#63 真昼の朝の夢
――三月二日、午後十一時過ぎ。
その、ついほんの十分程度前。朝日ら三人は就寝のため、リビングからそれぞれ自室へ戻っていた。
Maps側居住区。こちらで使われている個人の部屋は三つ。
一つはモノトーン調で家具や飾りは最低限ながら、充実したAV機器とゲーム機フル装備な深夜子の部屋。
一つはブランド物のインテリアを中心に、まるで超高級マンションの一室かと見紛うゴージャスな五月の部屋。
そしてもう一つ。今日は黒のイヌさんぬいぐるみ風パジャマを着ている大和梅さん(二十二歳・自称硬派)のお部屋。
ハート柄のカーテン、家具はパステルカラーで花柄などの可愛いものばかり。タンスやベッドには、ところ狭しとぬいぐるみたちが飾られている。
そんなファンシーかつ、なんとも(朝日基準で)乙女チックな空間に、ノックの音が響いた。
「ん、五月か? 開いてんぜ」
大切な明日を控え、まだ何か相談があるのかと思った梅はさらりと扉に向けて声をかけた。
『ごめん……梅ちゃん。ちょっと……いいかな?』
「はあっ、朝日!?」
ところが、声の主はその予想とは違った。
これは何事かと驚きつつも、梅は急ぎ部屋の中へ朝日を招き入れたのであった。
――二人でベッドに腰掛け、しばし会話をする。
しかし、どうも朝日の歯切れが悪い。話題もたわいもないものばかりが出てくる。
悩んだ結果、梅は自分から確認をすることにした。
「……で、朝日。何か心配事でもあんのか? その、よ。顔に出てんぜ」
「あ……あはは。ごめん、そうだよね。わかっちゃうよね。うん……あのさ、前に男性保護省に泊まった時。梅ちゃん、自分の妹が僕みたいになったら悲しいって言ってたよね?」
梅の言葉は的中だった。
最初は愛想笑いを浮かべていた朝日だったが、途中からは真剣な表情、声に変わる。
「ん? ああ、そりゃあ可愛い妹が突然いなくなっちまったら普通悲しいぜ」
「だよね。でさ、例えば……例えばだよ? そのいなくなった妹さんは、実は別の国で暮らしててさ。そしたら、男の子と仲良くなって、好きになって……。だけど、突然自分だけ、自分の国に帰れることになったら、男の子とは離ればなれになっちゃうけど。梅ちゃんはそれでも、妹さんに帰って来て欲しいって思う?」
そんな朝日の問いかけであったが、緊急時以外は鈍感女王の梅。その意図は伝わらない。
直感的に受け取ったままの回答を返す。
「そりゃあ帰って来て欲しいさ」
良くも悪くも物事を深く考えないのが梅である。
「……そっか、そう……だよね。やっぱ――」
ばっさりと断じられ、わずかに朝日の表情が暗くなる。だが、梅はお構い無しに続ける。
「だけどよ」
「え?」
梅が朝日の顔をまっすぐ見つめる。
そして、ニヤリと笑みを見せると同時にふんっと鼻を鳴らし、控えめな胸を張りつつ自信満々な態度でこう言った。
「決めるのは自分自身だぜ。仮にも女が裸一貫。どこにいようが、進むも戻るもその時の自分がどうしたいかさ。例え人様に何言われようが、自分の正しいって思う道を進むんだ。退かねえ、媚びねえ、省みねえ、それが女ってもんだぜ!!」
突拍子もない言葉に朝日は目を丸くして固まる。シンプルにして、梅らしい回答。
わずかな沈黙の後、朝日はくすくすと笑い声を漏らした。
「あん? なんだよ朝日。俺、そんなにおかしいこと言ったか?」
「あはは、いや、違う、違うよ。ふふ、すごい……やっぱ梅ちゃんはすごいね! かっこいいね。女の中の女だもんね」
イヌさんぬいぐるみ風パジャマですけどね。
「そ、そうか? ま、まあな、へへ、うへへへへへへ……へ……」
実にチョロかった梅なのだが、だんだんとご機嫌な照れ笑いはすぼんでいく。
なんとなく、このタイミングならという感じなのか、今度は梅が朝日へ質問を切り出した。
「あー、あのよ……朝日。俺からもちょっと聞いていいか?」
「うん。どしたの」
「昨日、ババアと二人で話があるって、結構長い間やってたじゃねえかよ。その……なんかあったのか?」
昨日、男性総合医療センターに弥生がやって来てから、朝日は麻昼の願いについて話をした。
その後、五月と梅に、弥生と二人で話がしたいので席を外して欲しいと願い出たのだ。
最初はさして気にしていなかった梅と五月だが、結果一時間以上に及んだ話の内容が気になっていた。
「あー、うん。ちょっと明日の準備で、弥生おばあちゃんにお願いごとを色々ね。ごめんね梅ちゃん。まだみんなには話せない、かな。深夜子さんも揃ってからで、その……ごめん――」
「ああっ、いやっ、すまねえっ、だから俺らが席はずしてたんだもんな。悪ぃ、変なこと聞いちまった。気にしないでくれ」
朝日の態度に、梅はあたふた両手をふりまわして問題ないアピールをする。
そのまま一人。ベッドからすとんと床に降り、話題を切り替えた。
「ま、明日もあるからよ。そろそろお前も部屋に戻っ――――てよおおおおおおお!?」
先に部屋の扉まで、と歩を進めようとした梅の背後から、朝日が両手を首に巻きつけ、ぎゅっと抱きしめた。
「ちょおおおお、朝日。だから、いきなり抱きついてくるなっていつも言って、うひいっ!」
いつものセリフを口にする梅の耳に、朝日の吐息がかかる。ぞくりと背筋に寒気が走って、梅の歩みは緊急停止した。
「ごめんね……心配させて……でも、僕。梅ちゃんも、深夜子さんも、五月さんも、みんな大好きだから、……ね」
「朝日……」
背中から感じるぬくもり、耳元で囁かれるその言葉。
梅は目を閉じ、微笑んで、そっと首に巻かれた朝日の手を握りしめる。
「まあ、先がわかんねぇと不安なのは誰でもいっしょさ。朝日、お前の――」
「あ、ところで梅ちゃんの耳たぶって、形いいよね。それにすっごいぷにぷにして触り心地良さそう」
「うおおおおおいっ、なんで突然そっちいいいいいいいっ? ってか、摘まむなあっ、おいっ、らめええええええ!!」
朝日、唐突な耳フェチ発動。
もちろん不意討ちを食らった梅の叫び声を聞きつけ、五月がすぐに飛んでくる。
結局、なんやかんやと賑やかに朝日家の夜はふけて行くのであった……。
◇◆◇
――そして、運命の日を迎える。
三月三日、午前九時四十五分。
閉鎖された曙区総合医学研究所前に、大型ハイヤーと数台の黒塗り高級車が次々と到着する。
すでに施設のスライド式門扉は解放されており、そのまま車は敷地へと入る。
建物の玄関前では、所施設関係者に加え、男性保護省職員ら十数名が待機していた。
「「「「「閣下。お疲れ様です」」」」」
ハイヤーから制服姿の弥生が姿を現すと、職員たちが一斉に挨拶をする。
「ああ、今日は頼んだよ。事が終わるまで敷地内には誰も入れてはならぬぞ」
「はい。関係者の方々がお入りになられた後、門扉は再度封鎖致します。また、こちらの者たちで施設近隣の警戒も行いますので、ご安心を!」
「うむ、ありがとよ。よし、それじゃあ坊やたち。中へ入ろうかね」
弥生に呼ばれ、朝日、五月、梅もハイヤーから降りる。
他、黒塗りの高級車からは、護衛の黒服たちに見送られながら着物姿の新月がやってくる。
――施設内は半年前に閉鎖されただけあって少しホコリっぽい。
待ち合わせ場所へと進む全員の緊張感も反映してか、静けさの中に少々重苦しい空気が混じる。
建物には、矢地のデスマーチと引き換えに電気も通ってはいる。
だが、閉鎖施設ゆえに一部の蛍光灯などは外されており、埋め込みのライトや非常灯程度しか光源がなく、もの寂しい雰囲気だ。
そんな通路を進んで、一行は階段を降りる。
「うわー、ものすっごく久しぶりに見たなあ。このロビー」
朝日が声を上げた。
朝焼子、深夜子に指定した待ち合わせ場所である地下一階のロビー。朝日にとっては、この世界への転移当時を思い出す場所だ。
まわりを見渡し、一人感想を口にしている。
「確か……朝日様は不思議なトンネルを抜けて、こちらの場所へたどり着かれたのですわね」
「うん。ほら、この廊下の突き当たりにある大きな部屋。中に機械がたくさん置いてあったところだったと思う」
「うへっ、なんか薄暗くて気味悪りぃな」
「はーい。朝日ちゃんたちー、朝焼子ちゃんたちが着いたみたいよー」
通路の奥をのぞきに行っていた朝日たちに、ロビーから新月の呼ぶ声がかかる。
三人はいそぎ踵を返した。
「朝日君!!」
ロビーに戻るや、朝日たちの耳に聞き覚えのある声が響く。
「深夜子さん!!」「深夜子さん……」「深夜子!」
階段から、スーツ姿の深夜子がロビーへと出てきた。
朝日の顔を見た瞬間に、泣きそうな表情で駆け出そうとする――が、その後ろから朝焼子の手が伸び、襟首を掴まれ止められる。
「ふげっ。ちょっと母さん、何?」
襟首を掴まれた深夜子が不満気にジタバタとする。
「深夜子さん、話し合いはこれからです。終わるまではおとなしくしていなさい」
「むうう……」
不服そうな深夜子を後ろ側へ追いやり、道着袴姿の朝焼子がロビー中央へと向かう。
朝日たちの前まで立ち止まると、軽く一礼をして挨拶をする。
「……それにしても、男事不介入案件の申し入れとは少々驚きました。これは姉様――いや、新月殿の入れ知恵でしょうや?」
無表情ながら、朝焼子は鋭い視線を新月へ送る。
「さあて、ワシはなんも知らんがのぅ。そりゃあ、ボンも男じゃけえ。勝手に自分の警護担当を外されちゃあ納得いかんのと違うか?」
対して新月はニヤリ、とわざとらしい口調で答えを返す。
「ふぅ……まあ、それはよろしいでしょう。しかし、このような場所を選ばれるとは。小細工を弄したところで、わたしが簡単に説き伏せられると努々思われぬことです」
丁寧な口調ではあるが、その言葉のふしぶしに不快感が含まれているのを朝日たちは感じる。
それも当然。なんせここは朝焼子にとって、悪夢の元凶と言える場所なのだ。
しかし、朝日とっては朝焼子を説得して深夜子を取り戻す前に、麻昼との大切な約束がある場所だ。
事前の打ち合わせ通り、弥生に視線を送って軽くうなずく。
「うむ。今回は過去例にない”見合い”に対する男事不介入案件。立会人はこの六宝堂弥生が務めさせて貰うよ。それと本件の依頼主は神崎朝日殿だが、未成年のため五月雨ホールディングス代表取締役の五月雨新月が後見人を申し出た。これに異議はないな?」
「ありませぬ。こちらは見合い相手の代理人として寝待流当主、寝待朝焼子がしかと承りましょうぞ」
「ワシも問題なしじゃ。神崎朝日に対しての賠償請求。他、いかなる債務が発生しようと、全て五月雨家が保証をする」
「はい。僕もそれで異議はありません」
「ならばよし。それでは話し合いじゃが……今回、依頼主の神崎朝日殿から要望が出ておる。これについては神崎朝日殿、寝待朝焼子殿の二人のみで協議して貰おう」
麻昼の願い『自分の”想い”が残る場所で、朝焼子と二人きりで話をさせて欲しい』への対応である。
無論、二人きりとは朝日を介してと言う意味だ。
「神崎さんとわたしが二人で? それはどういう――」
その不自然な流れに朝焼子が疑問を口に出そうとするが、すぐに朝日が割って入る。
「深夜子さんのお母さん。少し離れた場所で、僕と二人でお話をさせてください。これは協議の条件として希望してます」
「む……? 一体何を――」
企んでいる。朝焼子が聞こえないほど小さく呟く。
だが、朝焼子が思案する間もなく、朝日はスタスタとロビー奥の階段へと進んでいった。
二人以外はこの地下一階のロビーで待機となる。朝焼子も流れには逆らえず、朝日を追って階下へと降りた。
地下二階のロビー中央に行くと、朝日がキョロキョロと周りを見渡していた。
着いてこいと言ったわりには、まるで行き先を探しているかの雰囲気。朝焼子はなんとも言えない違和感を覚える。
「あ、こっちか……」
ぼそりと独り言のように呟き、朝日はロビーの奥へ進む。
そして、とある廊下に入ったところで、朝焼子の表情は凍りついた。
そこは施設職員たちが、宿泊などに使う個人用の部屋がずらりとならぶ場所。そして――。
「男性のされることゆえ、黙って従っておりましたがなんたる姑息な……」
朝焼子がついに耐え切れないといった体で声をふるわせる。
「神崎さん! これは姉様の指示ですか? このような場所でわたしと協議などと、どういうおつもりでしょうや」
怒気を含む朝焼子の口調。ところが朝日は気にする気配もなく、ある部屋の前まで来てその足を止めた。
「着きました。この部屋の中で話し合いを――」
朝日がそう言ったと同時、通路に轟音が響く!!
見ると、朝焼子の右手が通路の壁を打ち据えていた。
まさに憤怒と言うべき表情。
コンクリートの壁は、その拳を中心に大きな円を描いて凹み。天井から床まで無数の亀裂が走る。
さらには、地震でも起こったのかと思える凄まじい衝撃と振動も通路を襲った。
「おのれえっ、わたしを愚弄するかあっ! そこはっ、そこはっ、麻昼さんが監禁されていた部屋があった場所。もはや我慢がならぬ――」
そう吐き捨て、朝焼子はその場を去ろうとする。
普通の男性ならば論外。朝日であっても、本来は恐怖に動けなくなってしかるべき迫力だった。
だが、朝日は全く動じていない。まるで何も起きていないと言わんばかりに、その部屋の扉を開け一歩踏み込むと、振り返って朝焼子へと声をかけた。
『いやいや、建物が壊れちゃうかと思ったよ。相変わらず凄い力だね、朝焼子さん』
「っ!? ――――――なっ、あ……」
その声にピタリと歩みを止めて振り返る。
朝焼子の表情はみるみる怒りから困惑へと変わっていく。朝日家を訪問したときの態度からは、想像もつかない狼狽えぶりだ。
『ああ、ごめんよ。ここで無いと俺が神崎君の身体を借りて話すことができないからね』
「あっ……なっ……いや、そんな、そんなことが……でも、その声は……ま、麻昼さん?」
『そう、俺だよ。嬉しい、ずっと君にもう一度会いたいと、話がしたいと思っていたんだ。さあ、こっちに来て――』
麻昼が手を差し出すも、朝焼子の絶叫がそれを打ち払うように響く。
「嘘だ! ありえませぬっ、麻昼さんは、もう、二十五年も前に……。くっ、きっと、わたしを――ああ、そうだ姉様たちが、わたしを謀ろうと――そんな、いや、許して……麻昼さん……」
ヒビの入った壁を背に、頭を抱えて血の気を失った唇を動かし、ぶつぶつと独り言を繰り返す朝焼子。
そこに、部屋から麻昼――朝日が近づき、そっと手を取る。瞬間、朝焼子の表情は怯えに変わる。
「驚かせてごめんなさい、深夜子さんのお母さん。信じれないかも知れないけど、この部屋で麻昼さんは待っています。さ、時間も無いですから、こっちに」
そう言って部屋へ向け手を引くと、朝焼子はされるがままに着いてくる。
いや、抵抗すらできないほどに弱々しくなっていた。到底、武術の達人とは思えない状態だ。
「ああ、許して……許してください。麻昼さん……」
その虚空のような瞳から涙を流し、ガクガクと身体が震えている。
麻昼の声を聞いたことで、過去の悪夢が、後悔が、慚愧の念が、朝焼子の中に押し寄せていたのだった。
部屋に入ると同時に、床にひざまづいて朝焼子は嗚咽を漏らしはじめた。
「麻昼さん。許してっ、許してくださいっ! わたしは間に合わなかった。貴方を助け出せなかった。……いや違う。それ以前にわたしは、貴方を、ただ自分のものにしたかっただけの浅ましい女です。どうか……どうか」
二十五年間。ため続けていた負の想いが朝焼子から溢れだす。
床に這いつくばって、ただ号泣しながら後悔と謝罪を繰り返すのみだ。
『……朝焼子さん。やっぱり君は自分を責めていたんだね。それは違うよ――と、口で言っても難しいか……(神崎君ごめん)』
(えっ?)
麻昼が心の中で朝日に一言謝ると、朝焼子の腰に手を回して抱き起こした。
「ひっ? ま、麻昼さ――ふっ!?」
そのまま二人は口づけを交わす。
最初は驚きジタバタとしていた朝焼子だが、一秒、二秒と唇が重なり合う時間が経過すると共に、おとなしくなっていく。
『思い出してくれたかい? 朝焼子さん』
「ま……ひる、さん」
それは幾度となく重ね合わせた唇の感触だった。朝焼子の脳裏に二人の日々が思い浮かぶ。
『君には随分と哀しい思いをさせてしまったね。でも、覚えているよね? 俺たちは間違いなく愛し合っていた。確かに、俺たちの最後は哀しい別れだったかも知れない。でも、君に幸せな思い出もたくさん貰った……ああ、そうだ。少し二人で昔話をしよう」
――麻昼と朝焼子。
二人は出会った時からの思い出を語り合う。その時は伝わることのなかった”想い”も交換しながら。
一つ一つの出来事を、お互いの愛を確かめ合うように、わずか数ヶ月の出来事を宝物のように語る。
少しずつ、朝焼子の虚空の瞳に光が戻っていく。
そして――会話は、最後の、二人の別れについての話となった。
麻昼は自分が悪かったと、不甲斐なかったと。朝焼子はそれは違うと、何も悪くないと。涙ながらに気持ちを伝えあう。
……ひとしきり話が終わったところで、麻昼が朝焼子を優しく抱きしめる。
『もう、そろそろだね……』
「麻昼さん……逝かれて、しまうのですか?」
『それは違うよ。言っただろ、俺はあくまで”君への想い”さ。それが消える前に……朝焼子さん、君が会いに来てくれた。それだけだよ』
「そう……ですか」
涙は流れているが、朝焼子の表情にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
『おっと、最後に神崎君との約束も守らなきゃね。と言っても、もう俺の想いは伝えたから問題無いかな?』
「はい……ただ、どうしても。娘が、わたしは深夜子さんが心配なのです」
『朝焼子さん。誰であれ未来は自分で選択するものだよ。彼らにはまだまだ未来がある。選択をさせてあげて欲しい。俺からのお願いだ。強制せずに、見守ってやって欲しい。神崎君を、それに深夜子を、可愛いあの子が幸せになるように――』
「麻昼さん? ……今、深夜子さんを?」
『ごめん、もう時間だ。想いを伝えた以上、俺はもうここには居られない。そのことは、神崎君を通じて弥生さんにお願いしてあるから、安心して――じゃ――朝焼子――――君に会えて良かっ――――」
現実か錯覚かはわからない。
朝焼子の目に映っていた麻昼の姿が、だんだんと光が霧散するように、朝日の姿へと戻っていった。
「麻昼さん! ま、ひ……るさ……。あ……神崎さん……ですか?」
「はい、ごめんなさい。もう……行ってしまいました」
「神崎さん……感謝を……するべきでしょうね。いや、今もこの身に起きたことは信じられぬのですが……それでも」
「あの、深夜子さんのお母さん。もしかしたら、僕たちが見たのは現実じゃなくて、夢みたいなものだったかも知れません。でも、麻昼さんの”想い”がここにあった。それだけは間違いないと思います。僕も……聞いてましたから」
「そう……ですね。ありがとう神崎さん。そして、わたしも麻昼さんの願いを守りましょうや。貴方と深夜子さんに未来の選択を……」
――三月三日午前十一時四十二分。
深夜子たちが心配している最中、朝日と朝焼子が階段から地下一階の通路へと戻ってきた。
「母さん! 朝日君!」
二人の姿を見た深夜子が、ロビーから通路に駆け込んでいく。その後ろを、五月や弥生たちも追う。
「ちょっと? どしたの母さん……これ……何が……大丈夫?」
初めて見る憔悴して消耗しきった母親。その姿に驚いた深夜子が足を止め、心配そうに様子をうかがう。
「ふむ、坊や。どうやらまずはうまくいったようじゃの」
「はい、ちゃんと麻昼さんのお願いは叶いました」
「そう、ですね……深夜子さん。大事ありません」
「ふえっ、母さん?」
朝日の言葉を聞いた朝焼子がすっと姿勢を正し。そっと深夜子の肩に手をかけた。
「深夜子さん……もう、母は何も申しません。貴女の自由にしてかまいません」
「えっ、自由!? それじゃあ……」
「ええ、貴女がどうしたいか……自分で選びなさい」
突然のことに理解は追い付いていないが、自由と言う意味はわかる。
深夜子は戸惑いながらも笑顔で五月たちへ振り向く。
「深夜子さん良かったですわ!」「やったな深夜子!」
もちろん、五月と梅も喜びを爆発させる。
深夜子の側へと駆け寄って、手と手を取りあい小躍りする。それから、三人揃って朝日へ笑顔を向けた。
これで元通り、また朝日との日常が戻ってくるのだ。
それぞれの同じ気持ちを確信して、深夜子たちが朝日に声をかけようとした――その時。
「ごめん。深夜子さん、五月さん、梅ちゃん。まだ、僕と麻昼さんとの約束が一つだけ残っているんだ。みんな……こっちへ着いてきてくれるかな」
「朝日君?」「え……朝日様?」「朝日?」
予想だにしていなかった事態。
真剣な表情の朝日がロビーの奥へと向かっていく。その唐突な言葉と行動に三人は困惑する。
だが、弥生と新月はすでに察しているらしく、深夜子らにそれとなく移動を促す。
その行き先は地下一階の通路奥の部屋。朝日がこの世界に転移してきた場所である。
「「「――――ッ!?」」」
部屋の扉が開けられた瞬間。その場にいた全員が息を飲んだ。
話に聞いていた光景。
にわかには信じれない光景。
そこには、淡い光が渦巻くトンネルのようなものが発生していた。




