#50 接吻
眼前の光景に、深夜子の思考は完全に停止した。
それから――三分が経過。
(――――ふおわあああああああ)ガツン! (ん゛お゛お゛っ―――――――)ヅゴン! (ふんぐぐぐぐぐぐぐぐ――――――)
本能か、直感か、深夜子は声を殺して耐え忍んだ。
例え動揺して足の小指を机の脚にぶつけ、悶絶して転がった先にあった柱の角で後頭部を打ち付けようともだ。
五月と梅を起こす行為をしてはいけない。
草影から獲物を狙う猛獣がそうするように、今は決して音を立てる時ではないのだ。
――ここから回復までわずか三十秒。気合いが違いますよ。
猛禽類のような目を爛々と輝かせ。しゃかしゃかと手足で地を這う魔物が――いや、深夜子が布団の前まで戻ってくる。
(んななななななな!? あ、朝日君!?)
布団の上をまじまじと見つめる。
そこにはすやすやと眠る朝日の圧倒的存在感。酔っているだとか、妄想の続きだとか、そんなチャチなものには断じて見えない!
深夜子は考える。
どうして朝日が自分の布団で眠っているのか? 実は夢を見ているのか?
それとも、朝日を愛するあまりに具現化系の能力に目覚めてしまったのか?
思案しつつ何気に部屋の右手側を見ると、朝日の寝ていた和室の襖が少し開いている。
左手側を見ると、風呂場横にあるトイレの扉から光が漏れている。
………………。
そんな些細なことはどうでも良い。
(うん。よし!)
深夜子の中で、これからどうするかが決定した。
まずは腰の帯をするりと外し、流れるように浴衣を脱ぎ捨てる。ついでにショーツも宙に舞う。
(これは朝日君が本物か調べざるを得ない)
――色々あるが、特に全裸になる必要性を深く問いたい。
もちろん、ここでの正解は決まっている。
トイレ帰りに寝ぼけて深夜子の布団にもぐり込んだ朝日を、王子様だっこ(※お姫様だっこ)して『やれやれだぜ』とボヤキながら布団まで運んでクールに去る。
まさに淑女の鑑。
しかし、深夜子はつい先ほどまで朝日と愛を育んでいた。妄想の中で。
故に限りなく理性は飛んでおり、自身でも歯止めが効かない。
あるのは朝日に対する狂おしくも愛しい感情のみ。吸い寄せられように顔を近づける。
月明かりに照らされる可愛い寝顔。
考えれば深夜子は、間近でじっくりと朝日の顔をながめるのは初めてだと思った。
髪の毛の生え際、眉毛、まつ毛、鼻の形、唇の形、耳の形、しっかりと記憶に刻む。
首筋から鎖骨、寝崩れて露になっている左肩。ああ、全てが愛らしい。
(触れる……かな)
言い訳を呟き、そっと右手で朝日の頬に触れ、撫でる。柔らかでとても心地よい。
ゆっくりと、下へ、下へとたどって右肩の浴衣に手がかかった。一呼吸置いて、それをずらす。いつの間にか深夜子の左手も左側で同じ動きを取っていた。
深夜子の眼前に、朝日の上半身がさらけ出された。
月明かりとは言え、いや、月明かりだからこそ肉感的に照らし出される。
深夜子の猛禽類のような瞳に映るのは、引き締まった胸板、自分の物とは比較にならない慎ましやかで可愛らしい桜色の突起。
あまりにも情欲的な視覚情報に網膜が、視神経が、そしてわずかに残った理性が焼き切れそうになる。
同時に、まるでもう一人の自分がいるかのように脳内に警告が響き渡った。
――Mapsの職務規定に抵触どころではない。明らかな性犯罪行為。今、深夜子は朝日をレイプしようとしている!
止まらなければ、止まるんじゃねぇぞ、いや止めなければ。
頭の中に不協和音がこだまする。
このまま突き進めば、間違いなく取り返しがつかない事になる。
朝日の浴衣をもとに戻すのだ。脳から必死にその指令を身体へと送った。
つもりだった――。
気がつけば、深夜子の唇は朝日の唇に重なっていた。
――あの時の感触が甦る。
とろりと全身が甘い感情に支配される。もう、何やら警告を発している深夜子の声は届かない。
二度、三度、唇を重ね、離して、軽く重ねる。
そして、深夜子の唇は朝日の首筋をつたい下へと――――その時「ん……、……さん……」朝日の口から寝言が漏れた。
(うひぃいいいいいいい!?)
朝日の側から、深夜子が弾け飛ぶ。
全身の血が逆流するとはこのことか。
今まで聞いたこともない大音量で、心音が身体中に響く。荒い鼻息を立てながら、深夜子は朝日へと視線を向ける。
「う……か、……さん。……母さん」
寝返りをうつ朝日から聞こえた一言。深夜子の身体から一気に血の気が引いてゆく。
さらに、嘘のように身体の火照りも醒めていった。
頭が冷静になり、心臓が痛む? いや違う心が痛む。
そうだ。思い出した。朝日との約束を、決して守ることができない約束を、今思い出した。
『でもいつか、絶対、元の世界に……ニッポンて国に、帰す』
深夜子は非番前に、Maps本部でよく徹夜作業をしていた。
それは定例業務ではない。矢地に頼み込んで、男性保護省のデータベースを使わせて貰っていたのだ――。
『深夜子……いい加減に諦めたらどうだ?』
『やだ』
『見ての通り上は何も隠しちゃあいない』
『まだわかんない』
『身体に毒だぞ。それに何故そこまでこだわる?』
『約束したから』
『何?』
『朝日君と約束したから、日本て国に帰す』
『だから、それが無理だと言っているのだ。あれは完全な超常現象、今の科学で再現はおろか説明すらできない。神崎君も理解はしているはずだ』
『うぐっ……』
『では……仮に彼が故郷に帰る方法が見つかったとして、良かった良かったで帰ってもらう。本当にそれでいいのか、深夜子?』
『………………』
『五月雨の報告書を見る限り、お前たちの関係は良好そ――』
『うっ、……ひぐっ、ひぐううううう……やだぁ、あしゃひくんと、おわかれはやだぁ……』
『はあぁ……お前もほんと難儀な奴だな……』
――深夜子は出来る限りの調査をした。努力をした。
しかし、朝日を元の世界に帰すための手がかりすら得られなかった。
当初は後ろめたさに押し潰されそうだったが、朝日と距離感が近づくにつれ、少しずつ考えが変わった。
その約束が守れないのなら、せめて朝日の笑顔を守ろう――そう心に誓ったのだ。
「きょ、今日はヤバかった」
限りなくアウトだった気もするが、とりあえず最悪の事態は回避できた。
いそいそと朝日の乱れた浴衣を整え、そっと抱き抱える。
大広間の常夜灯をつけ、それの明かりを頼りに、朝日を寝ていた和室の布団へと運ぶ。
…………ん? あれ? 何か忘れている気もする。
――が、今は朝日が最優先。
布団に寝かせ、枕を頭へと敷き、掛け布団を静かにかける。
「おやすみ……朝日君。ごめんね」
そう言って微笑みかけ、朝日の額におやすみのキスをする。
そっと襖を閉め……それでは自分の布団へと戻ろ――――。
「み、や、こ、さ、ん!!」
「ひぎいいいいいいっ!?」
そこに、鬼神の形相をした五月が待っていた。
「あばばばばば、あああああの……さ、五月?」
これは? 見られた?
いや、としても額におやすみのキスまでのはずだ。
「深夜子さん……貴女という人は……ついに、ついに、やってしまわれたのですね……?」
だのに向けられる五月の視線は、まるで床に散らばっている生ゴミをどう掃除しようかと考えている時のそれだ。
ついにやった? どういうことだ? 何かおかしい。
「ふぁっ!? ちょっ!? 五月なんか勘違いしてる?」
先の痴女未遂現場を見られたのならわかるが、それは無い。
「あっ、あの、寝ぼけてあたしの布団で寝てた朝日君を――――――あ」
全裸でした。
「問答無用ですわああああああっ!!」
怒りを通り越し、泣きながら五月が問い詰めてくる。
なんとか言い訳を、と頑張る深夜子だったが、なんせ苦手分野。
結局全てを露呈することになり、やっぱり五月に泣きながら説教され続け、夜は明けていった。
◇◆◇
――翌朝、大広間。
「え!? み、深夜子さん。な、何があったのかな? いや、それに五月さん、梅ちゃんまでそんな顔して……あれ? えっ?」
朝日の困惑も致し方なし。
三人ともがスーツ姿でMapsの腕章もつけた正装。しかも、神妙な面持ちで正座待機中である。
深夜子に至っては目を真っ赤にし、グズグズと半泣き状態。その横には旅行カバンが置いてある。
何か緊急の仕事でも? とにかく理解ができない。
「え、え……と……、その、み、深夜子さん?」
「あ、……あ、しゃひくん。……な、長い間、お、おしぇわになり……ま、ひ、た……う、う゛え゛え゛ぇえええ――――――っ!!」
土下座からの号泣ときた。
「おっ、お世話!? はあっ? ええっ? ちょっと待って全然意味わかんないんだけど!?」
ですよね。
そこから先は、泣きじゃくってまともに話ができない深夜子に代わり、五月が事の顛末を説明。
詳細は割愛するが、ざっくり言うと『昨晩の件はMaps的に完全アウトなので、深夜子は責任取って退職させます。今までお世話になりました』とのこと。
さらには『もし、それでも気が済まない場合は、チーム全員アウトもやむ無し。その時は、帰ってから自分と梅も責任取って退職します』まで話したところで五月も号泣開始。梅は下唇を噛んで目に涙をためている。
朝日としては……え? なんでここまで大事になってるの? 何がなんだかよくわからないんだけど? が率直な感想。
むしろ寝ぼけた自分が、深夜子の布団に入って寝ていたとか赤面ものだ。
今日は自分が大広間で寝ようと心に誓った。
それはともかく。
眼前の惨憺たる有様をなんとかしなければならない。
どう収めたものか、しばし考えてから朝日はゆっくりと口を開いた。
「そうだね……僕としては……深夜子さん一人の責任にするつもりは無いよ」
「「「――ッ!!」」」
深夜子ら三人の表情がこわばった。
”全員アウト”、最悪の結末に彼女らの脳内は絶望に支配される。
猛烈な緊迫感が漂う空気の中、五月が胸元で手を震わせながら声を振り絞る。
「あ、あさ、朝日様……そ、それはやは――――え?」
言葉を遮るように、そっと五月の肩に朝日の手が置かれた。
膝をついて身体の高さをあわせ、見つめ合う形となっている。
「うん。やっぱ三人いっしょじゃないとね!」
朝日は声のトーンをがらりと明るく変える。
――そして、そう言ったと同時に、五月の唇と朝日の唇が重なっていた。
「――――はっ? ふへっ……あっ、ああああああ朝日様? い、いいいいいいい今ぁ!?」
唇に手を当て、冷静さを失い取り乱す五月をよそに、梅の前へと移動する。
「次は梅ちゃんね」
「おっ、おい朝日っ!? お前どうしちまったんだ? 何を? ちょっ!? ――――んんっ」
あわてふためく梅にも遠慮なし。問答無用で抱きしめて、そのまま可愛い八重歯がのぞく唇を奪った。
突然のキスに、口から魂がはみ出んばかりの状態で放心する五月と梅。逆に何がなんやらで困惑する深夜子。
そんな三人が落ち着くのを待ってから、朝日は言い聞かせるように語り始めた。
「あのさ、ちょっと失敗したからって、僕に何も言わずに辞めるとか……言わないでよ。僕とみんなでは考え方とか常識とか、その……特に男女については全然違うって、わかってるから……だから、何かあったら話し合いしよって決めてたよね。まあ、寝てるところをいきなり襲われるのは……ちょっとだけど……はは」
「はうっ……面目ない……」
苦笑いの朝日に、深夜子がしゅんと縮こまる。
「ともかく、その……えと、今……突然キスしちゃって、ご、ごめんなさい。これで、みんな深夜子さんと同じだし……あの、全然問題ないってわけじゃ無いけど、僕は大丈夫だよ……うん。それに、僕は、……僕はいずれみんなと……か、家族になれればいいなって……思ってるから――」
「ふえっ!?」「はあっ!?」「あ、朝日様。今なんとっ!?」
爆弾発言。三者三様に驚愕して、凝固して、朝日を見つめる。
今ばかりは、五月の血走った目つきが深夜子より怖い。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。べ、別にすぐに、とか、もう決めた、とかじゃないからね! や、矢地さんや弥生おばあちゃんとも相談してるし、その、僕は、まだ早いと思うし……みんなともう少し――――ああっ、もう! そんな顔しないで! と、とにかく昨日の夜の事はもういいから、ちゃんとMapsの仕事もして、それから僕と温泉旅行を楽しむの! いいよね!?」
「「「はい」」」
顔を赤らめてそっぽを向く朝日に、残像が残る勢いで首を縦に振る三人であった。
それから――――五秒、十秒。
なんとも言えない沈黙が、実時間の十倍にも感じられる。
ここは誰かがうまく場の空気を調整するべき場面であろう。そこへ、冷静さを取り戻したらしい五月が一番手で切り出した。
「ま、ままままあ。ちょ、朝食前に皆さんで温かいお茶でもいただ――――熱ううううううううっ!」
電気ポットから熱湯を手に直撃させて五月悶絶。全然冷静ではなかった。
続いて梅が立ち上がる。
「そ、その、あれだ。朝日がいいっつってんだからよ。良かったじゃねえか深夜子! まあ、朝日もまだ子供なんだしよ。さ、ささささささっきの話は気にしなくてもいいぜ。んじゃよ、部屋の暖房が効きすぎでちっと暑いから、俺は少し外で涼んでくるわ」
と言って”ガラリ”と音をさせ、部屋から出ようとしたところで……。
「ちょっと梅ちゃん!? そこ窓だからっ! ここ八階だからっ!!」
朝日に引き止められた。
あたふたと部屋が騒がしくなること数分。
「――とにかくみんな落ち着こ、ね。もう少しで朝ごはんだから、そこまで動かず大人しくね」
これ以上変に行動をさせない方が良いと考え、朝日は待機を提案する。
そこでふと気づけば、深夜子だけが部屋の隅で微動だにせず無言のまま落ち込んでいた。
「……深夜子さん。まだ気にしてるの?」
朝日が声をかけつつ、そっと側に寄りそう。
「その……反省した」
「うん」
「もう絶対同じことしない」
「うん。そうだね」
「だから、その……」
「ん。どしたの?」
「五月と梅ちゃんみたいに――――あにょ、そにょ」
人は一度贅沢を覚えると後戻りできないものである。
「ぷっ、ほんと反省してるの?」
「し、してる。それはもう海よりも深く、今あたしの心は深海魚専門水族館」
「あはは、何それ? ……でもダメだよ。深夜子さんは僕が寝てる時にしちゃったんでしょ? 五月さんと梅ちゃんのはその代わりだから」
「うっ……それは……確かに」
「ねえ、いつまでも部屋の隅にいないでさ。みんなでお茶でも飲もうよ。ほら立って!」
深夜子の前に立って、朝日が手を差しのべると――――。
「あ、……う、うん――――む!?」
「「――――」」
「はい! じゃ、いこ」
「――ふえっ? あっ、う、うん。ふへ、ふへへへへへ」
その後、今度こそはと気を取り直して、テーブルを囲み朝食まで談笑をする四人。
――だったのだが、油断すると朝日の唇に視線が向いてしまい、悶々とする三人娘だった。




