表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

狼桜記

作者: 汎田有冴

 月を望めば、疼くじゃないか。

 腹の底が、胸の内が、頭の奥が、そこに生じた腫物が。

 疼痛でいきり立った血管が、湧き上がった情動を全身へと充填したあげく、毛穴から、爪の先から、あらゆる隙間から溢れ、発散して、皮膚にまとわりつく月彩の胞衣(えな)と混ざって、しなやかな獣毛へと変化していく。

 変容を遂げたことのある者ならば、誰しも覚えのあることだ。


 その夜、月は上弦の弓張り。

 弦はかなり引き分けられ、光矢を十分に注いでいるようだったが、齢は完全に満ちてはいなかった。

 欠けたる明かりは、桜が補ったとしか考えられない。


 志崎瑠悟しざきりゅうごは、齢十六にして己の深淵の悪疽を自覚し、夜中一人ベッドの上で、窓から降り注ぐ月光に包まれながら、脈動で震える肩を抱きしめ身をよじっていた。しかし、初めての変容の胚胎は、月齢の未熟さもあり、若芽を守る蕾のような固い人の膜を破くことができず、長くうめいていた。


 苦しみで恍惚となりながら、瑠悟は窓の外を見ていた。

 藍色の空の下、さらに暗い稜線が浮き出た頂近くに、満開の山桜が一本生えている。

 隠れた陽光で輝く魔の衛星、その光を受けて朧げに照り映える桃色の華火は、何者かが瑠悟を呼ぶために掲げた道標に見えた。


 ついに瑠悟は、パジャマ代わりに着ていたジャージにスニーカーをつっかけると、アパートを飛び出した。彼方からの重力波で緊張と弛緩を繰り返す人身をかばいながら、山桜の方へ人気のないアスファルトをよろよろと走った。


 春寒料峭の夜風はまだ厳しく、白い息と共に瑠悟の桜桃色の唇は乾いて切れた。舐めれば血の味が心地よく喉を通る。激しい内部変化と運動の為に全身から吹き出た汗は、クセのないセンターパートの黒髪もそぼ濡れるほどで、走れば蒸発して更に体温を奪う。フード付パーカーを着てくればよかったと後悔した。


 町を抜けて山道に入ると、山桜は見えなくなったが、寒気の中に匂いがした。甘く暖かな春の匂いが。

 匂いを辿り、変異の途中でまだ少ししか夜目の効かない瞳をこらしながら、暗い斜面の木々の間を、喘ぎ喘ぎ駆け登った。


 いくつか低い尾根を越えて、ようやく山桜の足元についた。この辺で一番の眺望の麓には、今まで通ってきた山林と、さっきまでここを眺めていた部屋のある町の塊が、小さな海の方まで続いている。


 瑠悟は膝をつき、ふらりと幹に寄りかかって枝を見上げた。


 山肌に食い込んだ大岩を太い根で掴み、斜面から突き出た古木の山桜は、びっしりとつけた桃色の花と紫の葉芽を夜空いっぱいに広げ、鮮やかにそそり立っている。時折、花の欠片がひらひらと瑠悟の顔に舞い落ちてきた。荒い息を整え、むせ返るほどみずみずしい生命の匂いを、瑠悟は胸いっぱいに吸い込んだ。体内でうずまく破砕の刺激が和らぐ気がした。


 遠くで空が唸った。予感がした。

 とっさにジャージの上を脱ぎ捨てた。四つ這いになり、岩地に爪を立てる。

 山から吹き降りた強風が桜を叩き、瑠悟は花の嵐を浴びた。

 瑠悟は吼えた。引き絞った体を解き放つ。衝動の赴くままに。内に留滞した全てを吐き出した。


 蕾の皮膚が割れ、満ち溢れた衝動が肉体を開花させた。尾が伸び、耳と顔がとがり、牙が生え、発達する四つ足や肩の筋肉が、大きく整っていく体をしっかりと支えた。ボロボロになった人皮と花弁が混ざり合うと、柔らかくたなびく獣毛に変わった。

 長くのびる声は、いつしか獣の遠吠えとなった。

 それは山に響き、町を越え、海の彼方まで共鳴して、春香をまとって鮮烈に変貌した人狼の誕生を知らしめた。


 こうして瑠悟は、若き狼と成った。

 力にあふれた新たな体は、月と花の妖光の下で銀色に美しく輝いた。


 毛皮に残った花びらをぶるぶるとふるい落とした瑠悟は、変容の力を育んだ悪疽の起源を思い出した。唸り牙を剥いて町へ足を運びかけたが、鋭敏な五感が春待つ自然の躍動を捉え、反転した。まずは手に入れた力を満喫したい──月が山影に沈み空が白みだす暁の頃まで、瑠悟はひたすら峰々を駆け回った。


 明け方、瑠悟は部屋に戻った。

 眠くて倒れそうだった。汗で土や葉の張り付いた裸体になんとか拾ったジャージの上着を着て、毛布の中にもぐりこんだ。

 しばらくして、帰ってきた母親が静かに部屋を開けてのぞきこんだ。微かに上下する寝具の小山を確認すると、またそっと閉めた。残り香の強いアルコール臭で、嗅覚の磨かれた瑠悟は一瞬夢から浮き上がったが、すぐにまた深い眠りに落ちていった。



 早春の候、どの春花よりも早く艶やかに咲き誇った山桜は、幹に蓄えた月の魔性を全て若者に捧げた後、静かに散り急ぎ、緑芽吹き始めた山の木々に埋もれていった。

狼と桜の組み合わせは、他にもよくみられる題材です。

未熟な文章ですが、こうした「狼プラス桜」が好きな方々に少し響いてくれたら幸いです。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ