつての婚約者が別れたころの姿で、少し困ったように眉を下げている。
――これでもう、思い残すことはないわ。
掌の中の石をぎゅっと握る。
これは夢だ。すぐに過ぎてしまう儚い夢。
それでもエリアーナはようやく全て、報われたような気もするのだった。
「お懐かしゅうございます。レナート様――」
二つ目の太陽がのぼったかのように、世界が光に満たされていく。
悔恨も傷心も、燃え残った焦がれだって、何もかもを眩く覆って――
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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2025/5/22 追記
思ったより多くの方に読んでいただき、嬉しくも怖怖としております。
頂いた感想の中で、選ばれなかったフェルナンが可哀想というものがいくつかあったので、無粋と知りつつ少し補足を。
※想像の余地を残したい場合は読まれないほうが良いかもしれません
フェルナンは、エリアーナの封じた思いも含め、彼女を愛しました。
エリアーナもきっと、もらった愛を返したのでしょう。
訪れた最後の時に、フェルナンはレナートに迎えの役割を譲りました。
エリアーナが夫のフェルナンよりレナートを選んだ、ではなく、会わせたらエリアーナが喜ぶだろうな、というフェルナンの選択です。
以上、完全な蛇足で失礼いたしました。