孫権と朱然 1
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孫堅の妻、呉夫人が子供を身ごもった時、不思議な夢を見た。
長男の孫策の時は、月が懐に入った夢を。
そして次男の孫権の時は……太陽が懐に入った夢だった。
「平和だな」
大きく生い茂る木の上。
その太い枝にまたがり、茂る葉を揺らしながら天を見上げる。
視界に広がるのは雲一つない真っ青な空。
それを映したかのような澄んだ碧の瞳を持つ人物が呟く。
「兄上どうしてるかな?」
風に揺れる木々のざわめきしか聞こえないほどの、長閑な景色。
けれど同じ地上の先で、兄孫策は今日も戦に明け暮れているのだろう。
危険に巻き込まぬよう、この静かな地に家族を移して。
数年前、父、孫堅が死んだ。
黄祖を追討している最中だった。
それは家族にとって悲劇であったが、それでも孫権は絶望しなかった。
孫策は周りから「小覇王」と呼ばれるほど、偉大な兄だった。
だから悲しみはあれど、先の不安なんて何もなかった。
兄さえいれば何も心配することはない。
ただ兄の背を追って、その兄を支えて生きて行こう。
そう思っていた。
その為に今日も学び舎で勉学に励んでいたのだが。
「孫策様でしたら、そんなものではありませんよ」
今日も口癖かの様に教師が言った。
武芸ができないわけじゃない。
勉強もできないわけじゃない。
が、全てを兄と比較してくる。
先ほどまでも詩経を学んでいたが、教師が人に呼ばれて席を外している隙に、気分転換に外に出て来た所だった。
言われた言葉を心の中で反芻し、天を仰ぐ。
「そんなこと言われてもなぁ」
思わず心の声が外に漏れた。
正直、兄上が怪物なのだ。
家族が言うのは何だけど。
いや言い方が悪かった。
兄上はいうなれば英雄だ。
それこそ百年に一度出るか出ないかという程の傑物だ。
と兄贔屓の自分としては思う。
いや、周瑜がそういっていたからそうに違いない。
何なら周瑜も百年の一度の傑物だ。
頭はいいし顔も良い。
というか何でもできすぎて欠点がまるでない。
俺の周りにはなんと凄い人間が多いことだろう。
「これが戦乱ということなんだろうなぁ」
きっと兄上は未来に名を遺す人物になるに違いない。
だとすればそのことを後世に残す為に、兄上の伝記を傍で書くのもいい。
だったらやはり勉強を頑張るべきか。
そう思った時だった。
ばさばさばさっ!
静寂を破る様に、枝に休んでいた鳥が飛び立った。
「今ので起きたかな?でも木に寄りかかっただけだぞ?」
もたれていた身体を起こし、辺りを見回す。
と、屋敷の方で何やら人々が慌ただしく出入りしているのが見えた。
門の前には馬まで引き出されている。
「まさか俺を探している、なんてことないよな」
にしては様子がおかしい。
何かあったのだろうか?
そう思って、急いで木から降りようとした、その時だった。
「孫権殿、でしょうか」
下から急に声をかけられ視線をやると、この辺では見たことのない人物が一人、こちらを見上げている。
歳は見た所、自分と同じかそれよりも幼い感じ。
「誰だ?」
質問に返事をせず尋ねる。
学び舎から抜け出したのがばれて、迎えに来ただけならよし。
そうではなく何か起きているのなら……、と身構えていると、相手は孫権に向かって恭しく拱手をした。
「これは失礼いたしました。私は施然と申します。叔父の孫策様麾下の将朱治の命でこちらにやってまいりました」
言葉遣いといい、その仕草は自分よりも大人びている。
上から見ているから幼そうに見えるだけで、実は意外と大人なのだろうか?
そんなことを考えつつも、どうやら危険な相手ではなさそうだと判断した孫権。
するすると木から降り、施然の前にとんっ、と飛び降りた。
「如何にも。俺が孫権だ」
身体にまとわりついた葉を払いながら孫権が答える。
その様子に施然が改めて拱手した。
改めて対面しても背が小さく、子供のように見えるが、礼儀はなっているようだ。
「学び舎にいないと探し回っておりましたが、現在の状況はすでにご存じのようで。危険を回避する為木の上にあえて隠れていらっしゃったのですね。素晴らしい判断力です」
そういって何やら感心し始める施然。
どうやら勘違いをしている様子。
初対面の人物からはよくあることだった。
なにかあれば『流石は孫策の弟だ』と。
そしてその後『孫策の弟なのに』とがっかりされるのも。
早めに誤解を解いておいた方がいいか。
そう思い孫権が口を開く。
「違う。逃げ出してだけだ」
学び舎から、という前に施然が眼を見開く。
「なんと、すでに敵の手がこちらまで来ていたのですね!」
誤解が更に深まった。
いや、今はそれよりも、
「敵?!」
「こうしてはいられません、一刻も早く此処を脱出しましょう。細かいことは馬車の中でお話します!」
いって施然が孫権の手を引く。
その様子に事情を察する。
おそらく孫策との対抗勢力の手がこちらにも迫ってきたのだろう。
以前にも同じようなことがあり、今いるこの曲阿には一年前に引っ越したばかりだった。
その時は呂範という人物が連れてきてくれた。
呂範は孫策麾下の将で、自分を迎えに来た際、徐州牧陶謙に袁術の手先であると疑われ、捕えた上で拷問を加えられたが、部下や食客が役所を襲撃し逃げ出したほどの人物だ。
孫策も高く評価しており、その時は頼もしくあったが、今回迎えに来たのは、やはりこうして間近で見ても子供である。
「こんな子供を使いに出すなんて、兄上のところはそんなに戦況が厳しいのか?」
兄が心配になった孫権に、施然がむっとする。
「子供ではありません!」
「違うのか?」
どう見ても自分より幼げだが。
怪訝な顔をする孫権に更にムッとして施然が聞き返す。
「失礼ですが、孫権殿お歳は?」
「十三だけど、お前は?」
流石に十歳は超えてるかな?
そう思った孫権に、施然が胸を張ってこたえる。
「私も十三です。同い年です」
聞いて驚く。
どう見ても小さくて幼く見える、そして。
俺と同い歳なんて、やはり子供じゃないか?
心に思った孫権だったが、流石に口には出さず、施然の後を駆け足で追って行った。
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