#59 母来たりなば、春遠からじ
また時間はずいぶんと進んで、二月下旬のとある日。
深夜子らMapsたちにとって、美少年神崎朝日との日々はまさに順風満帆。
温泉旅行でぐっと近くなった距離感もうまく維持ができている。もはや任務完了も時間の問題。『約束されし勝利の時』はすぐそこだと思えた。
――六時五分、朝日家の朝。
まずは朝日が一番に起床する。向かう先は台所。三十分ほど朝食の準備をしている間に、五月と梅も起きてくる。
そこから五月と朝食準備を交代し、朝日は梅を連れて早朝ランニングへと出かけるのが日課だ。
七時四十五分。
ランニングと筋トレを終え、朝日と梅はシャワーを浴びて汗を流す。
その頃には五月が朝食準備を終えており、ダイニングテーブルへ全員集合。八時前には朝食開始……のはずだが、本日は深夜子が起きてくる気配がない。
「ありゃ? もしかして深夜子のやつ、また寝坊かよ?」
サラダにドレッシング、ハムエッグに醤油をかけ、バターをトーストに手際よく塗りながら梅がぼやく。
「あー、そっか。深夜子さん……昨日どうしても出ない素材あるって、餡子ちゃんとイベントマラソンしてたもんなぁ」
「はぁ……これで今月もう何回目ですの? 名誉ある朝日様のMapsチームリーダーともあろう者が、ネットゲームをして定時遅れ。さすがに今日と言う今日は我慢なりませんわっ!」
一方の五月は怒りもあらわに、だんっと音をさせてテーブルに手をつきながらイスから立ち上がる。
まあ、Maps基準で考えなくとも社会人として論外ですよね。
「あっ、五月さん待って」
ちょっと蹴り起こして来ます。そんな勢いで部屋を出ようとする五月を、朝日は引き止める。
「あの……朝日様。お優しいお気持ちは……ありがたいのですが……あまり、甘やかされすぎますと……その……」
反論。という程には歯切れの悪い五月の対応。
「ごめんなさい。でも、僕のために無理する必要はないから、深夜子さんが怪我したのだって僕のせいだから、好きなことくらいは――」
「おい朝日。もう充分だぜ……いいかげん気にしなくてもよ……」
やはり梅も歯切れが悪い。
間違いなく朝日との関係性は順調なはずだ。しかしただ一つ、五月たちには不安があった。
温泉旅行の一件で、深夜子が重傷を負って入院して以来。
朝日は極端に深夜子ら三人に優しく、さらに気を使うようになった。特に深夜子に対しては度が過ぎていると感じるレベルだった。
「朝日様。深夜子さんの怪我は先月末に完治されてますわ……ですので――」
深夜子、一月半でまさかの完治。全治三ヶ月とはなんだったのか?
それはともかく、梅が五月を脇腹をつついて耳打ちする。
(おい、五月。あんま言うとまた朝日のやつ泣くぞ)
ついでに全治一ヶ月の梅は二週間余りで回復している。担当医の絶叫が聞こえるようだ。
「――え、あ、そっ、それでは朝日様。深夜子さんを……起こして、そう! 起こして来ていただけますか?」
「うん。じゃあ、今日は起こして来るね」
ギクシャクと対応する五月をよそに、朝日はパタパタとスリッパを鳴らして深夜子の部屋へと向かっていった。
「朝日様……」
見送る五月と梅に、そこはかとない不安がよぎる。
それでも、いずれは治まるだろう。朝日の優しすぎる性格故の行動と思えば、落ち着くのを待つしかできない二人であった。
◇◆◇
さっそく深夜子の部屋へと到着した朝日。ノックをしてみるが、予想通り反応は無い。
まずは部屋に入って電気をつける。すると、目に入って来たのは入口からベッドまで、床に散乱するバスタオルにフェイスタオル。
「あはは。深夜子さん何時までやってたんだろ?」
自然と笑いがもれる。昨晩の深夜子の様子が手に取るようにわかる。
他にも出しっぱなしのゲーム機に、脱ぎ捨てられたジャージ。暖房がよく効いているにも関わらず、タオルはまだ湿っている。
きっと、朝方寝落ち寸前まで餡子たちネットゲーム仲間とひたすらゲームをプレイ。
寝ぼけ半分でシャワーを浴びて部屋に戻り、そのまま雪崩れ込むように布団へと入ったのだろう。
「おーい、深夜子さん朝だよ。五月さんが怒っちゃうから、一度起きて、ご飯食べてから寝直したらどうかな?」
勤務中の三文字を根底から否定する激甘の提案を口に出し、朝日は薄手の羽毛布団にできた小山をゆさぶる。
「うにゃあ……はむ……うにゅ……ふにゃ?」
若干の反応は返ってくるが、起きる気配は感じない。
「ねえ、深夜子さん。ほら、一回起きて、そろそ――え? うわぁっ!?」
少し強めに揺さぶろうと朝日が身を近づけた瞬間。目の前を羽毛布団が覆った。
まるで、油断して近づいた獲物を捕らえる食虫植物。ベッドの前にいた美少年の姿は、次の瞬間にかき消えた。
静まりかえる部屋では、膨らみを増した羽毛布団がもぞもぞと音をたて蠢くのみである。恐ろしや。
『ぷわっ、え? 何?』
朝日の身体に絡みつく、深夜子の腕と脚の感触。
『むひゅふふふ。もう、あしゃひくんってば、だいたん。ふひ、ふひひひひひひ』
『ちょっと!? 深夜子さん。いったいどうした――むぎゅ』
どうやら抱き枕状態で、がっちりとホールドされてしまったようだ。
しかも、深夜子は寝ぼけているらしい。
『ふみゅう。しょんな。もう、あしゃひくんは、しょうがないにゃあ』
寝言? その口振りから察するに、深夜子は夢の中でも朝日とイチャイチャしているのだろう。器用にも程がある。
これは困った。朝日と深夜子では力が違いすぎる。
寝ぼけているとは言え、腕一本引き剥がすのも一苦労だ。だが、実際の問題はそうでは無い。
この状態から朝日が逃れるを拒む、最大の障壁が別に発生していた。
(ん、これって……?)
むにゅり。今、深夜子の両腕に抱かれた朝日の顔に、あるものが押し付けられている。
二つの、とても柔らかで、ほどよい弾力性がある物体。男としての本能をくすぐられてしまうそれ。
少し顔を動かせば、ふわりとした深夜子の匂いと肌の感触。同時に鼻の先へ、ツンと触れてしまう突起物。
これは――目が開けられない。朝日はごくりと唾を飲み込んだ。
(やっぱり、僕の目の前にあるのって……)
季節は冬だが、男性福祉対応の朝日家は暖房機能もばっちりである。
そう、昨晩と言うか早朝。深夜子はシャワーのあと、真っ裸で寝ていたのだった。
朝日は考える。自分たちを覆うのは、薄手の羽毛布団一枚のみ。
部屋の電気を付けている今、目を開ければきっと見えてしまうだろう。
いかに家族が母、姉二人と女性のみの環境で女子っぽく育っていたとは言えど、健全たる日本の男子高校生。
現在の状況は、理性と欲望にとてもよろしくない。
この世界に来てはや九ヶ月、朝日も色々と理解はしている。特に男女の違い。
仮に、深夜子のやわらかで弾力性のあるそれを、ふにふにしようと、むにむにしようと、お咎めなしだろう。
いやむしろ。喜ばれた上、ふにふにむにむにどころでは無いことをされてしまうだろう。
それでも、産まれ育った国で刷り込まれた常識が頭をよぎる。
とても気まずいし、良心の呵責も感じてしまう。
しかし、空気の入れ替わりも少なく。肌の密着感は、顔だけに留まらないこの空間。
蒸せる匂いと感触と温度に、なんだか脳内は気持ちよくぼやけてしまう。
それに深夜子は自分の好きな、比較してはいけないのだろうけど、三人の中で最も好意を、恋心を持ってしまった愛しい異性。
どうにも冷静さが失なわれていく。
『深夜子さん……』
いや、そうだ。自分は深夜子を起こすために来た。
これは仕方ないのだ。――我ながらなんとも情けない言い訳だな、と朝日は苦笑を漏らす。
そんな気持ちとは裏腹に、いつの間にか手のひらには、柔らかで弾力性のある手応えと質感が収まっていた。
『ね、起……きて、深夜子……さん……』
口にする言葉とは別に、むにゅ、と心地よい感触を堪能してしまう。
『ふにゃう……あしゃひ……きゅん。ふにゅ? ん……あっ』
本能的な満足感が朝日の脳内を駆けめぐる。
これが深夜子の、愛しい女性の……。
今度は顔を動かして……もっと、もっと、その感触を確かめたい。頬で、唇で、核心へと近づこうとしたその時――。
「朝日さまああああああああっ!?」
「ひいいいいっ!?」
ぶわっと羽毛布団が宙を舞った。
充満していた深夜子の匂いと、自分の吐息が混じりあった空気が雲散霧消する。
外気を取り込むと同時に、朝日の脳内はクリアになる。代わりに全身から冷や汗が流れ出て、身体が凍りついた。
今の自分の姿は、深夜子の胸の膨らみに手をかけ、欲望に突き動かされているオスそのもの。きっと言い訳のしようも無い痴態のはずだ。
五月に見られた? 朝日の心臓が跳ねる。
「朝日様? まさか、深夜子さんが……」
軽蔑される? 変態と、痴漢と、罵られてしまう?
冷静に考えれば、この世界ではあり得ないのだが、焦りに襲われマイナス思考が朝日を支配してしまう。
「あっ……あああああ……ご、ごめんなさい。ぼっ、僕、僕そんなつもりじゃ、ち、違っ、許して――」
「うおらああああああっ、深夜子! 朝日になんてことしてやがる。この痴女があっ!」
恥ずかしさと情けなさで、涙まじりの謝罪を口にしかけた朝日だったが、五月と同じく部屋に突撃してきた梅の絶叫がそれを遮る。
朝日のホールド状態を解除するのみならず、さらには深夜子を掴み上げ、豪快に宙へと放り投げた。
「ほへ? んにゃ……ふぎゃあああああっ!? ――あぶしっ! へぶうっ!」
哀れ深夜子は天井に激突することで強制覚醒。
何が起きたかも理解できぬまま、くるくると中空で回転して床をバウンドする羽目になった。
無論、全裸である。合掌。
「許し……あれ? ――うわっ!?」
一方、朝日も何が起きたか理解できていない。
しかし、ふと気づけば、顔を覆う何やら柔らかい感触。衣服ごしではあるが、深夜子とは違う圧倒的なボリューム感に包まれている。
「朝日様っ、ご無事でっ!? ああ、お可哀想に。こんなに、こんなに怯えてしまわれて……でも、もう大丈夫ですわ。貴方の五月はここにおりますわ!」
「え?」
そこは五月の胸元だった。慰めの言葉に合わせ、撫でられ、抱きしめられた。
恐る恐る顔を上げると、心配そうな顔を五月が向けてくる。
ああ、そうか――朝日は安堵すると共にチクリと胸が少し痛むのを感じた。
「深夜子さん。貴女と言う方は、温泉旅行の件で懲りてなかったのですかっ!」
「ええっ? あれ? え? 待って、あ、あたし何が……ん、五月……あれ、朝日君。何故ここに」
「問答無用だ深夜子! 全裸で二回目とか、懲りてないじゃすまねえぞこらあああああっ!」
床に転がり”?”マークを大量生産中の深夜子。そこに梅が飛び込みプロレス技を仕掛ける。
「何が? 何を? うええええ!? いつから夢がセクハラ対象に? 意味わかんない。梅ちゃ――って、ほぎゃああああああ!?」
梅の逆エビ固めが華麗に決まった。
「えっ、あっ、ちょっ!? 梅ちゃんストーーーップ! 五月さんも違う。違うよ。深夜子さんは寝ぼけてただけで、その、何も悪くないから」
――そこからは朝日家定番の日常。
もう幾度となく繰り返してきたドタバタ劇を演じつつ、四人の顔にはそれぞれ笑顔が浮かぶ。
そんな中で五月と梅は、朝日の笑顔を見て自分に言い聞かせる。
きっと問題はない。
やはり今はまだ、朝日の心が落ち着いていないだけだ。時間が解決するだろう。
その視線に深夜子も察したらしく、三人は目を合わせる。口に出す必要もない同じ気持ちを心に抱く『きっと朝日を幸せにしてみせる』と……。
◇◆◇
午後二時三十分。
珍しく朝日家正面口の呼び鈴が鳴り、五月が応答用のモニターへと向かう。
「今日はお母様がいらっしゃる訳もありませんし、一体なんの――ほあっ?」
なんとも間の抜けた声を五月は漏らしてしまった。それも致し方なし。
モニターの向こうに映っているのは、長羽織に道着袴姿の女性。しかも頭に被り笠である。
この訪問者は過去の世界からでもやって来たのか? いやいや、それよりも朝日家になんの用事が?
あまりの混乱に固まる五月であった。
「五月どしたの――うえっ!? か、母さん!」
「えっ、深夜子さんのお母さん?」
「へー、おばさん久しぶりだな……いやいや! ここに来るってどういうこった?」
三者三様の反応である。
どうしたものか? 的空気が部屋に漂うも、とりあえずは深夜子と五月が対応に出ることなった。
二人は玄関を出て、正面口に向かい扉を開ける。
そこには、思わず五月が息を飲むほど恐ろしく隙のない立ち姿。深夜子の母、朝焼子が被り笠を外して待っていた。
桜紋様が上品に刺繍された濃紺の長羽織と道着袴。母娘らしい深夜子と雰囲気の近い顔立ち。
そして、まるで虚空と思える切れ長の瞳が、静かに深夜子らへ向けられた。
「お久しぶりですね深夜子さん。それと、そちらのお方は?」
涼やかな声に、古風ながらも洗練された立ち振舞い。
その存在感に気圧される五月だが、ここでずいと深夜子が間に出る。
「いや、母さんちょっと待って。ここ男地だから。それにあたし仕事中」
珍しく深夜子が仕事をしている。
確かに娘である深夜子に会うと言う理由だけで、この『男性福祉対応居住地区』に入る事はできない。
少し感心する五月だが、本日もゲーム三昧で寝坊をかましてますよね? と心の中でツッコミを入れるのは忘れない。
「もちろん、六宝堂の姉様にお願いして許可は取ってあります」
そう言って朝焼子は、懐から和紙と思われる物を取り出した。
それには、達筆な筆文字で『男性在宅訪問御免状』と書いてある。
「いや、母さん……そういうの、IDカードで発行されるから……普通」
機械音痴は知っているが、それは無いだろうと呆れる深夜子。
しかし「そんなことはありません」と言い張る母から御免状なる書類、いや、書状を受け取って確認すること数分。
「なぬ……マジで……有効? ばあちゃは何故こんなのを」
「”あいでーかーど”だと扱いが難しいだろうと、姉様が気を使ってくださいました」
「確かに特例法にも記載が……歴史の教科書で見た記憶はありましたが、まさか……実物を取り扱う日が来るとは……思いませんでしたわ……」
タブレットで法令集と書状を照らし合わせ、なんとも言えない表情を五月が見せている。
「それでは、お邪魔をさせて貰いま――」
「待って。それより母さん、来るなら来るって言って。いきなりだと困る。家には朝――男性もいるから」
そう言われても、いまだ得心がいかない深夜子。
さらりと朝日家に入ろうとする朝焼子を引き留める。
「深夜子さん。母も時代の進歩はしかと存じています。これをご覧なさい」
すると、朝焼子が懐からごそごそとまた何かを取り出す。
そして手のひらサイズの長方形なそれを、時代劇でよく見る、悪玉たちが恐れいってしまう印籠の如く掲げた。
「実は”ぴいえちえす”なる携帯式電信通話機を購入しました」
少し嬉しそうである。
「はい? ピッチとかどこで契約したの? てか、まだあったの?」
「ですが、残念なことに移動途中で動かなくなってしまいました。これで連絡をするつもりでしたが、きっと不良品だったので――」
まったくこの母は! 話途中で朝焼子の手からPHSを奪い取り、深夜子はカチカチとチェックする。
「いや充電切れてるだけだから! 母さんこれ充電しなきゃ無理だから!」
「充電? ああ、”りもこん”と同様ですか。乾電池を入れ換えるのですね?」
母は知ってますよ的空気。
「だからああああああっ!」
と頭を抱える深夜子の肩に、そっと手が置かれる感触。
「深夜子さん、あまりお気に病まずに――」
「五月……」
「――充電が残っていても、そもそも電波が届くか怪しいですわ」
「そっちの話!?」
「とにかく、深夜子さん。今日は大切な話があって母は参りました」
しばしこの調子で押し問答が続くも、六宝堂弥生のお墨付きがある以上、法的問題は無しである。
そんなやり取りをしていると、三人に門の中から声がかかった。
「深夜子さん。お母さんが来られたんでしょ? お茶の準備もできてるから、中に入って貰ってよ」
梅を連れて、朝日が三人を呼びにやってきた。
――朝日家の客間。
朝焼子の希望もあり、最初は深夜子と二人きりで話をすることになった。と、言っても気になってしょうがない朝日ら三人。
こっそり廊下で聞き耳を立てている。
もちろん、古武術の達人である寝待母娘に気配は筒抜け。
しかし、朝焼子はさして気にしていない様子。廊下に目配せもせず、さらりと話を切り出した。
「深夜子さん。今日は貴女にお見合いの話を持ってきました」
「ふえ……お、見合い?」
『ええっ!?』『はいいっ!?』『なんだとぉ!?』
――運命の歯車が、その回転を加速しはじめた。




