「ハナ、大好きだ!」でお願いします!
同じ高校に通うミキヒコ先輩(高2)とハナちゃん(高1)は付き合っています。そんな2人は演劇部員。ミキヒコ先輩は淡白で、ハナちゃんはそれが少し不満。ミキヒコ先輩から、もっとたくさん甘い言葉をかけてほしいハナちゃん。そこで、ハナちゃんは、思いつきます。ラブラブな台本を読み合わせに使おう!
演劇部員にとって、読み合わせは、大切な稽古です。読み合わせとは、台本に書かれているセリフを、声に出して読んでみる稽古です。ただ声に出すだけでなく、感情を込めて読みます。ドキドキする台本を、ミキヒコ先輩と、いっぱい読み合わせしたい! 照れたら負け! のルールで勝負です。
今回、ハナちゃんが選んだのは『月がきれい』(アニメ版/エピソード13/それから)のようだ。このアニメは、照れ隠しなしでコメディ要素ゼロの、ガチ恋愛アニメだ。高校受験を控えた中学生同士、陸上部の女子と文芸部の男子の物語である。
必死に手をつなぎ、ぎこちないキスをし、嫌われたらどうしようと苦悩する。最大に大切なのに、今にも壊れてしまいそうな関係が、丁寧に表現されている名作だ。ちなみに、ミキヒコ先輩とハナちゃんは、キスはまだ。
ハナちゃんが選んだシーンは、ヒロインの茜が、引っ越しをしていく、この物語の最後の場面だ。ヒロインの引っ越しで、愛し合う二人は、離れ離れになる。この恋愛を続けるには、時間だけでなく、電車代だってかさむ。
電車代とか、大人には些細なことかもしれない。でも、中学生には、電車代だって、小さくない障害だ。相手のことを大切に思うからこそ、一方が電車代をバイトで稼ぎ、他方は陸上部の活動を頑張る・・・そういう負担の不公平があるのに、本当に続けていけるのかと悩む。
そもそも、遠距離恋愛を、続けるべきだろうか。いや、こういうことは、続けるべきとか、そうじゃないとか、べき論ではないだろう。そう頭では理解できても・・・辛い。それでも二人は、この遠距離恋愛の不安を乗り越えていく。
物語を展開させるのは、ヒーロー小太郎が、投稿サイトに投稿する小説だ。自分たちの恋愛物語を、まっすぐな思いを載せて、投稿サイトに投稿していく。
ヒロインは、住み慣れた街を離れ、新たな場所へと旅立つ電車の中にいる。その車内で、ヒーローの小説の更新に気づく。
最終章。知らない街に向かう君に……ずっと、大好きだ。
めちゃくちゃ直球も直球だ。恋愛を続ける上で発生する、様々な困難を乗り越えるために必要なのは、結局のところ直球だ。ヒーローが、ヒロインを乗せて去っていく電車に向かって叫ぶ。
「大好きだー!」
これ、走っている電車の中にいるヒロインには聞こえんだろう。でも、聞こえなくていい。ヒーローが、自分の中にある真実を自分のために叫んでいるのだから。
この決め台詞に重なるBGMの歌詞も素晴らしい。
「はじめて、こんなに、誰かを思った(大好きだー!)いつもどうしていいのか、わからなかった。君への想いは、こぼれるほどあるのに。つないだ右手も、ぎこちないキスも、それだけがこの世界の全てだった」
そう。恋愛って、生きる理由の全てだ。遠距離恋愛の電車代とか、そういう次元じゃないんだ。そんな当たり前だけど大事なことに二人が気づいていく。生きる理由なのだから、電車代とか、そういう瑣末な困難とか、平気で乗り越えていこうよ。
ハナちゃんが、BGMを歌う。ミキヒコ先輩は「大好きだー!」を担当する。それが、今回のミッションである。
ミキヒコ先輩が担当するセリフが、デフォルトで大声なので、場所の確保は、少し苦労した。ハナちゃんが準備したのは、放送室だ。放送部の友達の協力を得て、どんなに大声で叫んでも、誰にも聞こえない部屋が準備できた。
「いや、大好きだと叫ぶだけなんだけど、これは逆に難しいね」
「ほんと、そうです。セリフって、短いほうが、むしろ難しいですよね。ヒーローの小太郎くんが、この一言に気持ちを集約させるときの、その背景をちゃんと理解していないと、違和感が出まくりのセリフです」
「今回は、週末を利用して、全話、ちゃんと予習してきた」
「さすがです、先輩。大好きだー! という短いセリフだからこそ、全話、観ておく必要があるんです。どういう経緯があって、その一言を叫ぶ結末に至るのか。それもわからずに、このセリフは声に出せません。そんなの、このアニメの制作に関わった方々に失礼です。では……練習から行きましょう」
ミキヒコ先輩は、一瞬、悩んだ。そして、ハナちゃんからすると、少し意外な提案をする。
「いや、これは鮮度が重要なセリフだから、何度もやれない」
「え?」
「一発でいくべきセリフだって考えてる」
「わかりました。では、最重要の注意点だけ、共有させてもらってもいいですか?」
「イエス、マム!」
「大好きだー! のセリフの前に、忘れずにハナの名前を入れることです。それを入れてもらえないと、先輩が、そんなことを別の女に言ってるような感じになっちゃう。そんなことになれば、このハナは、死んでしまいます」
「ちゃんと、ハナのことを思って、叫ぶから」
「わかりました。入りのきっかけは、私の歌でわかりますよね? だーれーかをー、思ったーの直後ですよ? 間違えないでくださいね」
「おうよ」(スラダン赤木がレフリーに「大丈夫?」と聞かれた時の返し)
ハナちゃんは、ここで、最重要のムーブをする。放送部の友達に聞いた、全校放送のスイッチをONにするムーブだ。さあ、この世界にON AIRだ。ばっち、こいや! 少しカビ臭い放送室で、ON AIRのパネルが赤々と点灯する。ハナちゃんが、歌い出す。
「はーじーめてー、こーんーなにー、だーれーかをー、思ったー」(ハナちゃんの歌うまい)
「ハナ、大好きだー!」
「いつもどうしていいのか、わからなかった。君への想いは、こぼれるほどあるのに。つないだ右手も、ぎこちないキスも、それだーけが、この世界のすべーてだあーたー」(ハナちゃんの歌うまい)
素晴らしい。クリアで滑舌も最上の素晴らしい「大好きだー!」が、放課後の全校にこだました。ハナは、圧倒的な勝利を得ていた。カラオケで練習してきた主題歌も完璧だ。
もはや、世界のあらゆる理不尽も許せる。官僚の天下りでさえ、愛おしく感じられる。大久保商店街の肉屋のメンチカツを食べている時よりも、慈愛が全身を支配する。ビリビリだよ、ビリビリ!
ハナちゃんは、これを録音していた。ミキヒコ先輩による「大好きだー!」ですからね。この録音があれば、残りの人生で、なにか辛いことがあっても乗り越えていけそう。
ハナちゃん、嬉しすぎて、あっ涙が……止まらない大粒の涙が……まだこれ、全部ON AIRね。
「ハナちゃん、ごめん。大丈夫?」
「うん、大丈夫……」
「ごめん、ちょっと失敗した」
「……どこ、失敗?」
「ハナちゃんのこと、抱きしめて叫ぶべきだった。身体の使い方、間違ってた」
「じゃあ、いまから、ちゃんと抱きしめて」
「うん」(抱きしめてる)
「……ねえ、歌パートでさ、つないだ右手ってとこさ」(抱きしめられてる)
「うん」(抱きしめてる)
「……左手はつながないのかな?私、左ききなんだけどな」(抱きしめられてる)
ここまでが、ON AIR。その後、全校放送されていることに気づいたミキヒコ先輩が、耳まで真っ赤にして、放送を切った。照れたから、今回は、ミキヒコ先輩の負け。
『月がきれい』(アニメ版)は、純愛もので個人的には一番好きな作品です。リアルで、壊れそうで、切なくて、美しいです。
すごく好きなシーンが多いのですが『エピソード8/惜しみなく愛は奪う』で、ヒーローが、ヒロインを、ヒロインのことが好きな別の男子から奪ったとき。ヒロインの目線が、全くぶれずに、残酷なまでにヒーローだけを見ているところ。あのシーンが特に、制作の皆さまの意図が感じられて、大好きです。




