乙女心とパイの味
「……よし、終わり」
最後の書類にサインを入れて、ウィルは軽く伸びをした。
これだけ領地を離れたのは初めてかもしれない。何かあった場合、すぐに対処できるようにはしておいたが、やはり申し訳なかったと思う。クレイヴを始め、必要な人員がそろっていなかったら、さすがに当日の出発は無理だった。
もっとも、クレイヴだけはやけに嬉しそうな顔で、「ぜひ行ってらっしゃいませ」と送り出してくれたのだが――。
領主であるウィルが気軽に領地を離れる事はできない。心情的にも、立場的にもだ。
今回の言い訳も考えておいたが、土砂崩れがあったので置き換えた。表向きは災害救助も兼ねた視察という事になっている。実際、人手も後日派遣した。
今思い出しても、ギルバートの指示は見事だった。自分もそうでありたいと思う。あれほどの武技はなく、あれだけの迫力を示す事は難しいだろうが。
ドルキアンでの滞在は、非常に有意義なものだった。
中でも一番の収穫は、新しい友人ができた事だろうか。
ついこの間も届いたばかりの手紙を思い出し、ウィルはくすりと笑みをこぼした。
ギルバートといい、パメラといい、ウィルの周りは手紙を書く人間が多い。加えてやり取りも多いので、離れた地にいる気がしない。
そういえば、たまにフォンドア領からも手紙が来る。相手はオーガストだったり、その祖父だったり。こんなにまめな交流をするようになったのは、本当にここ最近の事だ。
その理由はもちろん、ひとりの少女の存在だろう。
「ウィルさま、いらっしゃいますか?」
そんな事を思っていると、軽やかなノックの音がした。
「お仕事中にごめんなさい。出来立てのパイを届けるようにと言われたもので……」
入ってきたのは、小麦色の髪の少女だった。緑の目をきらきらさせて、パイの載った皿を持ってくる。
「いい匂いだね。中身は何かな?」
「お芋です! ギルさまが送ってくださったお芋がもう、甘くて濃くておいしくて! 料理長がものすごく張り切って作ってくれました。自信作だそうです!」
どうぞ、と小皿を差し出してくる。
皿に載ったパイは一切れ、つまりひとり分だ。
珍しい、という視線を察したのか、レティは目を泳がせた。
「わ、私はその……練習作をですね、たくさん味見させていただいたので……」
「練習作?」
「お砂糖を入れるか、蜂蜜を入れるか、甘く煮た果物と合わせるか。あと、クリームを入れたやつもおいしかったですね。軟らかく煮たお芋を潰して、ちょっぴりバターとお塩を加えて……そう、お塩を入れるとおいしかったんですよ!」
幸せそうに笑いながら、ほうっと満足そうな息をつく。この分だと、食べたのは五切れやそこらではなさそうだ。
「それで、これが自信作?」
「はい!」
どうぞ、とふたたび差し出される。素直に受け取ると、ふわりと甘い香りがした。
「ありがとう。せっかくだから、お茶と一緒にいただこうかな」
「そうですね! すぐご用意します」
「いいよ、自分でできるから」
座ってと促すと、レティは戸惑ったように従った。
暖炉のそばで温めてあったポットから、慣れた手つきでお湯を注ぐ。ルカが用意してくれたのだが、息抜きしたい時に気軽にお茶が飲めて助かっている。
どうぞと差し出すと、レティは目を丸くした。
「ウィルさまはなんでもできてしまわれるんですね……」
「そうでもないよ。少なくとも、こんな素敵なパイを作るのは難しい」
レティの向かいに腰かけて、一口飲む。ルカのようにはいかないが、これはこれで悪くない。
レティもおいしそうに飲んでくれている。それを見て、ふと微笑ましい気持ちになった。
改めてパイにフォークを入れ、口に運ぶ。
さくりとしたパイ皮と、しっとりした芋との相性が抜群だ。素材そのままでもおいしかったが、加工してもおいしい。丁寧に裏ごししているらしく、口当たりもなめらかだ。
「いかがですか、ウィルさま?」
「うん、すごくおいしいよ」
わくわくした顔で聞いたレティに、ウィルが微笑む。できればレティと一緒に食べたかったが、それは仕方ないだろう。ここしばらくは仕事に忙殺されていたし、レティは――彼女の言葉を借りるなら――新作の開発(の手伝い)にかかりっきりだったようだ。
この愛らしい少女がどんな顔で食べるのかと思ったら、想像するだけで楽しくなる。
きっとこの目をもっときらきらさせて、おいしそうに食べたのだろう。
それを見られなかった事だけが、残念と言えば残念だった。
「他にもいろんなお菓子を考案しているんですよ。もう、料理長は天才です! 薄く切ったお芋を揚げて、シナモンや粉砂糖を振ったやつとか、パイ生地に練り込んで焼き上げたのとか、クッキーもとてもおいしかったです。あとで全部お持ちしますね!」
その中でも特においしいと評判だったのが、ウィルに出したパイだという。
確かにこれはとてもおいしい。上に芋の蜜掛けが載っていて、甘さのバランスも完璧だ。
ふといたずら心が湧いて、ウィルはその部分を大きく切った。
「レティ、あーん」
「……へ?」
「レティにもお裾分け。あーん」
きょとんと瞬いた後、レティはその場に固まった。信じられないものを見るような顔で自分を見ている。
「うううウィルさまっ!? それはまずいと思うのですが……!」
「せっかくだから一緒に食べたいんだけどな。はい、あーん」
「無理です駄目ですいけません! それは許されない行為です!」
「え、そう?」
そこまで駄目な行為ではないはずだけれど、悪ふざけが過ぎたかもしれない。
考えてみたら、フォークの共有はいただけない。行儀も悪いし、あとは――まあ。
ルカが見たらお説教間違いなしだなと思いつつ、ウィルはひっそりと苦笑する。そこに私怨は混じらない、と思う。多分。
(仕方ない)
あきらめようと思ったが、レティの目はフォークの先にくぎ付けだ。その目はやはりきらきらしている。フォークを右にずらせば右に、左にずらせば左に揺れる。完全に釣れている。
「……食べる?」
「いえ、ですが、それは……っ」
「よかったらどうぞ、レティ」
はい、あーん、と差し出してみる。
レティはしばらく迷っていたが、どうしても我慢できなかったらしく、ぱくん、と一口頬張った。
「…………っっっ!!」
ものすごくおいしかったのか、じたばたするのをこらえるような動きをしている。
その目はやはりきらきらしている。とろけるように幸せな顔だ。
だが、すぐに我に返ったらしく、はっとしたように青ざめる。
「……す、すみません、ついうっかり……!」
「いや、こっちが食べてってお願いしたんだから、レティが謝ることじゃないよ」
「そうではなくて、メインが……! あれはメインだったのに……!」
「メイン?」
言われて思い出してみると、蜜掛けの芋はひとつしかなかった。
(……もしかして)
「レティ、ためらってたのって、それが原因?」
「はい、そうですが……」
しょんぼりとレティが反省する。
「ひとつしかない蜜掛けがおいしそうで、でも食べると僕の分がなくなるから、それで迷っていたという……?」
「はい、その通りですが……?」
改めて言葉にされると恥ずかしくなったのか、レティがほんのりと頬を染める。それは年頃の恥じらいというよりも、普通に照れているだけだ。そこに色恋的な甘さは存在しない。
(……乙女心より食欲だったか)
よく分かっていたつもりだが、思った以上に芋に負けた。
けれど、がっかりするよりも、ウィルは肩を震わせて笑ってしまった。
「ウィルさま?」
「いや……ちょっと、おかしくて」
目に涙をためて笑う自分に、レティはおろおろした顔だ。なぜこんなに笑っているのか、彼女には理解できないのだろう。
でも、それでいい。
皿に残った分は二口ほどだ。少し行儀は悪かったが、ざくりとフォークで刺して口に運ぶ。作法を気にせず平らげると、レティが目を丸くした。
「料理長においしかったって伝えてくれるかな。それと、今度は一緒にお茶にしよう。レティお勧めのお菓子をたくさん用意して、とっておきのお茶を淹れて」
「素敵ですね、ウィルさま……!」
「できたらルカも誘おうか。ルカの淹れるお茶は絶品だ」
「ますます素敵ですね、ウィルさま……!」
レティの目が輝きを増す。
色気よりも食い気と言うけれど、食い気しかないのはどうした事か。年頃はどうしたと、ルカが呆れ気味に突っ込むところだ。
それでも、目の前の彼女は幸せそうで、明るい笑顔を浮かべている。
今はそれで十分だ。
カップを手に取り、ウィルは軽く少女に掲げた。
そして一息に飲み干した。
お読みいただきありがとうございます。ちなみにルカは、味見の際にちゃっかり二切れ平らげています。




