雲間館
叔父が危篤だ。叔母から携帯にメッセージが届いた。叔母は誰からアドレスを聞いたのだろう。気になるが、今その詮索は後まわしだ。この知らせは、出来るだけ早く来いという意味に違いない。と言って、もう夜遅い。明日以降入っている予定をキャンセルしても、出掛けられるのは明日の午後。故郷は辺鄙な山あいの村だ。新幹線や飛行機を使ったところで、それから先の移動に時間がかかる。いずれにしても向こうに着くのは、明後日になる。それなら、自分で車を走らせて、途中で一泊して行った方が安く済む。
田埜倉は携帯を片手に危篤を知らせるメッセージを見たまま、そこまで考えた。叔母に2日後到着する旨の返信をする。次は、宿の確保だ。遊びでも仕事でもない。ちょっと叔父、叔母の顔を見に帰る途中に寄るだけだから、移動ルート上の、頃合いの場所に存在する出来るだけ安い宿が良い。宿泊予約サイトで格安の宿を探して予約を入れた。
その宿は、山の上にあった。本道から脇道に逸れ、うねうねと続く山道を登る。ヘアピンカーブを何個もやり過ごした先のヘアピンカーブに接して宿が建っていた。未舗装の駐車スペースに車を停めて、宿を見上げる。
雲間館。登って来た道路に面して木製に擬装した看板が出ている。建物は、元々瀟洒な洋館だった頃を偲ばせはするが、長年の風雨と周囲の木々が振り落とす老廃物にまみれてひどく疲れた佇まいを晒している。これでは、中も推して知るべしという所だ。
玄関ドアを自分で開けて中に入る。建物の入り口にロビーと呼べる程のスペースは無い。受付カウンターが無造作に設けられ、その内側に一人の老人が立っている。シャキッとした姿勢で立っているが、その痩せた顔に刻まれた皴、肌の調子を見れば、相当な年齢であると推測出来る。
「夕食のお時間ですが、ご希望がありますか?」
田埜倉が宿泊カードに記入し終わるのを待って、老人が質問する。
「えっと、何時から何時の間ですか?」
「お尋ねしておいて恐縮ですが、出来ましたら、8時頃からにさせてもらっても良いでしょうか。」
「ああ、構いません。何か都合があるのですか?」
「ええ、この先の三叉路を右に入った所で、林道工事が行われていまして、そこで工事をしておられる方々が宿泊されているもので、出来れば、その方々の食事を終えてしまってからの方が、ゆっくり食事出来ますから。」
「あ、なるほど。それじゃ、それでお願いします。」
「では、お部屋に案内致します。」
老人は、ルームキーを手に取ると、カウンターから出て、先に立って歩き出す。恐らく、この老人がオーナーだろう。オーナー自ら、客を案内すると言う事は、数人でやり繰りしているのだろう。まあ、この建物の佇まいと、人の気配がない様子から、それは十分想像出来る。
「あの、失礼ですが、ご主人が此処のオーナーですか?もう、どのくらいこの宿を続けていらっしゃるんですか?」
部屋まで案内される間、黙っているのも気不味い。田埜倉は、自分から話し掛ける。
「ええ、もう50年くらいになりますか。長過ぎて数えていません。」
「そんなに。跡を継がれる方とかは?」
「いえ、私は、独り者ですから。一人でやっていますから、気楽なものだとも言えます。自分が元気で動ける内は、ここをやっていきます。それが私の使命というか、禊ぎの様なものですから。」
老オーナーは愛想笑いをして見せる。
「禊ぎですか…」
変な事を言う人だ。『天職』とでも言いたかったのを、間違えているのだろう。そうだとしても、宿の経営とは、そんなに覚悟が必要なのだろうか。一人で宿をやり繰りしているのだから、大変なのは確かだと思うが。
田埜倉は、充分に8時を過ぎるのを待ってから食堂に降りて行った。林道工事関係者が泊っているという。土木工事は重労働だ。旺盛な食欲が無ければ務まらない。何人滞在しているのか知らないが、一緒に食事をしたら、そのエネルギー量に圧倒されるに違いない。確実に彼等の食事が終わっている方が良い。
果たして、食堂には2、3人、まだそれらしい姿の客が座っていたが、食後の満腹感に浸ってまったりしている状態だ。今でも健在なのに驚くブラウン管テレビをみんなで見ている。これならこっちもゆっくり食事が出来る。
食事は老オーナーが運んで来た。聞けば、料理もオーナーが作っているという。従業員どころか、料理人までオーナーが兼ねている。一人でやっていると言っていたのだから、その通りなのだが、料理の腕は少し心配だ。
出て来た料理は、それなりの見た目、味もまあ、この宿泊料金ならば、致し方ないと思えるレベルだ。今回の移動目的から考えれば、十分にありがたい。黙々と食べて、腹を満たして自分の部屋に戻る。
明日は早くに出たい。此処からまだ2時間くらいかかるだろうか。安全運転のためにも、今日はしっかり寝て、万全の体調で運転したい。特に娯楽も無い宿だ。さっさとシャワーを浴びて、ベッドに潜り込んで寝る事にする。
だが、寝付けない。暫くベッドの中で毛布にくるまって、右に左に寝返りを打って我慢していたが、一向に眠くならない。普段こんな早い時間に寝ることが無いからだろうか。それとも、枕が変わったせいか。長時間運転して疲れている筈なのに、却ってそのせいで神経が高ぶったままなのかも知れない。そうやって考えている時点で、寝られる要素は無い。諦めて体を起こし、明かりを点ける。そう言えば、食堂にビールの自動販売機があった。ビールを飲んで、酔いに任せて寝てしまおう。
田埜倉は、こそこそと部屋を抜け出して、階下の食堂に向かう。食堂は既に明かりが消えていて人気が無い。その暗闇の中で自動販売機の照明が煌々と光を放って田埜倉を誘っている。小銭を入れて一本買うと、近くの椅子に腰かけて、暗がりの中で自動販売機の明かりを頼りに飲み始めた。
「おや、明かり点けましょう。」
廊下を通りかかり、田埜倉の存在に気付いた老オーナーが食堂の照明スイッチを入れる。田埜倉は恐縮した様に、会釈をする。
「何か、摘まみがあった方が良いですね。」
「いえ、お構いなく。」
「簡単なもので良ければ、作りますよ。」
「いえいえ、それには及びません。」
こんな暗がりで飲んでいないで、自室に持ち帰って飲めば良かったと半ば後悔する。
「でも、物足りないでしょう。サービスにしておきますので。」
「いえ本当に、重ねて辞退します。どうか、気を遣わないで下さい。」
この上、摘まみを口にしたら、カロリー摂り過ぎだ。健康診断でまたひっかかる。
「そうですか。」
如何にも残念そうにしながら、オーナーは傍の椅子を引き寄せて座る。どうやら、放っておいてはくれない様だ。
「あの、不躾な質問なんですが、宿泊客はどのくらいあるんですか?」
この際だからと、田埜倉は失礼だと思いながらも、来た時から気になっていた事を訊く。老オーナーは頭に手をやり、身を仰け反らせて一つ笑ってから質問に答える。
「確かに、今は、この山の下を貫くバイパスが出来て、この山道は廃れてしまいました。今でもこの道を使うのは、林業関係者ぐらいになってしまいましたが、バイパスが出来る前はこの峠道が本線だったので、結構お客様はあったんですよ。今じゃとても信じられないでしょうけど。…それでも、昔からの馴染みで毎年泊まりに来てくれる常連さんも、まだいらっしゃいます。」
「そうなんですか。元々、この山道が幹線道だったんですね。じゃあ、峠を越えて、山の向こう側で今の本線にまた合流しているんですね。」
「はい。そちらの方向に行かれますか?」
「ええ、明日、この山の下を突っ切っているバイパスを通って行こうと思っていました。この宿から、一旦麓の分岐点まで戻って、トンネルを抜けるのと、この旧道で峠を越えて、山の向こう側で本道に出るのと、どちらが早いですか?」
「そうですね…。どちらも大して変わらないと思います。旧道を戻る方が距離は遠いですが、バイパスに出てしまえば、トンネルを抜けるのは造作もないですから。峠を越える道も、林道への分かれ道は有りますが、間違わずにバイパスに出られますよ。」
「できれば、朝早くに出発したいのですが、霧が出たりしませんか?」
「山霧が多いのは、春と秋です。今頃は大丈夫です。」
「良かった。雲間館って言うくらいだから、雲の中になる事が多いのかと思いました。」
「ああ、そう思われましたか。実は、名前の由来は違うんです。」
「もっと標高が高い位置にあるのを想像していたのですが、此処はそんなに標高高くないですよね。」
「まあ、昔から人が行き来していた生活道ですから、山の尾根の低い場所を越えています。実は、この前の道は、峠のこちら側にあった村の者が、山向こうの町との間を行き来するのに使っていた峠道で、この峠に蜘蛛の化身の化け物が出るという言い伝えがあって、蜘蛛の魔物、蜘蛛魔峠という異名を持っていました。もう、誰もその名前は覚えてはいません。それで、字を変えて宿の名前にしたのです。」
「へえ、蜘蛛の魔物で蜘蛛魔ですか。」
「あの、明日早くに出られるとの事ですが、お仕事か何かで?」
「いえ、実は故郷に急ぎ帰らないとならなくなりまして、私の故郷は、この下のバイパスを2時間ほど走った先にある、柿鳴村です。」
無理をすれば今日中に故郷に着ける。しかし、夜遅くに、叔母一人が留守を守っている叔父宅を訪問するのは気が引ける。と言うのは言い訳で、それ程懇意にしている訳でもない叔父宅で、一晩、叔母の厄介になるのは気が重い。明日の朝、叔父宅を訪ねて、そのまま病院に行って叔父を見舞い、頃合いを見計らって、その日のうちに退散しようと考えている。
「ああ、地元の方でしたか。」
「元々はと言うだけです。故郷の実家は、両親が亡くなった時に売ってしまいました。今は関東に住んでいます。」
「急な用事とは、差し支えなければ教えていただけますか?」
「ええ、私の叔父が危篤だと、昨日の夜連絡がありまして。予定をみんなキャンセルして、車を飛ばして来たという次第です。手前の市までは高速道路で来ましたが、此処から先は、一般道を行くしかありません。…それでも、この辺りは良い道が出来ましたね。」
「叔父様が危篤ですか。それは大変だ。快復される可能性は無いのですか?」
「さあ、それは…。長く患っているので、そろそろ限界なんじゃないかと思っています。」
「そうですか…。今の内に沢山顔を見せてあげて下さい。会えなくなってからでは遅いです。後悔なさらない様に。」
「口うるさい叔父で、私の顔を見れば、『まだ結婚しないのか、お前が結婚しなければ、家が絶えてしまうぞ』と言われるので、どうにも苦手です。こんな中年の独り者に今更結婚もあったもんじゃない。今回も叔父の顔を見たら、小言を言われる前に、タイミングを見て帰って来ようと思っています。」
「そんな事おっしゃらずに、これが最後になるかも知れません。しっかり会って話をして来て下さい。後悔で過ごす人生は辛いものです。」
「ありがとうございます。」
田埜倉は頭を下げる。今日初めて会った人と、こんな話をして礼を言っているのは、何とも奇妙な感じがする。
「柿鳴村には、高校生の頃まで暮らしていました。この辺りの事は詳しくなかったので、蜘蛛の魔物の言い伝えがあったなんて、初めて聞きました。」
「他所の地に似たような話があるのか知りませんが、蜘蛛の魔物に仕立て上げられた、可哀想な娘の話です。」
「娘さんがどうして魔物に?」
「興味がありますか?」
「どんな話ですか?」
「少し長いですが、お話しましょうか?」
何だか、老オーナーは話したそうだ。どうせ、一人でビールを飲んでいてもつまらない。
「お願いします。」
では、と老オーナーは口を開く。年齢の割に張りのある声、しっかりした活舌でその話は語り始められた。
随分昔の話だ。峠のこちら側には小さな村があった。火山灰が堆積して出来た台地の上にあるため、水が得られない。雨が降っても、水はけの良い大地は際限なく雨水を呑み込んでしまい、小川一つ流れない。稲作が出来ない村は貧しく、どこの家も傾斜地にたばこを植えて栽培し、採れた葉を乾燥させた後、峠を越えた向こうの町で問屋に売って生計を立てていた。峠のむこうの町は、こっちの村とは対照的に、街道の宿場町として栄えていた。背負子にたばこの葉を担げるだけ担いで険しい峠道を抜け、問屋で葉を売ったら、その金で必要な物を買い込み、またそれを背負って村に帰る。どの家も、体力のある男がその役を担っていた。
峠道から離れた山の中に一件の農家があった。道から離れてひっそりと佇む農家を知る者はいない。最早誰もが忘れてしまった遠い昔に何かの出来事があり、村八分になった一家が山中に隠れてひっそりと暮らして来た。代を重ねるにつれて、村の者は彼等の存在を忘れ、当人達もまた、何故自分達がそこで暮らしていなければならないかを忘れてしまった。その家の主人は、代々炭を焼いて町の市場に卸して生業としていた。
その家に一人の娘がいた。齢の頃は娘盛り。幼い頃に囲炉裏に落ちて火傷を負い、顔の左側に大きな痕が残ってしまっている上に、左目もその時の傷のせいで、光を感じる程度にしか見えなかった。娘を不憫に思った両親は、なお一層、娘を人目に晒さないように注意しながら育てた。両親以外の人と接する事無く、娘は、花や兎を相手に山の中を駆け回りながら大きくなった。年頃になると両親は、黒髪を長く伸ばさせ、手拭いを姉さん被りにして火傷と左目を隠させた。その両親は、長年の苦労が身を削らせたのか、娘の行く末を心配しながら、数年前に相次いで他界してしまった。
村から峠に向かう山道の途中、道から少し林の中に入った場所に一家の畑があった。峠道は、朝な夕なにぽつりぽつりと通行人がある。日暮れ間近になれば、暗くなる前に山を抜けようと気持ちが急く。特に秋から冬は日が落ちるのも早い。薄暗い山道を行くのは、たとえ元気な若い男であっても、何だか心細いものだ。そんな折、ふと見れば木々の向こうにぼんやりと明かりが見える。こんな山の中で誰だろうと訝しがる。これはきっと狐が騙そうとしていると、慌ててその場を去ればそれまでだが、人恋しさに釣られて、誰かいるなら一緒に山を下りてもらおうなどと林に分け入る者もいる。雑木林の木々の間を抜ければ、直ぐに小さな畑に出る。畑の隅で、提灯を傍らに置いた娘が一人、しゃがみ込んで畑の手入れをしている。男はそれを見て、まだこんな若い娘が山にいたのかとほっとする。緊張のほぐれた男は娘に声を掛ける。
「もう暗い。畑仕事はやめにしてうちに帰り。」
娘は声には応じず、手を止めない。男は、畑の端を回り込んで娘の脇に立つ。それでも娘は手を止めない。俯ている娘の顔は見えない。姉さん被りの手拭いだけが左右に揺れている。薄明りの中、ぼんやりと浮かぶ白い娘の腕、ふくらはぎ。長い髪は結わずに姉さん被りの手拭いから背中へとたおやかに流れている。
「どうしたい?何を作っておる。」
男の心によこしまな思いが湧く。自分と娘以外、此処にはいない。娘に寄り添う様に隣にしゃがみ込むと、娘の様子を覗き込む。娘は、身をすくめて顔をそむける。
「そんなに、怖がらなくてもよい。儂が手伝うてやるから、さっさと仕舞いにして、一緒に村まで帰ろう。なに、この蔓の始末か?これはこうするのじゃ。」
娘盛りの肌から放たれるいい香りが男の鼻腔をくすぐる。娘は俯いているが、男が傍にいても拒否する素振りは見せず、逃げ出そうともしない。誰も見ていないのを良い事に、男はいよいよ、その欲望をむき出しにする。
不意に男は娘の腕を掴む。娘は、その手を振り払い、慌てて逃げ出す。もう男は止まらない。娘の後を追う。娘は、林の中に逃げ込むが、女の足では、直ぐに追い付かれてしまう。男は、娘を掴まえてその場に押し倒す。手拭いは解け、長い黒髪は千々に乱れて、娘の顔が薄暗がりの中で露わになる。
間近に娘の顔をしかと見た男は、その醜さに驚き、跳び退いて腰を抜かす。
「お前も、結局同じか。」
それまで逃げ回っていた娘の声とは思えない、冷静な言葉が口から洩れる。娘は身を起こすと、腰に下げた革袋から鉈を取り出し、男に襲い掛かる。
娘が男を襲って殺す様になった経緯は分からない。大方、最初に質の悪い男に騙されて、その男から受けた仕打ちが娘を殺戮者に仕上げてしまったのではなかろうか。男のむくろは畑の肥やしになり、持っていた荷は、たばこの葉なら適当な時に町に卸しに行って金に換え、町からの帰り道で金品を持っていたなら、そのまま自分の生活の糧とした。
こうして、一人、また一人と、たばこの葉を町に卸しに行ったまま、村に帰って来ない者が出る様になった。一家の働き手を失った衝撃は想像に難くない。ただ一人の男手だった夫を失えば、次からは妻がきつい山道を越えてたばこの葉を卸しに行かなければならない。その家では、夕方まで子供達だけで腹を空かして母の帰りを待つしかない。
こんな家が一つ二つと増えるにつれて、村に噂が広まる。曰く、町に葉を卸しに行った金で、女郎屋遊びを覚え、遂に恋仲になった女と逃げたと…。でもそれでは、何人もそんな男が出るのはおかしい。第一、町の遊郭から足抜けしたという騒ぎも聞かない。
また別の噂が立つ。曰く、あの峠の山には、おろちが棲んでいる。腹が減ると、山の中を暴れまわり、人を見つけて一呑みに呑んでしまう…。おろちとは大きく出たものだ。そんな話を聞けば子供は震えあがり、子供達だけで山に入ろうとしなくなるのは有難いが、そんな大きな化け物が棲んでいるにしては、物音も影すら見た者は無い。
やがて噂は最後の形になって落ち着いた。曰く、峠には魔物が棲んでいる。それは人の姿をして通る者に近付き、隙を見て捕えて地獄の淵へと引き摺り込むと言う。獲物を捕らえて巣穴に引き摺り込むやり方が地蜘蛛に似ているからか、魔物は蜘蛛の化け物に変わり、山道を行く男を女の姿に化けてたぶらかし、巣穴近くまで誘い込んで、糸で雁字搦めに巻き取り、そのまま食ってしまうという噂になった。村では、町に向かう男達に噂を持ち出して、峠道では誰に声を掛けられても答えずに、一目散に山を下りて来いと言い含めて送り出す様になった。
村に平左という若者がいた。平左の家は、他の農家と同じ様にたばこを作っていたが、畑は傾斜のきつい狭い土地で、貧しい村の中でも貧しい家だった。幼い頃から要領が悪く、同年代の者ばかりか、年下の子供達からも、のろまの平左、「のろへい」とあだ名されていた。平左がまだ小さい頃、同い年の子供達と一緒に遊ぶ時、何をやらせても人並みに出来ない、何を話してもすぐに理解出来ない。同じ年頃の者達は、平左の世話をやくのが面倒くさくなって避ける様になる。そんな状況も理解出来ない平左は、それでも仲間と思う彼等について回る。更に平左は皆から疎まれるようになった。
そんな平左を、馬鹿にしない同い年の娘が一人だけいた。名を紗代と言う。紗代の家も、貧しい村の中でも貧しい家の一つで、金は無いが子供だけは沢山いる。年長の紗代は、下の子の世話をしなければならず、いつも煤けたみすぼらしい身なりで、赤子を背負っていた。紗代は、村の子供達がそんな自分を蔑んでいるのを肌で感じていたから、同じ境遇の平左を馬鹿にしなかった。子供達からはじき出された二人は、仕方なく、二人きりでままごとやかくれんぼをして遊んだ。
そうして育った平左も、こんな貧しい農家でなく武家の家に生まれていれば、元服する齢になった。流石に一人前の働き手として、家族の役に立ってもらわなければ困る。平左の両親は、10歳の頃から覚えの悪い平左を連れて畑に出て、畑仕事を手取り足取り教え、畑仕事を覚えたら、今度はおとうに付いてたばこの葉を背負って町まで行き、たばこの葉の卸し方、日用品の買い方を学んだ。そうして、数年の歳月を経て、平左も人並みに仕事が出来る様になった。同い年の者達からは、相変わらず馬鹿にされていたが、自分の家の畑に出て、日が暮れるまで働いている限り、そんな事は気にならなかった。
その日、平左は収穫したたばこの葉を背負子に綺麗に積んで縛ってもらい、一人で町に向かう。
「良いかい。問屋でたばこの葉を計ってもらって、代金を貰ったら、忘れずに勘定するんだよ。少しでもおかしいと思ったら、その場でちゃんと、番頭さんに申し出るんだ。良いかい?」
「ああ、わかっとる。」
毎度、同じ忠告をおかあからされるため、耳にタコが出来ている。おかあにまで、馬鹿にされている様な気分になる。
「それと、代金は財布にしっかりしまって、胴に巻いて、そのまま、真っ直ぐ帰って来るんだ。町の店で油売るんじゃなよ。」
「ああ、ああ、承知だ。」
半分、おかあの言葉から逃げる様に慌てて家を出る。朝の峠道を越えて、問屋でたばこの葉を卸し、代金を腹の財布にしっかりと入れたら、小川端で昼飯にする。
おかあには、油を売るんじゃないと言われたが、飯を食う時間くらい構わないだろう。
麦だけの握り飯を頬張りながら思う。村とは違い、町の周囲は水が豊かで、青々とした水田が広がっている。
もう少しくらいは良いじゃろう。
平左は、用事を済ませた安堵から気が大きくなり、町中の市を見ていく気になる。誰かに揶揄われる心配は要らず、村には無い賑わいに心が躍る。気が付けば、陽は西に傾きかけている。
いやいや、うっかりした。おとうに怒られぬよう、急いで帰らねば。
平左は急ぎ足で山を登った。峠を過ぎて、村が遠望できる場所まで来た時には、もう足元の道は山陰になり、つま先の石ころすら見えなくなっていた。
暗い筈の林の中に明かりが見える。こんな時間に山の中で何をしているのだろう。道から外れた林の中で、誰かが迷子になっているのかも知れない。
平左は自分が急いで帰らなければならないのを棚に上げて、林に足を踏み入れてみる気になる。下木の枝に、着物をひっかけない様に気を付けながら林に入ると、直ぐ向こうが開けているとわかる。そこは、小さいけれど綺麗に手入れされた畑になっていて、茄子や大豆、南瓜と、畝を分けて植えられている。畑の向こう側の隅にぼんやりと提灯の明かりがあり、その脇に一人の娘がしゃがみ込んでいる。
こんな時間に畑の手入れか。もう日が暮れる。山を下りないと帰れなくなる。
「もし、此処は主の畑か?」
平左は、畑の端で娘に声を掛ける。娘は、平左の声に顔を上げ、平左の姿を認めた様だが、一言も喋らず、また視線を落とす。
「こんな山の中じゃ、難儀じゃろうに。」
平左は一人呟いて背負子を畑の隅に置くと、娘に歩み寄る。
「主は、村に住んじょるんか?村からじゃ遠かろう。」
平左は娘の傍らに立って、もう一度声を掛ける。
「構わん。此処があいの畑じゃ。山に住んどる。」
「そうか。だがもう暗い。後は明日にせい。」
「手伝うてくれ。こん草は、ほんに処置無しじゃ。」
見れば、娘は畑の作物の周りに生えた雑草を頻りにむしっている。
「鋤をつこうて、根ごと取らんとあかん。鋤はないか?」
娘は下を向いたまま、首を横に振る。姉さん被りの手拭いで、立ったまま見下ろす平左には娘の頭しか見えない。
「とっちゃんは使うてたけど、もう、錆て朽ちた。」
「なんじゃ、とと様はおらんのか?かか様はどうしておる。」
「どっちも、もうおらん。」
「そうか、主は独り者か。」
平左は、特に悪いとも、可哀想とも思わずに、受け取ったままを口にする。平左は娘と並んで座ると、目の前の草を手あたり次第にむしってみるが、直ぐに手を止める。
「こりゃ、きりがない。今は帰らにゃならんからどうにもならんが、明日の午過ぎ、おらの鋤を持って来たるけ、今日はやめとき。」
娘は答えず、むしる手を止める様子はない。
「明日にしようて。」
平左は娘の肩に手を掛ける。娘は漸くその手を止めて、平左に顔を向ける。それまで手拭いで隠れていた陰からただれた半面と潰れかけた左目が薄暗い夕暮れの空気の中で露わになる。
「もう、終わりで良いのか?他にやっておくことは無いか?」
平左は娘の顔を見ても、顔色一つ変えずに尋ねる。
「え?」
娘は驚いて動きを止め、平左の顔をまじまじと見つめる。普通の男ならば、ここで驚いて腰を抜かす筈だ。
「こんだけ丹精込めた畑は、見た事ねえ。主一人でやったのなら、大したもんだ。」
平左は娘の反応を気にも留めず、立ち上がって小さな畑を眺める。
「お前さん、畑仕事は得意なんか?」
娘もゆっくりと立ち上がり、今度は、平左の顔を真っ直ぐ見上げてみる。
「ん?」平左は鼻の下を指で擦る。「まあ、得意って程じゃねえけども、小せい内から手伝うされてきたから、ちったあ、わかるこたあ、あらあ。」
平左は自慢げに言ってしまってから、照れ隠しに笑って見せる。娘は平左を黙って見上げたまま、腰に下げた鉈の入った革袋に当てていた手をそっと離す。
「こうしちゃおれん。おとうに叱られる。」
平左は急に自分の役目を思い出すと、慌てて背負子を取りに戻る。
「行くんか。」
娘は無造作に言う。
「ああ、明日の午過ぎ、時間を見つけて来てやるけ、畑仕事をしちょれ。」
背負子を背負った平左が雑木林を抜けて消えていくのを、娘は立ったまま見送った。
これが娘と平左の最初の出会いだった。次の日、平左が家の仕事を抜け出して娘の畑に行くと、娘は畑で待っていた。平左が鋤を使おうとすると、娘はこの畑は良いから、自分の家の傍に新しい畑を作りたいと言い出した。娘は先に立って山の中に入って行く。平左はそれに付いて行く。やがて大きくて立派な家の前に出る。娘はそこで一人で暮らしていると言う。その家の傍に新しい畑が作りたいと言う。
「あの畑は遠いけ、もっと傍が良い。」
それ以来、平左は時間を見つけては、娘の家に行き、畑の開墾を手伝ってやった。たばこの葉を町に卸しに行った帰り、雨で畑作業が出来なくなった日、平左は娘を訪ねた。娘も家の近くに畑が出来ると、元の畑には行かなくなり、家で平左が来るのを待つ様になった。平左は、娘に請われるままに何でもしてやった。母屋の修繕や、切株起こしなどの力仕事をしてやる。頼まれれば、町に出たついでに日用品を買って来てやった。二人は仲良く働き、縁側や草むらに並んで腰を下ろして茶を飲みながら語り合った。
平左の両親も流石に平左の変化に気付いた。それまで、畑仕事か、家でたばこの葉を乾かす作業をするくらいで、雨の日はぼんやりと軒先に落ちる雨だれを眺めてばかりだったのに、この頃は、せっせと働いて畑仕事を終えると何処かに居なくなる。雨の日も、いつの間にか出掛ける。何処へ行っているんだと訊けば、友達の畑を手伝っていると答える。何処の家のもんだと訊けば、色々だとはぐらかす。町への通いも前は、嫌そうにしていたのに、この頃は何だか勇んで出掛ける。両親は町に女でも出来たのじゃないかと怪しんだが、金を遣い込んで来る訳ではなく、たまに鍬や鋤を持って出掛ける姿は本当に何処かの畑を手伝っている様だった。自分の家の畑仕事をないがしろにする訳でなく、変わらず弟妹の面倒もみているので、両親は放っておいた。
以来、峠を越えて町に行った者が消える事は無くなった。村人には理由が分からなかったが、起きなくなれば、蜘蛛魔の噂話はとんと聞かなくなった。
ある日、畑仕事の帰り道、鎮守の境内を通りかかった折に、平左は何故かお参りして行く気になった。赤塗りの鳥居をくぐったところで、社の陰で泣いている紗代を見つけた。平左は慌てて駆け寄り声を掛ける。
「どうした、何かされたか?」
子供の頃程あからさまに紗代や平左を忌み嫌う者は居なかったが、影に隠れた嫌がらせは今も続いている。平左はきっと、紗代がまた、どこかの意地の悪い奴になじられたのだろうと想像した。
平左が声を掛けても、ただただ泣いているだけの紗代だったが、やがてぽつりぽつりと話し出す。聴けば、家の借金がかさんでどうにもしようがなくなった、子供の多い紗代の家では、年長の娘である紗代を奉公に出すしかないと決まったと言う。奉公とは聞こえの良い言い方だが、要は女衒に買われて、女郎屋に売られていくのだ。
平左は目の前が真っ暗になった。毎日、呑気に暮らしていた自分の馬鹿さ加減を呪った。
「あいは、行きとうない。こん村で、好きな男の嫁に貰ってもらうのが夢だったに。」
紗代はまた、はらはらと涙を流す。
「好きな男?」
平左はドキリとする。初めて好いた惚れたという事を意識する。
「そうじゃ。」
紗代は赤らんだ眼で上目遣いに平左を見る。
平左は巡りの悪い頭でぐるぐると考える。紗代を助けたい。でも自分の力ではどうにも出来ない。紗代の家の借金がいくらあるか以前の問題だ。平左には自分で左右出来る金など一銭たりともなかった。
「どうしたもんじゃろう…」
平左は途方に暮れて呟く。
「平左、おまんさんだけが頼りじゃ。あいの気持ち分かっとくれ。なあ、後生じゃ。」
紗代は平左の肩に手を掛けて訴えると、また泣いた。
平左は紗代を抱える様にして、慰め慰め紗代の家まで送って行った。そこから自分の家まで一人帰りながらも、その後、夜自分の布団に潜り込んでからも、紗代の泣き顔が目の前から離れない。次の朝、眠い顔をしながら朝飯を食べるが、気持ちはそこにない。たばこの葉を背負子で背負って町に行く。このところ、町に行って帰りに娘の家に寄るのが楽しみだった。なぜあんなに楽しみだったのだろうと不思議に思うくらい、町に行くのが面白くない。トボトボと歩いて、それでも帰りに娘の家に寄った。
「どうした?どこか調子が悪いか?」
姿を現した平左を見るなり、娘が訊く。
「うんや、どこも悪くない。」
「なら、とっちゃんか、かあちゃんが、病気か?」
「いや、ぴんぴんしとる。」
「なら何かあったか?」
「何故そんな事を訊く。」
「お前さんの顔色が悪い。」
「そうか…」
平左はそう言うなり、娘の家の上がり框に腰掛けて黙り込む。娘はその背中を心配気に見ていたが、そろそろと、平左の隣に近付いて理由を尋ねる。最初は「ああ」とか「うん」とかしか言わなかった平左が、やがて重い口を開く。
「紗代という幼なじみが借金のかたに売られてしまう。こいつだけはおらと仲良くしてくれた唯一の子じゃった。…村を離れたくない、こん村で祝言上げて、普通の暮らしがしたいと泣いておった。…どうも出来ん。おらはどうする事も出来ん。」
そう言って、平左はとうとう涙をこぼした。
「お前さん…」
娘はそう言い掛けて、口を閉じる。娘以外見る者がいないのに気が緩んだ平左は、大きな体の背中を丸めて、小僧の様にさめざめと泣きくれる。娘はそんな平左の傍に座って、ただ黙って眺めていた。
平左は日が暮れる前に家に帰った。
平左は、毎夜布団の中で泣き明かした。紗代はきっと、自分にだけ本当の気持ちを打ち明けてくれたに違いない。どんどん紗代への思いが強くなっていく。何とかしたい。何とかして紗代を助けたい。平左は寝ても覚めても、そればかり考えて畑でも家でもぼんやりしていた。
人買いの女衒が紗代を連れに来る五日前、畑で汗を掻きながら、平左は遂に決心した。金が工面出来ないなら、峠道の途中で待ち伏せし、紗代を連れて行く女衒から紗代を奪い返そう。
その日から、今度は畑仕事を早々に切り上げて、峠道に行って、隠れるのに適した場所を探し、どうやって奪い返すかしきりに考えた。
そんな折、噂を耳にする。紗代が売られずに済んだという。理由はよくわからないが、紗代の家の借金が帳消しになったらしい。村の者は紗代の家の者の気持ちなど考えもせずに、無責任に噂を広める。どこぞの金持ちとの間で、将来紗代を妾にする約束が出来たからだとか、紗代の親が山で隠し軍資金を見付けたとか、果ては、村はずれの地蔵さんに夜な夜な両親がお参りしたところ、地蔵が金子を届けたという話まで広まった。
平左は踊り狂わんばかりに喜んだ。夢じゃないだろうか、鎮守様にお祈りしたから、聞き届けてくれたのかと自分なりに奇跡の元を考えたりした。一時の喜びが去ると、今度は勝手な妄想を膨らませた。紗代が自分の所にお礼を言いに来る。
『ありがとう。平左のおかげだ。』
そうして、紗代の親が訪ねて来て、うちの娘を貰ってくれと言う。紗代は夢がかなったと喜び、白無垢に身を包み、庄屋様で借りた馬の背に乗って、平左の家まで嫁いで来る。
何度も想像するうちに、願望は平左の中で近い将来起こる予定の出来事になっていく。平左は畑仕事すら手に付かない。今度は興奮して眠れない。たばこの葉を町まで卸しに行っている間に紗代の家の者が訪ねて来はしないかと気になって、ついつい、出掛けずに家の中でそわそわしていた。
直ぐに紗代が嫁入りするという噂が流れる。村一番の金持ち、酒屋の倅の嫁になるという。立派な玉の輿だ。村の中でも貧乏な家の筈が、娘を売らずに済んだだけでなく、金持ちの家に嫁入りするなんて、話が出来過ぎている。村の者達はまたも、勝手な憶測で噂し合う。きっと、酒屋が金も出したんだ。紗代はそんなに器量よしか?いやいや、紗代が色仕掛けで迫ったのに違いない。
平左は、紗代が酒屋に嫁入りするという話だけで稲妻に打たれた様になり、世間の噂の行方など、もうどうでもよかった。平左は、また頭の中でぐるぐると考えた。
なぜだ。何故そんな事になった。紗代が酒屋の倅と話しているところなど、一度たりとも見た憶えは無い。紗代は好きな男と一緒になりたかったのじゃないのか。なのに何で、こんな話になってしまったんだ。きっと、酒屋の倅だ。紗代の家に借金があるのに付け込んで、それを棒引きにする代わりに娘を嫁に寄こせと言ったのに違いない。金で紗代を買ったんだ。そうだ、そうに違いない。卑怯な野郎だ。おらが悪事を暴いてやる。
平左は早速、事の顛末を調べにかかる。
村の者が借金をする高利貸は決まっていた。峠を越えた町にある。村の大抵の家は世話になった事があるか、今でも借金を抱えている。誰もが忌み嫌いながらも、収入の無い冬を乗り越えるために頼らざるを得なかった。
平左は、支度も程々に家を飛び出し町に向かう。足早に息を切らしながら峠を登り、転げ落ちる様に山を下った。高利貸の暖簾をくぐると、大声で店主を呼ばわり、事情を説明するように迫った。
高利貸の店主は、最初は何事かと戸惑ったが、事情が呑み込めてくると、にやついた顔と纏わりつくような視線で平左を見ながら口を開いた。
「その家の話がそんなに聞きたいかね。あんたにゃ関係ないんだろ?どういう理屈だい。…ま、良いさね。あんたの家もお得意さんの一つだ。今回は日頃懇意にして貰っているお礼と言う事で、話してやりましょう。…奇特な人もいるもんだね。世の中捨てたもんじゃないぜぇ。若い女がふいっと店にやって来たと思ったら、自分の片目を売るから、その代金でそこの家の借金を棒引きに出来ないか言いなさる。何だか、おかしな話だから、どういう経緯でそんな事を考えたのかって言ったら、昔随分お世話になったから、その恩返しがしたいと言いなさる。そう言ったって、目ん玉がどんくらいの金になるのか、こっちゃさっぱりだ。そしたら、それはもう話が付いているって言って、男が一人入って来た。そいつが言うには、随分高く売れるそうで、その家の借金はいくらあると訊いてきやがる。そいで、調べてやったら、それなら大丈夫だと女と二人で頷きあってやがる。それからが大変さね。目の前で証文を破かなきゃ信用出来ねぇって、使いを遣ってあの家の亭主を村から連れて来て、その目で証文に相違ないか確認させよった。それで終わりじゃねぇ。今度はその家の亭主を掴まえて、この借金を棒引きにしてやる代わりに一つ約束しろと言い出す。お前んところの紗代という娘を好きな男と夫婦にしてやれと。それを約束出来なきゃ、この話は無しだと言う。さっきは、昔お世話になった様な事を言っていた筈なのに、随分と高飛車に出たもんだ。ま、そんな事は知らない亭主は、借金が棒引きになるなら、こんな有難い話は無いから、二つ返事で約束する。いいか、此処に居るみんなが証人だと言ってから、女は漸く安心したのか、男に金を出させて証文を全部破り捨てさせ、借金がすっかり棒引きになったのを確認して、男と一緒に出て行ったよ。」
「そ、それで、その人はどこに行きなさった。」
平左は何だか、御伽話を聞かされている様な気分だったが、店主の話が終わると、辛うじてそれだけ口にする。
「さあね。そんな事は知らないねぇ。ま、片目を売って、その先ゃ、按摩か、瞽女か、尼さんって事もあるかなぁ。」
「どうして、そんな事が判る。」
高利貸の店主は、そう問われて偉そうに反り返って話す。
「そりゃ、お前、こっちの眼は売っちまった。」店主は自分の人差し指で自分の右眼を指し示す。「あとはこっちの眼だが、最初から使い物になっていなかったよ。あれじゃ、めくらになっちまう。だからさね。あの器量じゃあ、夜鷹は無理じゃろな。」
店主は声を上げて笑う。
間抜けな平左は、そこまで聞いて漸く気付いた。口をあんぐりと開け、両目を見開いて言葉にならない声を絞り出すと、高笑いしている店主を残して、店を飛び出した。平左は無我夢中で峠道を取って返す。
思い返してみれば、紗代に泣かれてからこっち、紗代の事ばかり考えていて、娘の家には行っていなかった。紗代を奪い返す算段をしに峠道を行きつ戻りつしたのに、娘の家に近付こうともしなかった。その間、娘は一体どうしていたのだろう。
愚かな平左は、この時になって漸く娘の気持ちに考えが及んだ。娘との出来事を最初からなぞってみる。日暮れになれば、平左は娘の元を離れ、山から家に帰る。娘は平左の後ろ姿をどういう気持ちで見送っていたのだろう。夜は、誰もいない山の中の一軒家、ろうそくの火の下で、娘はどうしていたのだろう。
きつい山道を走って登る。全身汗まみれになり、あえぐ様な息遣いでも、平左は足を止めなかった。案の定、娘の家はもぬけの空だ。平左は喚き声を上げながら探し回る。畑も雑木林も探した。もういないと分かっていても、もしかしたらという気持ちに動かされて、平左は暗くなるまで探し続ける。周囲が闇に覆われ、自分の居場所が分からなくなり、木の根に躓いて転び、漸く平左は、その場にうずくまった。結局、平左は背中を丸め、朝までそのままうずくまっていた。
老オーナーは、そこで話すのをやめた。
少しは面白味のある話かと期待していたが、始終鬱々とした話でこの地方の雰囲気そのままだ。話してくれた手前、何か反応を返さないと悪い気がして田埜倉は口を開く。
「なんで紗代は酒屋の息子に嫁いだんでしょう。親が金に困らない様に考えての事でしょうか。」
「紗代は最初から酒屋の倅に惚れていたのです。平左の事を好いていると思っていたのは、平左自身の勝手な妄想です。紗代の父親は、約束通り、紗代の好きな相手に嫁がせてやりました。」
「でも、酒屋の息子とは話した事もないのでしょ?」
「少なくとも平左がそういう場面に出くわすことは有りませんでした。恐らく、二人が仲良しだった訳ではないでしょう。紗代は貧乏が身に染みていました。その辛さを嫌と言う程感じていました。紗代は酒屋の倅本人というよりも、金持ちの暮らしにあこがれていたのかも知れません。」
「酒屋からしたら、貧乏人が親戚になるのは嫌でしょう。紗代が平左と夫婦になれば、この話もハッピーエンドとはいかなくても、まだ救いがあったのじゃないでしょうか。」
「実は後日談があるのです。村で縁談の口利きを生業にするトラ婆さんと言う老婆が居まして、その婆さんが酒屋の倅と紗代の仲を取り持ったと言うのです。惚れた相手に嫁がせる約束をした紗代の父親は、その相手が酒屋の倅だと紗代の口から聞かされると、とても叶う話じゃないと困ってしまい、トラ婆さんに泣きついたそうです。トラ婆さんがどうやって相手を説得したかは分かりませんが、最初は乗り気でなかった酒屋の主人もその倅も、最後にはこの縁談を了解したと、トラ婆さん本人が村の中で吹聴して回ったそうです。要は、自慢話、兼、宣伝です。以降、トラ婆さんの元には縁結びの相談が引っ切り無しだったと言います。」
「そうですか。」
田埜倉は、手元のビールの空き缶に視線を落とす。ビールが終わって、少し酔いが回っている。昔ばなしなど、作り話だと思っていたが、これは何か事実に基づいているのかも知れない。老オーナーの話しぶりを聴いていて、田埜倉はそんな気がした。
「長々と話をしてしまい、失礼しました。」
老オーナーは席を立ちながら詫びる。時計は、十二時近い。
「いいえ、ありがとうございました。私も寝る事にします。」
田埜倉も一緒に席を立つ。老オーナーとはその場で分かれ、一人自室へ向かう。
酔いに任せて眠りに就こうと思ったのに、あんな話を聞かされて、何だかうすら寒い気分だ。老オーナーは、話し出したら止まらない感じだった。きっと思い入れのある話なのだろう。随分昔の話だと言ったし、元服なんて言葉が出てきたから、江戸時代くらいの話だろうと思って聞いていたが、眼が売れるのは角膜の移植が出来るからだろう。そうでなければ、他人の眼など欲しがる人はいまい。だとすると、時代は近代でないと話が合わない。やっぱり作り話か。あのオーナーの創作だって事もあり得る。いや、きっとそうだろう。
部屋に戻ってベッドに潜り込む。それでも何だか、背中がうすら寒い。
峠に蜘蛛の魔物が出るなんて話、聞かなければ良かった。あのオーナー、よく平気でこんな山の中に一人で暮らしている。客がいなければ、この館の中に一人きりだ。そう言えば、禊ぎだなんて言っていたっけ。この山の中で暮らすのが定めだと言うのか。
何だか、部屋の隅の暗がりに娘に殺された男達の怨念が漂っていそうな気がして、田埜倉は毛布を掻き寄せてしっかり目を閉じた。
物語は、解説してしまうと面白味も何も無くなってしまうのですが、これを読んでいただいた人の中には、モヤモヤと気になる事がある人がいるかと思います。その方の為に、少し物語に出さなかった設定について書きます。何もモヤモヤしていないよと言う方は、これは読まずに終わりにして下さい。
まずは、物語の中で平左や娘、紗代が話している方言ですが、どこのものでもありません。特定の地方、地域を想像して欲しくなかったので、どこのものでもない方言にしてあります。
次にこの物語の中には記述しなかった物語の設定について書きます。書かずとも分かる事ですが、平左=老オーナーです。後は、昔ばなしの時期から現在までの経緯を書くと、
娘の行方が分からなくなってから、男達の連続失踪事件の捜索をしていた警官が空き家になったあの家で行方不明者の名前が入った遺留品を発見する。娘が指名手配され、やがて居場所が特定されて、娘は逮捕される。娘の供述から峠道に近い古い方の畑やその周囲から行方不明者の遺体が発見され、娘の有罪が確定。後年、娘は獄中で死亡する。
平左は成人した後、独立して村を出る。事業を起こして成功するが、娘に対する思いを忘れられず、事業を売り払い、山で娘が住んでいた土地を手に入れて、洋館を建てる。峠道は自動車が通れるように拡幅工事をした際にルートが変更になり、元は峠道から離れていた筈の娘の家のわきを道路が通るようになっていた。平左は、洋館を宿泊施設とし、その経営をしながら、思い出の地で暮らす。山を貫くトンネルを掘って、バイパスが出来たのは10年程前。以来峠道は旧道になり、人の往来が途切れた。
老オーナーは80歳代半ば、娘による連続殺人事件は70年近く前の出来事、当時は地元で大きな騒ぎになったが、時間と共に忘れられた。田埜倉は40歳手前。事件からは30年近く経ってから生まれた世代のため、事件の事は知らない。
田埜倉は高校まで地元に両親と住んでいたが、大学入学を機に柿鳴村を離れ、そのまま就職、柿鳴村には戻らなかった。一人息子がいなくなり、夫婦二人だけで柿鳴村で暮らしていた田埜倉の両親が他界した後、実家は処分。田埜倉の唯一の親戚が叔父夫妻。顔を見るたびに早く結婚しろとうるさいので、田埜倉は叔父を避けている。
紗代は嫁いだ酒屋のせがれと仲睦まじく暮らし、本業はその後も盛業で、紗代の子供達が今でも地元で酒屋を営みながら、アパート経営にも手を広げている。紗代は80歳で他界したが、彼女の後半生は幸せだった。
という設定。やはり、解説してしまうと、面白味に欠ける様に思います。なので、最後は以下で締めさせて下さい。
『お知らせ』
経営者の高齢化により、営業継続が困難になり、この度、雲間館は営業を終了させていただく次第となりました。長きにわたってご愛顧頂き、感謝に堪えません。私の思い出の地に、ほんの一夜だとしても、多くの人に滞在していただきました。独りの寂しさの中にある私の大事な人の魂も慰められただろうと信じています。今後は、私一人で彼女の魂を慰めて余生を送る所存です。本当にありがとうございました。
平左