荒れ地の女神-2
レティが悲鳴を上げる。
駆け寄ろうとしたレティをウィルが押さえる。幸い、ギルバートに怪我はないらしく、すぐに身を起こした。
兵士は呆然とした顔だ。その体にも傷ひとつない事を確認して、ギルバートは口を開いた。
「―――馬鹿者!!」
雷が落ちたような怒号だった。
「雨が降り続いた後に、地崩れの危険がある場所に近づくやつがあるか! 落石で死ぬなど、ドルキアンの狼として恥と思え! 返事!!」
「はっ……はい!!」
「貴様らもだ! 王都へ行く暇があったら、まず土砂を片づけろ。川が氾濫すれば領民が困る。飢えて命を落とすのは誰だ。家を失って泣くのは誰だ。それをよく考えろ!」
返事!! とふたたび怒鳴りつける。彼らは一斉に敬礼した。
間違っても、「領主がいない方が損失です」などと口にする者はいない。二、三人、失神しそうな人間が交じっているが――というか半分失神しているが、立っていられるのはさすがである。
(……これが、ドルキアンの領主)
初めて見たギルバートの叱責は、控えめに言っても腰を抜かすほど怖かった。
彼らも頭が冷えたのか、一時の興奮は収まっている。よかったと思ったが、問題が解決したわけではなかった。
怪我人は出なかった。
だが――花は。
「花が……」
レティが呟くと、ウィルはようやく体を離した。
ふらふらと、おぼつかない足取りで歩み寄る。
花が咲いていたはずの場所には、いくつもの岩が転がっていた。
大きな岩はひとつだが、無数の岩石が周りに散らばっている。その中のひとつが、白い花を無残に押しつぶしていた。
ギルバートを見ると、彼は小さく首を振った。
「……そんな……」
あの花さえあれば、なんとかなると思っていたのに。
色が変わらないまでも、同じ種類と認めてもらう事ができたら。
そうすれば、ギルバートが助かったかもしれないのに。
いつの間にか雨は止んでいたが、誰も言葉は発さなかった。
ただ、重苦しい沈黙が辺りに満ちる。
「構わない。先ほど言っただろう。私の気持ちは変わらない」
「ギルさま、ですが」
「少し早いが、これから王都へ向かおうと思う。そのための準備は済んでいる。あとは私の覚悟だけだ」
すまない、ウィル、と彼が言った。
「あなたは善き隣人だった。その恩を返せないことだけが心苦しい。その上で頼みたい。もし彼らが私を救おうとした場合、あるいは復讐を企てた場合、それを止めていただけるだろうか?」
「ギル……」
「彼らを巻き込みたくはない。だから、あなたに頼みたい」
ウィルは答えあぐねているようだった。ギルバートが微笑み、無言で首を振る。何度も二人で重ねていた話し合いの中に、この事も含まれていたのだと予感させた。
「……駄目です!」
叫んだのはレティだった。
ギルバートにしがみつき、行かせまいとする。ギルバートが戸惑った顔をしたが、無理に押しのける事はしなかった。
「死んじゃ駄目です。そんなの駄目です、いけないです……!」
「ありがとう、レティ。だが、もういいんだ」
「よくないです!」
どうして分かってくれないのか。
ギルバートが生きている事が、領地の平和につながるというのに。
彼は将来の禍根を断とうとしている。だが、それによって生まれる新たな禍根については考えていない。
――だって、許せるはずがない。
こんなにも領民想いで、まっすぐで、頼りになる人が。
自分の命を救うための唯一の方法よりも、迷いなく部下の命を助けてしまえるような高潔な人が。
それでいいのだと笑える、やさしい人が。
そんな人が命を落として、それでいいと思えるはずがない。
ここであきらめれば、それは次の火種になる。それは今まで以上に激しく、彼らの心を灼くだろう。そんな事を認めるわけにはいかなかった。
「レティ……」
ギルバートが困惑した声を出す。
「君の気持ちは嬉しいが、もう決めたことだ」
「駄目です……!」
「これが一番穏便な方法だ。私の命を差し出して、この先の犠牲を終わりにする。今の国王陛下ならば分かってくださるだろう。領主の死は大きな話題となる。はっきりと死罪と言われなくとも、察する者は多いはずだ」
それがあれば、政敵も黙るに違いない。彼の治世の妨げにはなるまい。
そう言われても、レティは納得できなかった。
もっと大人だったら、呑み込んでしまえるのかもしれない。すべてを次代に託して、あきらめてしまうのも。それも方法のひとつだと、頭では理解できなくもなかった。
――けれど、それを納得するのが大人なら、そんなものには一生なりたくなかった。
(どうして)
彼がこんな目に遭わなくてはならないのか。
何も方法はないのだろうか。こんなにも願う人がいるというのに。
どうにかして、彼を救う事はできないのか。
(花が……)
――花が、咲けば。
(お願い……)
無意識にレティは祈っていた。
ギルバートの声を聞き、彼の本心を知った今だからこそ、それは無心な祈りとなった。
どうか、この人に光を。
もしも女神がいるのなら、このやさしい人に慈悲を。
この先に続くはずの未来を。
彼を、領地の人々を、全部まとめて救ってほしい。
(お願い……!!)
その時だった。
レティの体から、まばゆい光が湧き上がった。
あの時と同じ、ほとばしるような輝きが全身を包む。それは一気に荒れ地を覆い、辺り一面を呑み込んだ。
光は岩山に降り注ぎ、足元まで強い輝きに満ちる。それは領地全体に広がるように拡散して――地面の中に、吸い込まれるようにして消えていった。
呆然と立ち尽くしていると、誰かが「あっ」と声を上げた。
「お……おい、花が……」
見ると、転がっていた岩のそばで、何かがぼんやりと光っていた。
「あれは……」
レティが目をやると、それは折れた花だった。
押しつぶされてしまった花のつぼみが、ほのかな輝きを帯びている。
驚いて、レティはギルバートと顔を見合わせた。彼も目を見張っているが、心当たりはなさそうだった。
急いで駆け寄ると、やはり花が光っていた。茎が折れ、花びらはぐしゃぐしゃになってしまっているが、根はまだ生きている。膝をつき、レティはそれを掘り起こした。
そっと掬い上げると、手の中が淡く輝いた。
小さな星にも似た輝きは、ゆっくりと花全体に広がっていき、それに合わせて元の姿を取り戻す。折れた茎がまっすぐになり、つぶれた葉はピンと立ち、つぼみが瑞々しさを取り戻す。
そして――その根元から、青い色に染まっていった。
「え……?」
それは幻想的な光景だった。
小さな手の中で、つぼみがゆっくりとほころんでいく。固く閉じていた殻を脱ぎ捨てるように、花びらが柔らかく広がっていく。写し絵で見たのと同じ、いや、それよりはるかに美しい花が、レティの手の中で咲き開いた。
「繁栄の花……」
それは不思議な色をしていた。
晴れた青空を切り抜いたような、澄んだ湖の色を写し取ったような、目が覚めるほど鮮やかな色合いだ。この色で染めた布ならば、どれほどの高値がつくだろうか。ドルキアンの空にも似た、気高く美しい青だった。
よく見ると、地面のあちこちも光っていた。
岩や小石、砂の一粒に至るまで、すべてがぼんやりと光っている。先ほどのような強い光ではなかったが、それ自体が淡く発光している。それはこの場にいる全員を照らし出し、まるで星空の中に浮かんでいるようだった。
胸元があたたかい気がして、レティはそれを取り出した。枯れ大樹のかけらが、同じ色を放っている。
まるで呼応しているように、手の中で小さな灯をともす。それはあの日の光景とよく似ていた。
何が起こっているのか分からないまま、呆けたように辺りを見回す。すでに日は落ちていたが、昼間のように明るい。周囲がきらめいているせいだ。よく見ると、光の強さにもばらつきがある。レティが拾った小石と同じ、柔らかな色だった。
「見ろ、岩山が……」
目をやると、岩山も白く輝いていた。
とても不思議な光だった。
こんなに明るいのに、ちっともまぶしくない。
にじむような色がこぼれ出て、泉のようにあふれてくる。もしも女神が降り立ったなら、こんな光をまとうのではないか。そんな想像をするくらい、清らかで美しい輝きだ。それは枯れ大樹のかけらと同じく、やさしくレティを包み込んだ。
雨粒がついた小麦色の髪が、きらきらと輝く。
びしょ濡れの上、服も髪も乱れ、泥で汚れたひどい有様だったが、それでも、その姿は女神のように美しく見えた。
周囲は魅入られたようにそれを見ている。
その中のひとりが足元を見て、驚いたように叫んだ。
「な、なんだ、地面が……!?」
岩と小石だらけの地面は、いつの間にか緑の草に覆われていた。
荒れ地が草原に変わり、一斉に花を咲かせ始める。
スズランのような葉の、可憐な花だ。
それは野原一面に広がって、見る間に鮮やかな花園となった。
その中でも一番驚いているはずのギルバートが、おそるおそる花に触れた。
「……繁栄の花だ。間違いない」
「これ全部が……?」
「それじゃあ……」
「お頭が、助かる……?」
「……助かるぞ! 死罪じゃない!!」
わっと歓声が巻き起こる。
みんな抱き合い、飛び上がって叫び、手近な者にキスをする。おいやめろお前という声に混じり、笑い声が広がった。それはいつまでも止む事なく、やがて大きな叫びとなった。
「緑の乙女だ! 本物だ!」
「緑の乙女……いや、女神だ! 女神が来てくれた!!」
「ドルキアンの女神だ!!」
「万歳!!」
「ばんざーいっ!!」
みんなでレティを取り囲み、腰をつかんで胴上げする。花を持っているせいで、ろくに抵抗もできぬまま、レティは何度も宙を舞った。
「ひゃっ……待ってください、落ちる、落ちるっ!」
「落とさねえよっ」
「軽いなぁ。ほーらっ!」
「よいせっ!」
「ひええええっ……!」
猫の仔を扱うように、軽々と放られる。最初は硬直していたレティも、だんだん楽しくなってきて、最後には声を上げて笑ってしまった。
「お前たち、いい加減にしないか」
最後にはギルバートが抱き留める。そっと地面に下ろされると、足元が少しふらついた。
「大丈夫か、レティ」
「はい、すごい経験でした」
それよりも、とギルバートに花を差し出す。
「どうぞ。お花です」
「……ああ……」
ギルバートが受け取ると、花びらがさわりと風に揺れた。
彼はそれをじっと見ていた。やがて目を閉じ、静かに息を吐く。
胸元に守り抱くようにして持ち、彼は地面に膝をついた。片手でレティの手を取り、恭しく口づける。泥で汚れた指先を、彼は丁寧に包み込んだ。
「心から感謝する、レティシア・グレーデ嬢」
「ぎ、ギルさま……?」
「あなたのやさしさと真心に、私は永遠の忠誠を誓う。奇跡の力だけでなく、あなたのひたむきな心根に」
見ると、他の面々も膝をついていた。
「本当にありがとう、お嬢ちゃん。今後何かあったら、いつでも言ってくれ」
「なんでも力になってやる」
「金以外でな」
あははっと笑いながらも、その表情は真剣だ。その中でも真っ先に膝をついていたガストルが、感謝のこもった目で言った。
「ドルキアンの狼は恩を忘れない。たとえお嬢ちゃんが忘れても、俺たちはずっと覚えてる。お嬢ちゃんは俺たちの恩人だ」
「ガストルさん……」
「――ありがとうな、本当に」
レティは無言で首を振った。
岩山はいつの間にか輝きを失い、空には星が瞬き始めている。帰ろうとした時、聞き慣れた声がした。
「……あれ? もしかしてもう終わったのか」
「ルカさま!」
旅支度そのままのルカが、黒い馬を連れて立っていた。
「思ったよりも早かったな。割と急いだつもりだったんだが」
そう言うと、彼はフードを取り払った。横に知らない人間を連れている。その人物を見たギルバートが目を見張った。
「――王家の」
「!!」
彼らが一斉に身構える。
それを片手で制した人物は、自らの馬をルカに任せて歩み寄ってきた。
二十代から三十代ほどの、怜悧な雰囲気の男だ。長旅の疲れは一切見せず、着ていたマントを後ろに流す。にこりともしないまま、彼らは周囲を見渡した。
咲き乱れる青い花に目を留めて、ほんのわずか眉を上げる。だが、結局何も言わずに視線を戻した。
そして、彼は驚くべき事を口にした。
――内乱の首謀者が捕まった、と。
お読みいただきありがとうございます。花がいっぱい咲きました。




