出会い
下校中、雨が降り出した。みるみるうちに強くなって、激しい雨になる。朝の天気予報では降水確率が30%だったから、傘を置いてきてしまった。いつもは持ち歩いている折り畳み傘も、今日に限って別のバッグに入れっぱなしである。
「どうしよ」
そうやって呟いた声は雨音にかき消される。家に帰るにしても、学校に戻るにしても、ここから走って5分以上掛かってしまう。小雨ならともかく、この雨の感じでそれはかなり厳しい。どうせ通り雨だろうからしばらく雨宿りさえできればよいのだが、この辺りは住宅街で雨を防げる場所がなかった。どうしようか。少し思案して、ふと思い出す。そういえば、この先を真っ直ぐ行ったところに、数年前に潰れた商店があった。シャッターは閉まっているだろうが、屋根は変わらずあるはずだ。これが考えうる中で最善手だろう。いつもなら右に曲がる交差点を通り過ぎ、小走りで商店へと向かった。
思った通り、商店の屋根は昔のままだった。地面に跳ねた雨が入ってくるものの、気になるほどではないので、ここで雨宿りさせてもらうことにする。雨に濡れたのは短時間だったが、制服もリュックもだいぶ水を含んでいた。せっかく新しくおろした靴下も、もれなくベチョベチョだ。
「あーもう、最悪。なんで雨なんて降るかなぁ」
つい口から低い声が漏れた。反響する雨音とともに、こぼれた愚痴も静かに響く。苛立っていても仕方がないので、リュックからタオルを取り出して、腕と脚と頭を拭いた。タオルも若干湿り気があったが、びしょ濡れの体と比べればだいぶマシである。リュックの撥水性のおかげか、教科書や筆箱はあまり濡れていなくてよかった。一通り拭き終わってから、私はスマホを取り出した。適当にSNSを開いて、よく知らない人の投稿を流し見る。そうしていれば、どうにか時間が過ぎるはずだ。
「こんにちは。雨すごいですね」
急にそう声をかけられたのは、雨宿りを始めて少ししてからのことだった。スマホに夢中になっていたから、人が近づいてきていたことに気がついていなかった。驚いて顔を上げると、いつの間にか制服を着た男の子が隣に立っている。柔らかそうな髪からは水が滴り落ちていて、彼も私と同じで雨宿りをしに来たのだろうと分かった。
「そうですね。急に降ってきたのでびっくりしちゃいました」
「俺もです。傘持ってくればよかった」
「ニュースでは晴れの予報でしたもんね」
なんとなくやり取りが続く。私はあまり人見知りをする方ではないし、相手も同じなのだろう。とはいえ、さすがに堂々と顔を見るのははばかられて、雨を眺めるふりをしながら横目で顔を盗み見た。派手ではないが、穏やかで整った顔立ちをしている。正直ちょっとタイプだ。
「高校生さんですよね? 何年生ですか?」
「俺ですか? えっと、1年生です」
「じゃあ、同い年だ」
断じてタイプだからというわけではないが、こちらから質問をして話を広げてみる。同い年と聞いて、何故かなんとなく嬉しい。彼も同じなのか顔を綻ばせた。優しい雰囲気が増して、ちょっと、いやかなり魅力的だ。
「そうなんだ、それなら敬語辞めちゃおうかな。もしよければ、雨宿りがてらちょっと雑談でもどう?」
「え、あ、うん! どうせ暇だもんね!」
彼の表情に気を取られていたせいで、返事が一瞬遅れる。向こうから雑談を提案してくれるとは。雨宿りにここを選んで正解だった。タイプの男の子とゆっくり話せるチャンスなんてそうそうない。私の場合、女子校に通っているから尚更である。普段男子と話す機会がない分、今たくさん話そうと心の中で決める。彼は私のそんな決意など知らず、のんびりとした顔でこちらを見ていた。
「あ、そうだ。ちょっと手出して」
しばらく雑談をしていると、彼が急にそんなことを言い出した。よく分からないが、悪い予感はしなかったので、大人しくそれに従う。コロンと手に落とされたのは、白い包みの飴玉のようなものだった。
「飴? 私がもらっていいの?」
「うん。たくさん持ってるから、もらってくれると逆に助かる。これすごく美味しいんだよ」
唐突ではあったものの、くれるというのならもらってしまおう。飴は好物だし、彼の顔もタイプなのだから。その場で包みを解いて舐め始めると、彼はまた顔を綻ばせた。
不思議な味。最初の感想はそれだった。こういう表現をすると不味そうに聞こえるかもしれないが、実際はその逆だ。とても美味しい。甘いような、酸っぱいような、ほんのり苦いような、そんな味がうまく混ざりあっている。こんな美味しい飴を知らずにいたなんて、飴好きが聞いて呆れる。そんなレベル。
「あめは嫌い?」
突然彼にそう尋ねられてハッとした。飴を口に入れたまま、しばらくぼーっとしてしまっていた。一瞬、飴か雨か分からなかったが、イントネーション的に雨のことだろう。
「うーん、あんまり好きじゃないかな」
そう言って笑ってみせると、彼は悪戯っぽく微笑んで再び尋ねてくる。
「じゃあ、あめは?」
「そっちは好き。君は?」
今度はきっと飴のことだ。答えつつ私の方からも聞き返してみる。たくさん持っているからと、一つ分けてくれたくらいだ。おそらく飴好きの同志だろう。だからこの質問にあまり意味はないのだが。
「俺も好きだよ」
彼が声を少し低くして言ったその言葉に、不覚にもキュンとしてしまった。かっこいい男の子に、まっすぐに見つめてそんなことを言われたら、そうなるのは必然だろう。なんて、私の惚れっぽさを正当化しようとしているだけなのかもしれない。心なしか熱くなった頬を、手で仰いで冷ます。
「あめ」
「ん?」
気がつくと彼は道路の方を見ていた。つられて私もそっちを見る。どんよりとした雲がいることに変わりなかったが、雨自体は止んでいるようだ。たしかに先ほどから雨音があまり気にならなくなっていた。向こうの方の空は晴れているから、じきにこの辺りも晴れるだろう。
「止んだね。もう帰る?」
彼に尋ねた。普通に聞いたつもりが、思ったよりも暗い声が出てしまった。まるで引き留めようとしているかのように。実際、そういう気持ちが全くなかったとはいえない。
「……まだ帰らない」
彼はちょっと考える素振りをして、そう答えた。私の気持ちが伝わってしまったのだろうか。何にせよ嬉しいことには違いなかった。
それからしばらく、たわいのない話を続けた。改めて軽く自己紹介。そして、お互いの学校の話、中学時代に流行ったものの話、好きなお菓子の話。初対面だというのに、話は途切れることがなかった。彼とは妙に話しやすいのだ。こちらを否定することもないし、マウントを取ってくることもない。話していて気が楽だった。
「優馬くんの学校変な人多いよね」
「いやいや、沙紀ちゃんのところほどじゃないって」
自己紹介で教えあった名前を呼ぶのにも、お互い躊躇がなかった。彼、坂田優馬くんは、ここから歩いて20分ほどのところにある男子校に通っているらしい。家も近所にあるそうで、徒歩通学だという。そんなところも私と同じで親近感が湧いた。
話が盛り上がる中、スカートにしまったスマホが振動した。着信だ。SNSやゲームアプリの通知はサイレントにしているから、画面を確認しなくても分かる。今どきわざわざ電話を掛けてくる人は少ない。だからすぐに発信元の見当がついた。心配性で過保護なその人は、雨が降ったり、帰りが遅かったりするとこうして電話を掛けてくる。
「ごめん、電話」
短い言葉で謝りを入れて、彼から三歩だけ離れて電話に出る。思ったとおり、掛けてきたのはママだった。
「沙紀、今どこにいるの?」
「えっと、まだ学校」
電話がつながってすぐの質問に、私は声を潜めて答えた。それでもこの距離では優馬くんに聞こえてしまう。別にたいした嘘ではないが、後ろめたさと申し訳なさがあった。ママに対してじゃない。優馬くんに対してだ。恐る恐る彼の方を見やると、何かを察したようで黙って頷いてくれた。
「そうなの? 何かあった?」
「ううん、雨降ってたから残って勉強してただけ。もう少ししたら帰るね」
「誰かと一緒?」
「ううん、一人」
「そう。じゃあ気をつけて帰ってきなさい」
言いたいことはそれだけだったのが、あっさり電話は切れた。スマホをしまい直して、ふぅと息をつく。先程までの楽しい気分が一転、なんだかどっと疲れてしまった。
「大丈夫?」
私の様子を見た優馬くんが、心配そうな顔で聞いてくれる。優しい子だ。私は堂々嘘をついていたというのに。
「うん。ごめんね、話切っちゃって」
「それはいいけど。もしかして早く帰らなきゃだったりする? 俺こそごめん、引き止めちゃってて」
「違う違う! あのね、うちの母親ちょっと過保護っていうか過干渉で。どこにいるの、誰といるの、何してるの、って全部把握したがるんだよね。スマホも勝手に見るし。なんか追及されるのが嫌で、つい嘘ついちゃった」
ママのことが嫌いなわけではない。むしろ仲はいい方だと思う。でも、根掘り葉掘り聞かれるのも、勝手にスマホを見られるのもストレスなのだ。そんな理由で嘘をつくなんて、幻滅されただろうか。こうやって優馬くんと話しているのに、一人でいるふりをして。それを近くで聞く立場だったらいい気はしないだろう。だが、優馬くんは嫌そうな顔一つしていなかった。ただ少し驚いたような表情をしているだけだ。
「スマホまで見られるんだ! それは確かに嫌だね」
「そうなの。しかも、それを悪いと思ってないというか。親なんだからいいでしょって感じで、平然と見てくるからさ。……って、ごめん! 親の愚痴なんか聞かせちゃって」
「全然いいよ。親のこと愚痴りたいときってあるもんねぇ」
愚痴っても嫌がらない。普通、初対面で親の愚痴なんて聞かされたら、少し嫌な気持ちがするものではないだろうか。しかし、彼にはそんな素振りは全くなく、むしろ話しやすい雰囲気を作ってくれている。優しいし、聞き上手だ。そのおかげで、親の愚痴から広がって、またいろんな話をしてしまった。
話に夢中になっていると、段々と空が暗くなってきた。さっきのように雨だから暗いわけではなく、日が落ちて暗くなっている。さすがにそろそろ帰らなくてはいけない時間だ。
「だいぶ話し込んじゃったね。私もう帰らなきゃ」
そう伝えると、彼は明らかに悲しそうな顔をした。そんな顔をしてくれるほど、この時間が楽しかったのだろうか。それなら嬉しい。私だって、久しぶりにこんなに話ができて楽しかった。叶うことなら、またこうして会って話がしたい。
「……沙紀ちゃんさえよければさ、また今度会えないかな?」
優馬くんは少し不安げな声でそう言った。こういう出会い方だったから、再会を望むのがはばかられるのも分かる。でも、同じことを考えていたのだから、断る理由がない。
「私もまた会いたいって思ってたから嬉しい。優馬くん、スマホ持ってる? 連絡先交換しようよ」
そこまで言ってからハッとした。連絡先を交換するにしても、ママにやり取りを見られたら困る。いや、困るというより嫌だ。男子とのメッセージなんて、親に見られたくないもの上位に入るだろう。優馬くんも困り顔をしていた。スマホを勝手に見られると愚痴っておいて、こんなお誘いをされたら、そんな顔になるのも当然である。
「ごめん、今のなしで。でも連絡先交換しないと会うの難しいかな。どうしよっか」
「それなら、次また雨の降る日にここで会わない?」
そう提案されて、ついつい笑ってしまった。そんなあやふやな約束、変だ。変だけど、なんだかロマンチックで素敵な気もした。
「うん、そうしよ。早く雨が降るといいね」
「そうだね。次の雨が楽しみだなぁ」
「じゃあ、また今度ね!」
それから私は手を振って歩き出した。だが、一つ思うところがあったので、すぐに足を止めて彼の方を振り返る。彼は不思議そうに首を傾げた。
「最後に一つだけいい?」
「いいよ。何?」
「なんで冬服なの?」
これは私が最初から思っていたことだった。
今は九月の下旬。暦では秋というが、まだまだ気温は高い。私は今、半袖のワイシャツにサマーベストという格好をしている。だが、彼の格好は紺のセーターにブレザーと、暑そうなものだった。
私の質問に、彼はとても困った顔をして沈黙した。うっかり地雷を踏んでしまったのかもしれない。あまりにも無神経だった。この暑さの中冬服でいるということは、きっとそれなりの理由があるはずなのに。
「あっ、別に答えてくれなくてもいいの。ちょっと気になっ」
「寒いの苦手なんだ」
私の言葉を遮って、優馬くんが答えた。先程までと比べて語気が強く、びっくりしてしまう。しかし、彼の目は少し潤んでいる気がした。
「そっか」
私は努めて明るい声で言った。もし何か事情があるのであれば、これ以上突っ込むべきではないだろう。
「ばいばい」
私がそう笑いかけると、彼もどうにか笑って応えた。
「また雨の日に」
私は雨が好きではない。でも、次の雨の日が待ち遠しくなり始めていた。
家に帰ると、私は慌てて洗面所に向かった。学校で勉強していたと嘘をついた以上、雨に濡れたことがママにばれるのは避けたい。優馬くんと話をしている間に多少は乾いてきていたが、さすがに髪も制服も完全には湿り気が取れていなかった。
「沙紀、何かあったの? 制服汚した?」
タオルで髪と制服を拭いてからリビングに向かった私に、ママはそう尋ねてきた。
「え? なんで?」
「だって、いつもはママが言わないと手洗いうがいしないじゃない。今日は珍しく直行してたから何かあったのかと思って」
勘づかれている。仮に優馬くんとのことが伝わったからといって、叱られるようなことはないだろう。ただ、ママは嘘をつくことには厳しいし、詮索したがりだから、隠し通した方が楽な気がした。
「んーん、何もないよ。それより今日のご飯なに? お腹すいちゃった!」
「そう? じゃあいいけど。今日のご飯はカレー」
「やったー、カレー好き!」
「もうご飯にしちゃうから、机の上拭いといて」
ママはそんなに気にしていない様子で、ご飯をよそいに行った。なんとなく最近、ママの前での自分が演技っぽく感じる。特に、誤魔化したいことや隠したいことがあるとき、わざとらしさにドキドキしてしまう。自分でいうのもなんだが、今は思春期なのもあって聞かれたくないことがいろいろあった。だから、知りたがりのママがいる家は、少し息苦しい感じがしていた。