プロローグ
オリジナル小説を書くのは久しぶりですが、少しでも楽しんでいただけるように頑張ります。
皇帝を讃える勝利の歌は、広大なる皇帝宮の端においても途切れることはなかった。しかし、未だ戦装束を解くことなく颯爽と銀の長靴で床を踏み鳴らしていた皇帝は、後ろ髪引かれるそぶりも見せずに歩み続ける。まるで、これまでの、そしてこれからの彼女の治世を暗示するかのように。
「——陛下。此度の勝ち戦、誠におめでとうございます。戦場にてお怪我をされたとの報が届いておりましたが、ご健勝のご様子で安堵しております」
後宮へと至る回廊の手前。こうべを垂れて跪くは、後宮を取り締まる女官長とその追従たち。皇帝の背を追うように付き従っていた近衛兵たちは、これから先に進むことはできない。皇帝を見送るため、その場に膝を折る。がちゃりといくつもの甲冑が鳴るが、やはり皇帝は振り返らぬ。
「余は誰か」
皇帝は低い声で問う。
「こ……皇帝?」
「余は誰か、と訊いている」
ようやく皇帝は立ち止まった。兜をとうに外しているため、中庭をすべる穏やかな風に、金色の豊かな髪がたなびく。呪い細工が施された銀色の甲冑に、深い緑色の外套、体躯に合わぬ大振りの剣。いずれも華美な装飾は一切なく、皇帝の装束としては地味の一言に尽きる。しかし、胴当てに、籠手に、鞘に、あらゆるところに無数に見える傷の数々が、身にまとう皇帝が歴戦をくぐり抜けてきた猛者であることを知らす。
「は、はっ。我らがトラヴェルサ帝国第七代皇帝にして、その武、比類無きと讃えられしエスト・アン・トラヴェルサ陛下でございます」
「そう。余は、エスト・アン・トラヴェルサ。無敗を誇るもの。なれば、そなたの心配は無用。皇帝宮にこもろうとも、庭に出ればかまいたちで傷をこさえることもある。戦さ場なら、なおのこと。些細な知らせに逐一気を揉むでない」
「……僭越でございました」
「ゼクス」
女官には応えず、皇帝はようやく振り返る。叩頭したままの兵士たちのうち、先頭にいたものが「はっ」と顔を上げる。つやのある褐色の肌のおかげで、男にしてはつぶらな瞳がよりいっそう際立つ。戦の余韻、あるいは勝利——様々な理由によって興奮気味の彼は、若草色のまなこを爛々と光らせていた。もし彼の肌がもう少し白かったら、愛する主君に名を呼ばれた喜びに頬を染める様子を見ることができただろう。
「もうひとりの夫を連れ、我が寝所に来てくれ。議会への報告、ならびにその他の公務に関してはすべて明日に回す。この賑わしさでは、議会の発言など聞き取れぬだろうしな」
ついと彼女が顎をそびやかせて見るのは、歌声が聞こえてくる方角。すなわち、皇帝門のほう。そっけない言い回しではあるが、薄い唇にはやわらかな笑みが浮かんでいる。
「拝承いたしました」
ゼクスと呼ばれた若き近衛兵は一礼すると立ち上がり、皇帝宮へと戻る。その後ろ姿が消えるのを見届けたのち、皇帝は外套を翻し、再び歩き出す。向かうのは、渡り廊下の先に在る彼女の後宮。数刻前までいた戦さ場に吹いていたものとはまるで違う、穏やかで心地よい風が彼女の長い髪を揺らす。
トラヴェルサ帝国初代皇帝トラヴェルサ一世は、彼が後世治めることになる帝国に比べれば、あまりに小さな王国の王子であったと言われている。実際には庶民の出であり、出生に箔をつけるため、のちに王位を購ったという話も残っているが、今となってはどちらだったとしてもなにが変わるわけでもない。それほどに、一世が残したトラヴェルサ家の血は強いのである。
トラヴェルサ一世は精力的に近隣諸国を支配下に収め、彼の名を冠した大国を作り上げることに熱心であった。しかし、元来病弱であったと伝わる皇帝は、齢三百を過ぎたばかりの若さで身罷ってしまう。志半ばにして斃れた彼の意思は、その子、孫、子孫にも代々受け継がれ順調に領土を拡大してゆく。輝かしい帝国の拡大と躍進。だがその一方で、歴代トラヴェルサ皇帝にはみな——不幸な共通点があった。
「僭越ながら申し上げる。匂いが強すぎるかと存じます」
夫たちの到着は速やかであった。戦装束を解き、平服に着替えただけの姿でエストは彼らを出迎える。応接用の椅子に座らせるや否や、まずは第一皇配であるサグラ・ラリスが眉間にしわを寄せた。謙虚な口調では在るが、類稀なる美貌は盛大に歪んでいる。第二皇配であるゼクスよりは歳が近いが、やはり年下だ。素直すぎる態度と言葉に、エストは笑った。確かに室内には、柑橘の甘く爽やかな匂いが充満している。
「香印の瓶を落としたのだ。わたしとて、戦から戻った直後は疲れがでる。手元がゆるくなることもあろう」
おまえが香印を義務化したから、従ったというのに。
茶化すように指摘すれば、サグラは自身の白い首を撫でる。困ったときの、彼の癖だ。
不平や不満は、どの世界のどの職場でも大なり小なり発生してしまうもの。トラヴェルサ帝国の宮廷においても、やはり上司への不満や部下への愚痴というのは尽きぬ。あれは確か、エストがふたりの夫を娶って、すぐのことだ。陰口をうっかり本人に聞かれ、手討ちになるという事件が続いた時期があった。陰口を禁じて取り締まることは、不可能に近い。しかし、仕方がないと放っておくことはできぬほどに事件は頻発している。悩むエストに、司法官でもあるサグラはあるひとつの提案をした。
——宮廷で働くものたちに、自身を示すかおりを纒わせてはいかがでしょう。
そうすれば、陰口が聞こえる距離まで本人が近づいてきたとき、匂いでわかる。あまたいる役人の数だけ匂いを用意することも、そして匂いを記憶することも現実的に考えれば難しい。そこで、家ごとで定められた「家香」、役職で定められた「役香」のみを定め、個人はこの二種類を掛け合わせた「香印」を身にまとう。
効果は絶大だった。これ以降、陰口が原因の手討ち事件がエストの耳に入ることはなくなった。エストがサグラの優秀さを改めて確信し、なにかと彼の前で悩みをこぼすようになったきっかけでもある。
「強過ぎますでしょうか。僕はちょうどよいと思います……その、アン様の匂いですから」
不機嫌そうに唇を引き結んで黙り込んだサグラに代わり、ゼクスがはにかみながら呟く。近衛師団団長という猛々しい肩書きは、このときばかりはどこかに隠れてしまう。第二皇配ゼクス・ユヌ・ラファージュ。夫としても、臣下としても、もっともエストのそばにいる男。
「ものには限度がある。わたしとおまえの香印や他の匂いも混ざって、これでは——」
匂いからかばうよう己の手を鼻にあてていたサグラの顔から、掃いたように色が消える。すん、となにかを確かめるよう鼻を鳴らすものだから、エストは観念して苦く笑う。
「血の匂いでもするか?」
「……ゼクス。陛下が無傷で戻られたと言ったのは、うそか」
「わたしとて女の身、支度には時間がかかるというのに、おまえたちが早く来るものだから」
予想以上に彼らがはやく訪ねて来たものだから、隠しておきたかった傷口をごまかす時間がなかった。部屋にあった包帯で手早く巻いただけの脇腹からは、じわじわと血が滲み出している。無意識にエストがそっと手を当てれば、ぐっしょりと濡れていた。できるだけ血の色に似ている赤色の服を選んだのだが、匂いだけは隠しきれなかった。穿たれたときは、戦いの高揚によって感覚が麻痺していた。時が経つにつれ、忘れてくれるなと言わんばかりに自己主張をする傷口が憎たらしい。
「陛下——おのれ、エルカラキッ!」
敵将の名を叫んで飛び出そうとするゼクスの手首を掴み、エストは引き止めた。
「まだ話は終わっておらぬ」
「ですが!」
「ユヌ。妻の今際の際だというのに、おまえは他の女の元へゆくのか?」
「アン様……!」
ゼクスはその場で膝から崩れ落ち、無言のままはらはらと大粒の涙をこぼす。勇猛果敢、無敗女帝の右腕と恐れられた近衛師団長の姿はどこにもない。ただただ、恋しい妻を亡くすことに怯え、途方にくれながら泣き崩れる男がいるだけだ。一方の、同じく女帝の夫であるサグラは、涙一粒こぼすことなく静かにエストに視線を向けたまま。彼は、ゼクスと違い、妻を「アン」と呼ぶことは許されてない。気安さが許されなければ、夫婦ではなく主従だ。主君のまえでは、感情よりも理性が優先される。
「わたしは、まもなく死ぬ」
トラヴェルサ一世は精力的に近隣諸国を支配下に収め、彼の名を冠した大国を作り上げることに熱心であった。しかし、元来病弱であったと伝わる皇帝は、齢三百を過ぎたばかりの若さで身罷ってしまう。志半ばにして斃れた彼の意思は、その子、孫、子孫にも代々受け継がれ順調に領土を拡大してゆく。輝かしい帝国の拡大と躍進。だがその一方で、歴代トラヴェルサ皇帝にはみな——不幸な共通点があった。
彼らは初代の意思ととともに、その薄命までも受け継いでいたのである。
帝国建国より千年を迎える節目に即位した、七代目女帝エスト。弱冠百四十二歳にして過去に君臨していた六皇帝の誰よりも武勇に優れ、知恵に富み、臣下に恵まれた史上最高と謳われる名君。だが、そのような彼女であっても、初代から続く皇帝の運命に逆らうことはできなかった。
そう。たった、それだけのことなのだ。
「エルカラキ……我が好敵手より穿たれたこの傷が、多少その時期を早めただけ。遅かれ早かれ、わたしは先帝たちと同じく早死にする運命だった。おまえたちを未亡人としてしまうこと、わかっていながら、求婚したわたしを許してくれ。ゼクス、サグラ。おまえたちふたりは、わたしにとってかけがえのない存在だ」
彼女が愛し、自らのかおりと定めたマンダリン。
しかし、部屋に充満するのは爽やかな果実よりなお濃い、血の匂い。
「これから語るは、我が遺言と心得よ」
トラヴェルサ帝国第七代目皇帝エスト・アン・ラファージュ。
宿敵エルカラキ・ピコラス女王を討ち破った、その十日後、百四十二年の短い生涯の幕を閉じた。「皿の上では、みな等しく食べられる」という最期の言葉を遺して。