泉のほとりでお昼寝しました
(どうしよう……)
あまりの出来事に、レティは途方に暮れた。
末端とはいえ貴族のレティが、いきなり外の世界で暮らしていけるはずもない。どこかで野垂れ死ねという事だろうが、いくらなんでもひどいんじゃないか。
(もっとこう……自害用の毒とか! いや死なないけど! 下働きさせるとか! 今までもしてたけど! 追い出すにしてももっとこう……なんていうか……なんていうか……)
すべてにおいて、雑だ。
(せめてもうちょっと気合いを入れてほしかった……)
がっくりと肩を落とした時、ひらりと一枚の紙きれが落ちた。
「……ボールドウィン伯爵家?」
それは、伯爵家の召使いとして働くなら住む場所は用意してやる、という紹介状だった。
ボールドウィン家はグレーデ家と領地の一部を接する大貴族で、平たく言えばお隣さんだ。もっとも向こうの方が大分格上で、こちらと親しい付き合いはない。レティも、一度か二度くらい姿を見かけた事はあったが、それ以上の接触はなかった。
「召使い……」
侍女ではない。掃除や洗濯などを行う使用人だ。
この時代、高貴な身分の方に仕える侍女は、貴族の令嬢や夫人も多い。しかし、下働き担当の使用人は、平民から選ばれるのが常だった。
それを承知で使用人になるか、それともここで野垂れ死ぬか。
迷ったのは一瞬だった。
「行こう、ボールドウィン伯爵家に」
レティは頷き、力強く一歩を踏み出した。
***
それから、およそ三刻後。
「……いつまで歩いても、お屋敷に着かない……」
ひーはーと喘ぎつつ、レティは流れ落ちる汗をぬぐった。
ボールドウィン伯爵家の周囲には森があり、北と東をぐるりと取り囲んでいる。レティは東から来たので、今は森の中だ。
日光が足りないのか、木々はあまり元気がない。それとも、この辺りではこんなものだろうか。
(それよりも……)
森が、終わらない。
ボールドウィン伯爵家が名門なのは知っていた。当然のように、領地も広い。
だから、森が深いのも納得している――けれど。
「このままじゃ、着く前に野垂れ死んじゃう……」
へろり、とレティは草の上に倒れ込んだ。
荷物の中には、お情けで恵んでくれた水袋が入っている。口をつけると、生ぬるくなった水が数滴、喉に落ちた。
「……うう、おいしい」
どんな水でも水分は水分。喉を潤す水、最高。
だが、これで最後の水も飲み干してしまった。
「あとは泉か小川でもあれば……ん?」
その時、レティは耳を澄ました。
どこかで水の音がする。
「これは……命をつなぐ予感……」
荷物をつかみ、レティは立ち上がった。
道を離れる不安はあったが、いざとなれば戻ればいい。幸い、この辺りには特徴的な木が何本か生えている。それを目印にすればいいだろう。
それに――どっちにしても水がなければ、これ以上は進めない。
藪を払い、草を踏み、歩き続ける事しばし。
レティの目の前に、こんこんと湧き出る泉があった。
「わぁ……!」
澄んだ明るいエメラルドグリーンの水。日差しのせいか、水色と緑が入り混じり。宝石のように輝いている。岸に近いところは濃い水色で、底まで透き通っていた。
泉には小魚がいて、すい、すいっと泳いでいく。
歩き始めてからずっと、ほとんど水分を摂っていなかったレティにとって、この泉は正に天からの贈り物だった。
「女神さまのお慈悲に心から感謝いたします……!」
一呼吸半で祈りを済ませると、レティは泉に飛びついた。
両手ですくい、喉を鳴らしてごくごくと飲む。冷たい水が喉を流れ、ほてった体が冷やされていく。ついでに顔も洗い、レティはほっと息をついた。
どうやら、渇き死にだけはしなくてよさそうだ。
せっかくなので本格的に休憩する事にして、レティは荷物を紐解いた。
マロリーが入れるよう命じたのは、レティの普段着、エプロン、靴下、下着が二組、底のすり切れた布の靴。なぜか片方しか入っていない。それから縁の欠けた写真立てと、鏡と櫛、古い日記帳に、ハンカチが一枚。あとは埃をかぶった本が数冊と、小物を入れておいた箱。それから部屋にあった雑多なものが、ところ狭しと詰め込まれていた。
母親の形見である宝石のついたブレスレットと、金と真珠があしらわれた指輪は入っていない。
それから――縁を切る、という意味なのか、小枝が一本。
グレーデ家では、身内との縁を切る際に、木の枝を折って渡すという風習がある。グレーデの領地以外では根づかず、花や実をつける事もないため、どこでなりと野垂れ死ねという意味だ。割とひどい。
レティに渡されたのは枯れ大樹の枝で、その中でもとびきり気難しい木だった。
これはつまり、二度と帰ってくるなという意味をとてもとても上品にした、完全なる絶縁宣言だ。
(マロリーおばさま、やることが漢らしくて清々しいわ……)
褒めてはいけない。
一方レティが用意した鞄には、着替え以外はほとんど入っていなかった。細々したものが数点、水筒が一本、いざという時のための非常食。
作り方は簡単で、小麦粉と塩、数種類の木の実、乾燥した葉などをすり潰し、それらをよくこねて丸めた後、一口サイズに切り分けてから焼いたものだ。一本の棒状にまとめられ、ちょっと小腹が空いた時にはつまめるようになっている。クッキーのようなものを想像してもらえればいいだろう。
ぱくりと一口頬張ると、じんわりとした滋養が染み渡った。
「お……おいしい……」
正確に言えば、とてもおいしいものではない。
木の実はがりがりするし、ちょっと渋いし、薬草効果のある葉っぱにはえぐみがある。それでもこれはレティにとってのご馳走で、貴重な栄養源だったのだ。
泉の水をお供に、さくさくと非常食を頬張っていると、ふと眠気がやってきた。
(ちょっとだけ、お昼寝しよう……)
知らない森で寝てはいけない。
だが、疲れ切った体は、心から休息を欲していた。
こてんと首を落とし、レティはそのまま眠り込んだ。
知っている森でも寝ちゃ駄目だ!