表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者によって「純文学」という名前をつけられた作品たち

青蛙はもういない

作者: 檸檬 絵郎


挿絵(By みてみん)



 井蛙せいあ

 という言葉がある。井の中の蛙、といえばわかるだろうか。

 中学時代(私は東北の田舎で生まれ育ち、その地の中学校に通っていたのだが)、テレビゲームの得意な友人が、その腕前を自慢してきた。その友人は、私とはかなり仲のよいほうで、見る者によっては、「親友」といえたほどであったとも思うのだが、そんな彼でも、都市で暮らす私の従兄が、プロのゲーマーだということを知る由もなかった。

 井蛙、という言葉の認知度と、私の従兄がゲーマーだということの認知度とが原因で、

「俺ん右さ出るもんはいねえ」

 という彼のどや顔に対して私が発したジョーク、

「井蛙、うるせいあ」

 というものは、いとも簡単にスルーされてしまった。


 いや、そんな取るに足らない小話を書きたかったのではない。緑色の、つるつるとした背中の青蛙あおがえるを見て、ふとそのことを思い出した、という事実を、手始めとして語ったまでのことだ。

 大学が夏休みに入ると、田舎へ帰るのが約束だった。その地は、東京ではホームドアが要るなどと騒がれているこの時代に、線路があること自体、奇跡ともいえるようなところだった。

 杉林を抜け、小さな駅につく。駅舎は、日に焼けた白いペンキ塗りの建物で、そのみすぼらしいおめかしをみると、大学近くの小粋な喫茶店の壁を思い浮かべて、笑ってしまう(その店は、私の行きつけで、一杯のアイスティーを頼んでノートパソコンを開けば、小一時間は一人でも平気でいられるような場所だった)。去年や一昨年は、中学生の妹が出迎えてくれて、両親への挨拶もそこそこに、二人で遊びに行ったりもしたのだが、今年は何でも高校の部活動の合宿とかで、精神の若い兄は、ここでの唯一の遊び相手には恵まれなかった。

 大学三年というと、両親と将来の話でもしそうなものだが、私の場合、仙台にある伯父の工場で働くことが決まっていたため、特に話すこともなかった。

 今思えば、これまでの両親との会話は妹あってのもので、そう考えると、両親との繋がりの薄さはもちろん、妹への愛情さえも軽々しく思えてきて、少し悲しい気分にもなる。


 あまりに暇であったため、一人、散歩に出た。雲が出ていて、湿気もあったが、それでも心地よいくらいの日差しには恵まれた。赤いひなげしさえあれば、モネの絵にもなりそうな草原くさはらを抜け(私がモネの名を知ったのは、東京に出てからなのだが)、ほとんど水の涸れた小川の脇を歩き、時々、スマホをパシャリと鳴らす。今時はシャッター音を鳴らさない方法もあるらしいのだが、私にはその必要があるとも思えなかった。


 去年の帰郷のとき、父からこんな話を聞いた。

「昔は、落葉広葉樹が山ばおおってた。秋さなっと葉が落ちて、腐葉土という土んなってな、雨水溜めて、そいつが川の水んなって流れてきたんだ。したっけ、今は常緑樹で、なかなか葉が落ちねえから、水が来ねえんだ」

 脳裏に、かつて、まだ幼かった頃の妹と一緒に遊んだ、その川の水が浮かんだ。晴れた日、水の飛沫しぶきと、あどけない笑顔……、そのイメージが、ぼんやりと浮かんできた。

 父の話を聞いたとき、私には、川というと、荒川や隅田川、そして、高架の陰の日本橋川などがすでに身近な存在となっていた(日本橋には、気に入りの飲食店があった)。

 しかし、隣で遠くを見つめるように佇んでいた父や、去年はまだこの地の中学校に通っていた妹にとっては、川といえば、こういう小川が全てなのだろう。もしも妹が、幼い頃のこの川での思い出を覚えていたのなら、外へ出て、例えば、電車の窓から大きな河川が流れゆくのを見たとき、なんと思うことだろう。


 懐かしい、

 けれども、どこかおさまらない気持ちで、ひっそりとした故郷の自然を眺めていた私は、思いもかけず、小さな生き物の、瑞々みずみずしい姿を足許あしもとに見つけた。

 そいつは、草の陰から姿を現した。つるつるとした、その青蛙の背中は、皮を剥いた空豆のような、鮮やかな緑色をしていた。その美しさが、どういうわけか、私の心を笑わせた。

「こいつは光合成ができそうだ」

 心中にそう呟くと、不意に辺りが暗くなる。豊かな雲は、小生意気な中学生と違い、私の取るに足らないギャグを楽しむ術を心得ていたのであろう。少なくとも、そのときの私のおどけた風流心は、そう解釈した。


 東京の大学に通う私には、恋人はいなかった。が、恋人のような女性はいた(というのは、私の主観による認識がそうだというわけでもなく、恐らく、他の友人から見たらそう思えなくもない、という不思議な仲だったが、私はその友人たちの視線を密かに嬉しがってもいた)。彼女も、同じ大学に通う三年生である。

 例の喫茶店に初めて彼女を誘った日、あるいは、お決まりのアイスティーを飲みながら、モネの睡蓮について熱弁を振るった日から、半年ほどが経ったある金曜日のこと(その頃には、互いの物の好みなどは一通り伝えあっており、会話の種もだんだんと変わってきていたのだが)、大学近くを歩いていて、若い女性が連れ歩く小犬を見た彼女が、こんなことを言った。

「ペットになりたい」

 彼女の家は都内にあり、両親と一緒に暮らしているそうなのだが、トイプードルを一頭飼っているという。彼女のスマホにはたくさんの画像が保存してあり、私も以前に何度か見せてもらった。鮮やかな茶色い毛色で(レッドというらしいが)、耳には黄色いリボンをつけている、そんな可愛らしい小犬が、真っ白なソファに寝そべって、首だけ起こし、こちらを見つめている……、そんな画像を記憶している。

「ペットじゃ大学には通えないよ」

「だから羨ましいの」

「狭いよ、ペットの見る世界なんて。それこそ、あれだ、『うるせいあ』ってやつだよ」

 私の中学時代のギャグの話は、すでに彼女にも話してあった。

 彼女はそれ以上、何も言わなかったが、その週末、どういうわけか、彼女からの連絡が来なかった(その頃は、私ではなく、彼女のほうから、私のスマホに他愛ないメッセージを送ってくることが多かった)。後から思えば、あのときの彼女は、微笑みつつも、どこか切実な顔を見せていたような気もした。

 月曜日になり、大学へ行っても、彼女の姿は見かけなかった。私は妙な想像から、

「ペットになりたいって、俺の?」

 という、思い切ったメッセージを送ってみた。彼女からの返信は、案外すぐにきた。

「なわけないじゃん」

 括弧かっこ書きで、「わらい」という文字も添えられていた。

 その後、再び彼女とその話をすることはなかったが、ありがたいことに、彼女との不思議な仲は、今も続いている。


 降るか、

 いや、降らなかった。緑色のつるつるとした青蛙は、もうどこかへ行っていた。

 どこか、

 見つけ出すのは容易ではないけれど、このくさむらのどこかにいることは確かだろう。

 青蛙、叢、目の前の小川、そして、かつて遊んだ小川の記憶……、後ろには、ひなげしのない草原……、そういえば、ここでもよく、転げまわって遊んでいた……。ふと、こんな考えが頭に浮かんだ、

 モネの絵なんか、知らなくても良かった。

 思えば、東京に出てからの私は、色々なものを知ってしまった。荒川、隅田川、日本橋……、大学、小粋な喫茶店、お洒落なリボンをつけたトイプードル……、あの子も、そのうちに入るのだろうか……。

「蛙になりたい」

 心中に、そう呟いていた。あのつるつるとした青蛙に向けて、あるいは、この地の、ひっそりとした自然、全てに向けて。

 空が暗くなった。が、青蛙は出てこない。

 青蛙はもういない。

 何だ、結局、都合よく理解してくれる者なんていないじゃないか。笑おうともしたが、あのときの彼女の、切実な顔が思い浮かび、うまく笑えなかった。薄暗い雲の下、私は、もと来た道を戻っていった。


 東京に戻ってからも、ふと、田舎の青蛙の、つるつるとした緑色の背中を思い出すことがある。彼女にその話はしない。

 彼女は、鮮やかな色をしたメロンソーダをすすっていた。炭酸の泡が、ぷくぷくと浮き上がってくる。

 妙な気を起こした私は、こう、言ってみた。

「こいつは光合成ができそうだ」





ちなみに……、


「井蛙」と書いて「せいあ」と読むが、

「青蛙」と書いて「せいあ」とは読まない。



どうでもいいですね、ごめんなさい(笑)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品の作者は「こっちこっち〜(リンク)」と笑いかけています。
― 新着の感想 ―
[良い点] たまたま自分もみてみんに投稿してたタイミングで、記事を拝見しまして、飛んでまいりました。 長岡様のイラスト交換企画に参加している者です。 檸檬 絵郎さんは独特な絵を書かれているので、こう…
[良い点] 大学生という曖昧な年頃らしい心理が描かれた、とても不思議な作品でした。 文体や“私”の田舎や家族の描写からは少し古めかしい雰囲気がするのですがスマホやプロゲーマーという単語を見ると現代の大…
[良い点] 活動報告の方からお邪魔します( ´∀`) 青蛙の姿を見て、過去の出来事や女性との会話を思い返していく展開……まさに『純文学』って感じがしました! 語り手の知らぬところで、女性は何か辛い経…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ