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雪の降る夜

 作者は貴族エアプです。

 肌の奥まで寒さの染み込む夜。空を見上げれば、暗く重たい雲が月明かりを覆い隠し、大粒の雪をはらはらと降らせています。

 町から離れた、暗く静かな墓場の只中に、わたしは座っておりました。辺りを照らすのは、一つの小さな街灯だけ。橙色の鈍い光に照らされるわたしに、しんしんと雪が降り積もっていきます。

 冷たい空気に晒され続けたためでしょうか。既に手足の先の感覚はありません。ですが、不思議と寒さは感じませんでした。



「……覚えておいでですか……初めてあなた様とお会いしたのも、丁度このような日のことでしたね……」



 わたしの声は、どなたへ届くでもなく、白い息と共に暗い空へと霧散していきます。その様が、無性にわたしを悲しくさせるのです。


 わたしは覚えています。あなた様に拾っていただいたあの日のことを。それからの、幸せな日々を。昨日のことのように、その全てを、鮮明に覚えているのです。



************************************************************



 わたしは、とある貴族の家に一人娘として生まれました。わたしの家ははるか昔から王国に仕えていた一族らしく、与えられた権力も他の貴族を抜いて強く、国政に与える影響も大きかったそうです。

 わたしの、貴族としての生活は、まさにこの世の贅を尽くしたと言っても過言ではないと、今なら思います。高貴なドレスに毎日身を包み、希少価値の高い宝石を用いたアクセサリーを幾つも身に付け、口にする食事はすべて一級品のものばかり。わたしの住む家は一日かけても回りきれないほど大きく立派で、何十人という数の給仕を雇い入れ、家事雑務その他身の回りのことはすべて彼らに任せておりました。



――お前は女として産まれた。故に、いずれお前を嫁に出す日が来るだろう。その時、我が一族の恥とならぬよう、身の振り方には気を付けなさい



 わたしは物心の付く前から、様々な教育を施されてきました。外国語、お歌、芸術、ダンス、ピアノ等々。世に出しても恥ずかしくないように、我が一族の恥とならぬように。わたしは毎日それらに励み、そして優秀な評価を受けておりました。



――お前は素晴らしい自慢の娘だ。いつか、お前は我が一族の宝になるぞ



 きっと、わたしは幸せだったのだと思います。何不自由のない生活。約束された将来。この家の娘に生まれたことを、その頃のわたしは、子供ながらに『幸せだ』と思っていたと思います。



 ですが、その幸せは一夜にして終わりを告げることとなるのです。



************************************************************



 ある冬の真夜中のことです。ふと尿意に目を覚ましたわたしは、夢現になりながら月明かりを頼りに長い廊下を歩いていました。お手洗いに向かうその途中、お父様達の寝室に差し掛かったときです。

 寝室の扉が、僅かに開いておりました。それだけではありません。部屋の中から、これまでに嗅いだことの無い異様な匂いが漂ってきていたのです。



「お父様? お母様?」



 半分夢に浸かった状態のわたしは、その出所を突き止めたいという好奇心の赴くままに、部屋の中へ足を踏み入れてしまったのです。



「ひッ!?」



 その光景を見た瞬間、わたしは夢の世界から即座に現実の世界に引き戻されました。



――誰だッ!



 窓から差す白い光が照らし出したのは、鈍い赤色の海と、それに浮かぶ二つの塊。そして、その傍らに立つ一つの影でした。

 わたしが彼を認めたとき、開かれた窓から風が吹き込み、赤いカーテンを大きく靡かせました。

 その時はまだ、わたしは目の前で起きている現実を理解することはできませんでした。わたしの両親が何者かに暗殺されたという現実を。



――子供? そうか、この家の娘か



 腰を抜かしその場にへたり込むわたしに彼は背を向け、顔だけこちらを振り向きました。その顔は目以外が黒い布で覆われており、その素顔を見ることは出来ませんでした。



――済まない



 それだけを言い残し、彼は窓の外へ飛び込んでいきました。

 部屋に残されたのは、金縛りに遭ったように動けないでいるわたしと、無残な姿になってしまったお父様とお母様の亡骸だけ。


 わたしはその後も、その部屋を後にするでもなく、両親の死に涙するでもないまま、血生臭い一夜を明けたのです。



************************************************************



 両親、地位、生活、財産。一夜にして、わたしは全てを失いました。

 それまでわたしの家に媚びへつらっていた他の貴族たちは、手の平を返すようにわたしの家から財産という財産を根こそぎ持って行ってしまいました。両親以外の血縁者をとうの昔に亡くしていたわたしに身を寄せる所などなく、路頭に迷うこととなったのです。当時のわたしの年齢は、僅か十二でした。


 貴族から無一文の平民に身分を落とすこととなったわたしは、初めに教会へ赴きました。教会ならば、困っているわたしを助けてくれるかもしれない、せめて食事くらいは分けてもらえるかもしれない、そう思ったからです。

 しかし、現実は残酷でした。わたしの身に起こった事の顛末を話しても、教会はわたしに一切の施しもなさいませんでした。かつては毎週のように教会に通い、神に祈りを捧げていたというのに、神はわたしにパンの一欠片さえも、分けては下さらなかったのです。


 それからのわたしは、何とか生きながらえるため、町で芸を披露してお金を稼いでおりました。時には歌い、時には踊り、同じ平民の方々からささやかなお金を頂いて生活していたのです。

 ですが、それで稼げるお金というものは高が知れております。どこかの宿を借りるどころか、お腹一杯にご飯を頂くことすら叶わない額でした。

 昼は町の広場で芸を披露し、夜は人目の付かない裏通りで空腹と寒さに耐える。そんな日々が続いておりました。


 一体、わたしが何をしたというのでしょう。何も悪を働いた覚えなどありません。それなのに、どうしてこのような生活に身を落とさねばならなかったのでしょうか。苦しいのです。辛いのです。何度も死にたいと思いました。けれど、死ぬことは決して赦されないのです。

 毎夜、寒さと空腹に耐えながら、頭の中に浮かぶのはいつだってあの人のことばかりでした。わたしの両親を殺し、わたしをこの生活に追いやったあの人。わたしはきっと、酷く恨んでいたのです。叶うなら、今すぐにでもこの手で復讐したい、そう思うほどに。



 そんな生活が数週間続いた、ある日のことです。その日の夜も、わたしはいつものように裏通りの片隅で自分を抱いて縮こまっていました。空は厚い雲に覆われ、白く大きな雪を降らせていました。暗い暗い街の隅。遠くに見える街灯の橙色も、雪のせいか霞んで見えました。

 その日は、大変風の強い日でした。吹く風が鼻先を掠めるたび、わたしは自分を抱く腕に力を込め、体をより震わせました。それでも、いくら体を震わせても、体は全く温まることはありませんでした。吹く風がその全てをさらってしまうのです。

 風は止むことなく吹いていました。そのうち、それが何だか心地よく思えてきました。それはまるで、揺り篭に揺られているかのよう。わたしは、いつしかウトウトとし始めていました。


 あぁ、ようやく眠りに就くことができる。


 目を閉じようとした、その時でした。



――君は……



 目の前に、人影が立っていました。この暗闇の中、後光を背負った人影が。見間違いでしょうか、それとも本物でしょうか。その時のわたしには、その判別など付けようがありませんでした。

 わたしの目から、それまで流したことのなかった涙が溢れ出ました。



「あぁ、やっと、やっと、お迎えがいらしたのですね……」



 彼はきっと、神が遣わし給うた使者の方に違いありません。わたしはここで力尽き、天国へ導かれるのです。

 そう悟った瞬間から、わたしはわたしを縛る全てから解き放たれたような感覚を覚えました。この寒さも、空腹も、復讐の念さえも。わたしはこのとき、確かに微笑んでおりました。



――おい! しっかりしろ! おい!



 使者の方がわたしに駆け寄り、倒れようとするわたしを支えてくださりました。彼の腕の中は温かく、あぁ、天国とはきっとこのような暖かい場所なのですねと、遠のく意識の中で密かに心を弾ませました。

 そして最後に、こう思ったのです。



「ようやく……死ねるのですね……」 と。



************************************************************



 温かい。初めに、そう感じました。

 温かく、そしてふわふわと心地良い。わたしの想像通り、ここはきっと天国なのです。わたしは死に、かの使者の方に連れられて天国へやってきたのです。であれば、天国とは一体どのような景色なのでしょうか。わたしは、ゆっくり、ゆっくりと両の目を開きました。

 開いた目は、まだはっきりと世界を映してはくれませんでした。しかし、それは徐々に明瞭になってゆきます。そして、初めに目に映ったものは、



――気が付いたか



 一人の男性が、わたしの顔を覗き込んでいました。



 ここは……?



 辺りを見回せば、高く白い天井に、白い壁、そしてどこか懐かしい調度品たち。一目見ただけで、ここが天国ではないことは容易に理解できました。

 どうやら、わたしは死に損なったようでした。あの時わたしは死ねず、今目の前にいる男性に命を救われたのです。そしてここは、この方のご自宅でしょうか。大きなベッドの上に寝かされておりました。

 こうして目が覚めてしまった以上、ずっと横たわっているわけにはいきません。わたしは腕に力を込めて起き上がろうとしました。



「いッ!?」



 そのとき、指先に激痛を覚えました。見ると、わたしの両の手先には包帯が何重にも巻かれていました。

 男性が、起き上がろうとするわたしの体を押さえます。



――まだ安静にしていろ。医者には既に診せた。じきに直る



 ぶっきらぼうな口調でしたが、その声はどこまでも優しく、わたしの耳の奥にこだましました。

 彼の声を聞くと、不思議と安心を覚えました。それはまるで、吹雪の吹き荒れる暗闇の中に、一つの灯りがポッと点るようでした。


 ほっとしたからでしょうか。次第に瞼が重くなっていきます。わたしは一つ、大きなあくびをしました。



――今はまだ寝ていろ



 彼がわたしに掛け布団を掛け直してくださいました。久しぶりの温かいベッド。その後、わたしはすぐさま夢の世界へ落ちていきました。



************************************************************



 次に目が覚めた頃には、指先の痛みも大分引いておりました。



――大分良くなったようだな



 その言葉と共に、男性が部屋に入ってきました。その手には、一杯のスープとパンが載せられたプレートを持っていました。



――さぁ、食え。腹減ってるだろ



 そのプレートをわたしの隣の机の上に置き、彼はその前のイスに腰掛けました。

 わたしはのっそりと体を起こし、



「よろしいのですか?」



 と問えば、彼は無言のまま頷きました。

 わたしは包帯だらけの手のままスプーンを持ち、スープを一口頂きました。次にパンを一口大にちぎり、口元へ運びました。

 おいしい。浮かんだ言葉は、ただそれだけでした。かつてはこれらに肩を並べることなど決してない、一級品ばかりを食してきたはずなのに、この貧相な庶民の食事が、それらに何倍にも勝っておいしく思えたのです。



「おいしい、です……とても……」



 気付けば、ほろほろと涙を流していました。拭っても拭っても、それは治まることはありませんでした。



「ありがとう、ございます」



 ポツリと言葉を漏らしました。男性はそれに言葉を返す代わりに、一つだけ頷きました。



 ***



 いつぶりかのまともな食事を終えた頃、涙はようやく止み、わたしの心も落ち着きを取り戻しました。



「お食事、大変ありがとうございました」



 お礼を言いながらプレートを机の上に返します。男性は、これくらい、と返しました。そして、彼は再び口を開きます。



――そういえば、まだ名乗ってなかったな



 彼は真っ直ぐにわたしの目を見つめます。



――俺はリュート。君は……?


「わたしは……ヴィオラと申します」



 一瞬、家名を口にしようか悩みました。けれど、今となってはそんなものは無いに等しい身。わたしは自身の名だけを伝えました。



――ヴィオラか。いい名だ



 男性はプレートを持って立ち上がり、扉のほうへと歩いてゆきます。そして、扉に手を掛けたところで、



――行く当てが無いのなら、好きなだけここに居るといい。食事も、もし必要なものがあるなら、それも全て用意しよう



 そして、彼は扉を開いて外へ出て行ってしまいました。


 リュート様。それが、わたしを救って下さった方の名前。

 神は、わたしに一切の施しもなさいませんでした。そのせいで、わたしがどれ程辛い日々を送ったか、神はご存知なのでしょうか。

 ですが、あの方は、リュート様は違いました。死にかけていたわたしを拾い、温かい食事を与え、そしてこの温かい家に住んでもよいと仰いました。



「リュート様……」



 今ここに、わたしは誓いましょう。リュート様への忠誠を。拾われたこの命が燃え尽きるまで、この身の全てをリュート様へ捧げることを。



************************************************************



「リュート様、起きて下さい。朝ですよ」



 カーテンを開くと、淡い朝の日差しが部屋の中に満たされます。その温もりを全身で感じながら、今日も良い日になりそう、と胸を躍らせます。

 とっても気持ちの良い朝日。けれど、それを忌み嫌う人もいるようでした。



――なんだ……まだ六時じゃないか……



 むくりとベッドから体を起こしたリュート様は、時計を一瞥するなり、再び頭まで布団を被ってしまわれました。どうやらまだまだ起きる気はないようです。

 しかし、ここで甘くしてはいけません。朝の気持ちの良い目覚めこそ、良い健康への第一歩なのです。リュート様のお体の健康を案ずる身として、見過ごす訳にはまいりません。



「いけません、リュート様。もうお目覚めのお時間ですよ。さぁ、すぐに着替えてください。朝食もすぐご用意できますから」



 わたしは心を鬼にして、掛け布団を強引に引き剥がします。すると、しばらくの間リュート様はその場で横たわったままでしたが、遂には観念したようで、ベッドからゆっくり起き上がりました。



「着替えを済ませた後、ダイニングルームまでいらしてください。朝食をご用意しておりますので」


――あぁ、分かった


「では、後ほど」



 その気だるそうな返事を受け、お辞儀を一つして、リュート様の寝室を後にしました。



************************************************************



 わたしはあの日から、リュート様の給仕となりました。

 給仕としての仕事内容は、洗濯や掃除、食事の用意、食料や日用品の買出しなど。リュート様は当初、そんなもの、適当に俺が済ませる、と仰っておりましたが、わたしは居候の身。ましてや、命を救われた身でございます。何もせずご厄介になるわけにはまいりません。という旨を伝えると、リュート様は納得のいかないといった表情をまま承諾して下さいました。

 こうして給仕となったわたしの一日の最初のお仕事は、リュート様に朝の清々しいお目覚めを提供することです。朝の気持ちの良い目覚めあってこその一日。ですが、リュート様はどうにも夜更かしなさる習慣が染み付いていらっしゃるようで、朝にはめっぽう弱いのです。もしわたしが声を掛けなければ、リュート様はお昼時になってもお目覚めにならないのではないかと思えるほどです。

 そんなリュート様の生活習慣を守るために、わたしは毎朝のお声掛けを欠かさないのです。



 リュート様がお目覚めになり、一緒に朝食を摂った後は、洗濯、そして掃除です。洗濯については問題ないのですが、掃除は少し厄介です。リュート様のお屋敷は、もちろんわたしのかつて住んでいた豪邸とは比較のしようがありませんが、他の町民たちのそれに比べ一回りも二回りも大きく立派でございました。それ故に、一日にその全てを綺麗に磨くことは叶いません。本心では毎日お屋敷中を綺麗にしたいところですが、仕方なく、お屋敷を四つに分割し、四日でお屋敷すべてを掃除するようにしておりました。

 大きなこのお屋敷に現在住んでおりますのはリュート様とわたしだけ。他に給仕などは雇っておりません。そのため、勿論使うことの無いお部屋もたくさんございます。掃除の際、そういったお部屋も含めすべてのお部屋を掃除するのですが、一つだけ、リュート様から入室を禁じられているお部屋がございます。それは、リュート様の『書斎』です。



――この部屋には絶対に入るな。何があっても、だ



 わたしがこのお屋敷にご厄介になるようになってから数日間は、何度も念押しするように言い聞かされたものでした。

『書斎』と言うのは、あくまでわたしが勝手にそう呼んでいるだけで、実際に書斎かどうかは分かりません。ですがリュート様は、どうも毎夜『書斎』に篭り、夜更かしをなさるようなのです。中で一体何をなさっているのか、恐れ多くて訊ねることすらできませんでした。



 リュート様には、もう一つの秘密がございます。それは、お仕事です。

 リュート様は普段はずっとお屋敷にいらっしゃいます。お屋敷を出ることがあるとすれば、市場へ買い物に出かけたり、近くの川辺へ散歩に出かけたりといった、小さな用事があるときのみです。それ以外では、日中にお屋敷の外へ出られることはありませんでした。

 もしや、リュート様はお仕事をされてはいないのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。もしそうなら、どうしてこのような立派なお屋敷を構えることができましょうか。

 であれば、リュート様は一体どのようなお仕事をなさっているのでしょう。わたしには皆目見当が付きません。が、一つだけ手がかりがあります。リュート様は数ヶ月に一度、夜更けにどこかへお出かけになるのです。



――数日には戻る



 その言葉だけを残し、リュート様は夜の闇へ消えてゆきます。トランクバッグ一つ分の荷物だけを持って。おそらく、これがリュート様のお仕事なのです。数ヶ月に一度の数日間だけのお仕事。その内容の一部分すら存じ上げませんが、このお屋敷を持つことができるほどの、さぞ立派なお仕事に違いありません。



 リュート様がご不在の間も、わたしは給仕としての仕事を欠かしませんでした。お屋敷の隅々まで綺麗にし、リュート様の好物である料理の準備も万端にしておきます。いつでもリュート様がお帰りになってもいいように、と。

 数日間、大きなお屋敷に一人だけ。寂しくはありましたが、辛くはありませんでした。なぜなら、リュート様は必ずお戻りになりますから。


 ***


 数日後の夕べ。玄関の扉が開く音を聞きつけ、すぐさま玄関へ飛んでいきます。



「リュート様! お帰りなさいませ!」



 わたしのお出迎えに、リュート様は決まって、照れくさそうに顔を背けるのです。



――あぁ、今戻った



 数日振りに聞くリュート様のお声。この瞬間こそが、わたしの一番の幸せでした。



************************************************************



 リュート様は大変無口な方でしたが、時折口を開いては、わたしにいろいろな話をしてくださいました。



――去年も酷いものだったが、どうも今年も農作物が不作らしい。俺たちも、冬に備えて蓄えたほうが良いかも知れん


――教会に祈りに行くような奴は、自分の力で事を成せない愚か者だ。決して救いの手を伸べることのない神に祈る暇があるのなら、少しでも事を成す努力をするべきだ。君もそう思うだろう


――昨晩、役所で暴動が起きたらしい。これで何件目だろうな。最近は物騒になったものだ。君も外に出るときは気を付けろよ。ほら、護身用にこのナイフを持っていろ



 わたしは、リュート様とのお話が大好きでした。リュート様は話し方こそ少し乱暴なところがありますが、そのお声はとても優しく、穏かに感じられます。それはきっと、あの方の心根を表しているのだと思います。



――ん? この料理はいつにも増して美味いな。……そうか、味付けを変えたのか。あぁ、俺好みの味だ


――ヴィオラ、一週間後に旅芸人の一座が来るらしい。どうだ? もし興味があるなら、一緒に見に行こう


――どうした? ヴィオラ。このネックレスが気になるのか。あぁ、確かに、君に良く似合っているよ。じゃあ、これを頂こうか。……なに、遠慮することはない。いつも君には世話になっているからな



 気が付けば、初めてリュート様とお会いしてから数年の月日が経っておりました。それだけの時間の流れの中で、リュート様に少しずつ変化が訪れたように思えるのです。

 リュート様は少しだけ、言葉数が増えました。それだけではありません、心なしか、わたしに対する言葉も角が取れたと申しますか、より丸くなったように感じるのです。更に、時折ではありますが、数年前には決して見せなかった笑顔を浮かべるようにもなったのです。

 会話の内容も、日常の何気ない話題が増えました。そういった話に花が咲きますと、大変恐れ多いことではありますが、リュート様とよりお近づきになれたのかなと、心の中でひっそりとほくそ笑むのです。

 リュート様は変わられました。ですがそれは、わたしも同様でありました。



 あろうことかわたしは、リュート様に恋心を抱いてしまったのです。



――ヴィオラ、ため息なぞついてどうした? 何か悩みでもあるのか?


「い、いえ! そんな、わたしに悩みなど! このお屋敷の居候の分際で、悩みなど持つ筈がございません!」


――そうか。君がそう言うなら。……だが、あまり自分を卑下するな。何か困ったことがあったら、すぐに俺に言え。いいな


「はい、ありがとうございます……」



 言えようはずがございません。わたしはあの方に命を救われ、給仕としてあの方に仕えている身。それがどうして、主人に恋などしてしまったのでしょうか。

 言えようはずがございません。もし、この気持ちをあの方に伝えてしまったのなら、あの方を困らせてしまうばかりか、わたしはきっとこのお屋敷には居られなくなってしまいます。もしそうなってしまえば、わたしはきっと耐えられない。

 だから、今のままで良いのです。愛する人に仕える日々。この気持ちを胸の内にしまっている間は、この幸せで切ない日々が続いていくのです。この宝物のような日々を終わらせないためにも、この気持ちは墓の下まで持って行きましょう。



 そう、このままで良いのです。これがわたしの最良の選択で、最大の幸せなのです。わたしはそう自分に言い聞かせ、自分でそう納得しておりました。

 きっと後悔することはないと、そう思っていたのです。



************************************************************



 それは、ある年の冬の晩のことでした。外は寒風が吹きすさび雪が視界を塞ぐ、それはそれは荒れた日でありました。



――数日には戻る



 リュート様は、外の有様など全く気にせずといった涼しいお顔で、こちらへ振り返ります。



「お気を付けていってらっしゃいませ、リュート様」


――あぁ、行ってくるよ



 そして、リュート様は暗い吹雪の中へ消えてゆきました。数ヶ月に一度の、お仕事へお出かけになられたのです。

 リュート様のお背中が見えなくなった後も、わたしは玄関から離れることができませんでした。何故だか、妙に胸騒ぎがしたのです。この荒れたお天気が原因でしょうか。わたしはリュート様の身に何か起こるのではと、気が気ではありませんでした。しかし、かといってリュート様を引き止めることなどできません。

 大丈夫、お言葉の通り数日後には帰ってらっしゃいます。自分の心にそう言い聞かせ、わたしはゆっくりと玄関の扉を閉じたのです。



************************************************************



 リュート様が留守の間、わたしはより一層家事に力を入れました。

 家中の掃除はもちろんのこと、リュート様の疲れを癒せるように普段は使わない入浴剤やアロマキャンドルを揃えたり、リュート様の好みそうな新たな料理の研究をしたりといった、普段はあまりしないことにも挑戦したりしました。そして、リュート様がお帰りになったとき、きっと笑顔になっていただける。そのお顔を想像しては、一人笑みをこぼすのでした。



 けれど、これらはすべて、あの嫌な予感を忘れたいがためだったのかもしれません。手を止める度に蘇るのです。あの時感じた胸騒ぎが。これから起こる不幸の予感が。



************************************************************



 リュート様がお戻りにならないまま一月が経ちました。


 これまで数年間リュート様と生活を共にして参りましたが、このようなことは初めてのことでした。


 リュート様の身に何か起きたのでしょうか。あの胸騒ぎは本物だったのでしょうか。その真実を、わたしは知り得ません。


 ですが、わたしに出来ることは、このお屋敷を守ること。今はただ、リュート様を信じましょう。



************************************************************



 リュート様がこのお屋敷を後にしてから半年が経ちました。その間に季節は巡り、世界の色合いも随分と変わりました。けれど、このお屋敷は依然として寂しいまま。リュート様は帰らず、広いお屋敷にわたしが一人。


 リュート様、一体今どちらにいらっしゃるのですか……? わたしは、わたしは、大変寂しいのです。叶うのなら、今すぐにあなた様のもとへ飛んでゆきたい。お願いです、リュート様。どうか、わたしを一人にしないで下さい。


 世間は夏。外の空気は陽炎が立つほどの熱気を孕んでいます。それなのに、わたしの心は、あの日と同じ吹雪が延々と吹いているかのように寒く感じられるのです。


 リュート様、あぁ、一体いつお戻りになられるのですか。わたしはいつまで、あなた様をここでお待ちすればよいのですか。



************************************************************



 あの吹雪の日から、一年が経ちました。


 静寂と暗闇に閉ざされたお屋敷の中、わたしはある部屋の前に立っておりました。



――この部屋には絶対に入るな。何があっても、だ



 わたしは誓った筈です。あなた様への忠誠を。けれど今、それが別の感情を前にして揺らいでいるのです。



「リュート様、お戻りになられた際には、いかなる罰もお受けします。ですからどうか、今回ばかりはお許しください」



 出入りを禁じられた唯一のお部屋。その扉に、ゆっくりと、恐る恐る手を伸ばします。



「……ッ」



 ドアノブに手を掛けると、扉がするりと開きました。決して入ってはならぬと戒められてきたお部屋。その扉には、なんと鍵が掛けられていなかったのです。

 扉の先には光が差さず、真っ暗で何も見通せません。わたしは手探りで、壁にあるはずの電気のスイッチを探しました。そして、



「あ、ありました」



 探し当てた電気のスイッチをパチンと入れます。一歩遅れて、頭上の電気が点りました。

 そして、部屋の全貌が明らかとなります。



「……ッ!?」



 目の前に広がるのは、まさに異様な景色でした。

 部屋中の至る所に無数にこびり付いた黒いシミ、シミ、シミ。床には黒ずんだ刃のナイフが何本も突き刺さり、広い壁にはそのシミが連なり『赦し給え』という文字を成しておりました。

 部屋の最奥へ目を向ければ、そこには一体の像が置かれておりました。その見覚えのある造形は、なんと国民たちが信仰する女神の姿であったのです。

 そして、部屋中に満ちた独特な臭い。これには覚えがあります。間違いありません、これは血の臭いです。だとすれば、この黒いシミたちは、古い血の跡なのでしょうか。



「一体、ここで何が……」



 血。それは一体誰の血なのでしょう。そんなもの、初めから決まっております。

 鼓動が加速するのを感じながら、一歩一歩部屋の奥へ足を踏み入れていきます。そして、左手に見えるは一台の物書き机、そして、その上に置かれた一冊の本。

 恐る恐る、それに手を伸ばします。小さめの厚いハードカバーの本で、表紙には何の文字も書かれていませんでした。

 唾を飲み込み、意を決したわたしは、ゆっくりと表紙をめくります。



「……これは」



 書かれていたのは、人名の羅列。何かの本というわけではなく、記録帳のように無秩序に人名が並んでおります。各人名の隣には、日付、場所、そして、


『ナイフで首を切り、死亡』


 などと、殺害方法が記されておりました。


 まさか、これは殺害した人のリスト!? それも、リュート様の!?


 ページを読み飛ばしていきます。まさか、そんなはずはない。心の中で祈りながら、ある日付を探します。



「……あった」



 そして、わたしは見つけてしまいました。わたしの両親の名前を。隣に記された日付は、まさに二人の殺害されたその日でした。

 まさか、わたしの両親を殺したのがリュート様? でも、どうして……どうして……

 半ば放心状態になりながら、開いたページに再び目を落とします。そのページの途中で、名前のリストは止まっておりました。最後の人の名前。その隣には殺害方法は記されておらず、日付ととある場所のみが記されておりました。その日付は、最後にリュート様がお屋敷を発った日付の三日後でした。


 わたしはこの時全てを察しました。リュート様は殺人者、いいえ、きっと殺し屋なのです。人を殺し、対価を貰う。それがきっと、リュート様のお仕事。そして、一年が経った今でも、リュート様はお戻りになっていない。


 ふと、机の上に一つの封筒が置かれているのに気が付きました。この本の下に敷かれていたのでしょうか。


 封筒を手に取ってみます。封はされておらず、表にはこう書かれておりました。



『ヴィオラへ』 と。



************************************************************



「ここにいらしたのですね、リュート様」



 白い息をはきながら、わたしはそっと、リュート様の隣に腰を下ろします。

 空からは、はらはらと大粒の雪が舞い降りています。



「この一年間、ずっと、ずっと、あなた様のことだけを考えておりました。早くあなた様に会いたい。あなた様と、また普段通りの言葉を交わしたいと。ですが、それが叶わなかったこの一年は、わたしにとって耐え難いほど寂しく、辛いものでした」



 リュート様は何も答えません。わたしは、自分の言葉が届いているのか、少し不安に思います。



「申し訳ありません、リュート様。わたしは、あなた様からの言い付けを破ってしまいました。リュート様から決して入ってはいけないと何度も言い付けられてきたあのお部屋へ、入ってしまいました。本当に、申し訳ありません」



 リュート様は赦して下さるでしょうか。いいえ、そんなこと、わたしにはどうでも良いことなのです。

 そっと、リュート様に積もった雪を払いのけます。



「けれど、そのお陰で、こうしてまた、あなた様にお会いすることができました」



 そして、少しだけ体を倒し、リュート様にもたれかかります。それが、どうにもわたしの心を浮かれさせるのです。まるで、わたしたち二人が恋人同士であるかのようで。


 あぁ、ずっと、あなた様とこうしたかった。



――俺は、あまりにも多くの罪を背負いすぎている。殺し屋として育てられ、殺し屋としての能しかない俺は、昔も今も、人を殺すことでしか生きられない



 冷たい風が雪を運び、わたしに降り積もっていきます。雪も風も冷たいはずなのに、不思議と寒くはありません。リュート様とこうしてくっついているからでしょうか。



――俺は君の両親を殺した。依頼であったとはいえ、俺は君が憎むべき人間のはずだった。だから、俺が偶然、あの冬の夜に君を拾ったのは、君に情けをかけたからじゃない。少しでも逃れたかったからだ。己の素性を隠し君を生かすことで、これまで犯してきた罪の意識から、罪悪感から、ただ逃れたかっただけだ。



 次第に手先、足先の感覚が失われていきます。わたしは、ぎゅっと自分の体を抱きました。



――ヴィオラ、君がもし真実を知ったら、君は俺を恨むだろう。恨み、決して赦すことはないだろう。分かっている、俺はそれだけのことをしたという自覚がある。だから、せめて君にはその恨みを知らずに生きて欲しい。過去のしがらみに囚われず、自由に生きる権利が君にはある。こう思うのは、俺の我が儘かもしれない。だが、俺は君に――



 書きかけの手紙。届くはずの無かった、あなた様の言葉。

 わたしは、眠るように目を閉じます。瞼の裏に描くのは、あの日の光景。あの頃と変わらぬ、リュート様のお姿。



「……覚えておいでですか……初めてあなた様とお会いしたのも、丁度このような日のことでしたね……」



 寒さと飢餓に死にかけていたわたしに、唯一救いの手を差し伸べてくださった、優しいお人。



「あの時、わたしをお救い下さったのは、わたしへの情けのためではなく、あくまでご自身のためであると、あなた様は仰いました。ですが、わたしはあの時、確かにあなた様に救われたのです。暗い暗い死の淵から、あなた様が光ある日常へ引っ張り上げて下さったのです」



 恨むはずなどございません。恨む理由など、今のわたしは欠片ほども持たないのです。



「お慕いしております、リュート様。ずっと、あなた様とこうしたかった」



 やっと言えた言葉。わたしの、本当の気持ち。リュート様、貴方に伝わるでしょうか。


 頬に感じる冷え切った石の感触。その刺すような冷たささえ、今はもう感じません。

 次第に雪が強くなります。際限なく降り積もるそれに、わたしとリュート様は埋もれていくのです。



「リュート様、この雪の中でお一人はさぞ寂しいことでしょう。ご安心ください、わたしもすぐ、そちらへ参ります。えぇ、すぐに……」


 ***


 世界が、雪の中に閉じていきます。


 もう二度と、この体が動くことはないでしょう。


 ですが、悲しくはありません。後悔もありません。寧ろ、わたしは幸せなのです。


 次にこの瞼を開いたとき、きっとそこにはリュート様がいて、あの日と同じようにわたしに手を伸べてくれるから。



 かつてのような寒空の下ではなく、今度はきっと、暖かなお花畑の中で

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