ナローノベル
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検索エンジンにミニブログのアカウント名を叩き込む。表示された結果の一番上にあるリンクをクリックする。見慣れたミニブログの最新の投稿を確認する。もうしばらく更新されていない。そしてだれも見ていないだろう。ブラウザーの「戻る」ボタンを押して再び検索結果画面に遷移する。検索結果の三番目に小説投稿サイトのタイトルがあった。リンクを飛んでプロフィールを覗く。ユーザーの出身地と誕生日が書かれている。そのまま連載小説の一覧を見る。未完結のタイトルが一つある。
最初は返信の間隔を広くすることから始めた。一分、五分、十分、三十分、一時間、五時間、翌日、無視。一人を除いたグループチャットで遊びの約束を取り付ける。次の週、その一人の前で遊びの話をちらつかせて「どうして来なかったんだ?」とせせら笑う。少年は困ったような顔をしておどける。情けなく卑屈に引き下がるその姿に、仲間の一人が暴言を吐いた。彼は笑ったままだった。止めどきは失われてしまった。
☆
頭を蹴り飛ばすのに飽きたらしい。木川が自然な動作で僕の背中に腰を下ろした。
「ハンナちゃんのこと嫌いじゃないんだけど」
机と椅子の足、床と壁が見えるだけの視界に椎谷の上履きが見えた。それは僕の顔にゆっくりと近づいてくる。鼻先に触れ、そのまま潰すように踏み込んだ。
「偶像に対して嫌いじゃないとは何事だ」
「都合が良すぎると素直に好きになれん」
「あっ、ちょい分かるなそれ」
二人がアイドルの話をしている間にも、僕の鼻は潰されてゆく。涙で視界が滲んだところで、影が落ちてきた。少しだけ視線を上げると田宮が椎谷の隣で僕を見下している。
「それより椎谷君、見てみて。こいつ、君に踏まれて顔を真っ赤にしてるよ」
椎谷の足が僕の顔から離れた。「人の足で悦ぶな、変態」と吐き捨てられてもなお、僕は何一つ言い返すことができず、起き上がることもできない。田宮はしゃがんで僕の頬をぺちぺちと叩いた。
「あっ、なんか反抗的な目をしてる? してるよね。ちょっと、志藤。どうしちゃう?」
強張る僕の顔を見て、田宮は満足げに笑って立ち上がる。床に這いつくばったまま、僕は息をひそめて待っていた。彼の足音が近づいてくるのを。
「そうだな。昨日、スタンガンを作ってきたから、それを使おうか。今、持ってくるよ」
「なんでスタンガンを作ってるの?」
「田宮はなぜスタンガンを作らないんだ?」
二人の間に出来た不自然な間に割り込むように、木川がわざとらしく唸りだす。
「よく分かんねえけど、それ死なねえの?」
「大丈夫。今の作り方なら最悪でも傷が一生残るだけだ。どんなに電圧が高くても電流が小さいなら感電死とまではいかないから」
「志藤がそう言うならそうなんだろうなあ」
のんびりと答えながら、木川は僕の肩を上から押さえつけて膝で思い切りに体重を掛けた。椎谷が僕の右腕を踏み、田宮は腕を組んで笑っている。流れ作業のように、当然のように、処刑が始まろうとしている。
「痛かったら右手を挙げて。耐えられるまで、終わらないから」
僕は思う。
なんで生きているのか、わからない。
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なんで生きているのか、分からない。
ロジは誰に対してでもそう考える。自分に対しても、自分をいじめる彼らに対しても。
「おい、ロジ」
声を掛けられてロジが顔を上げると、ペットボトルの茶に口をつけているダニがいた。
「喉かわいてない? 飲む?」
別にいいよとロジが答える前に、ダニはペットボトルの口を差し出すふりをして、そのままロジの机に茶をこぼした。
机の上に置いていたロジのノートや教科書、開いていた文庫本が、お茶にひたって弱々しくふやけてゆく。
「ああ、ごめん。わざと」
直視しないように、ロジは上目でダニの表情を伺う。ダニの顔には自慢の大きな体で人を威圧し支配することに慣れた余裕がにじみ出ていた。
ロジはダニのことが嫌いだった。飄々と人を傷つけようとするその態度に、そう取り繕わねばやっていけないという、根っこの弱さが見えたからだ。
ポケットからハンカチを取り出そうとしたところで、突然、ロジは顔面に柔らかい布のようなものを押し当てられた。あまりに隙間なく押さえられたので、ロジは息ができなかった。
布越しに空気を吸おうとして、雑巾を押し当てられているのだとロジは知った。
視界がぱっと明るくなって、ロジの顔から雑巾が落ちた。雑巾はロジの机に一度引っかかって、そのまま床に滑り落ちた。
「なんて顔をしてるんだ。こっちはわざわざ持ってきてやったんだぞ!」
視線を上げてロジはカワを見た。カワは背の順で並ぶといつも先頭に来るほど背が低かったが、その瞳はぎらぎらとしていて、ころころと変わる表情で人をコントロールしていた。
ロジはカワのことが嫌いだった。ためらいもなく暴力を振るうその積極性に、劣等感とそれを拳でしか解決できない知性のなさを感じたからだ。
雑巾を拾い上げようと椅子に座ったまま床に手を伸ばしたところで、ロジの頭上から声が落ちてきた。
「カワに感謝しなよー、ロジ君。君の不潔な顔面を拭いてくれたんだから」
手に雑巾を掴んでロジは再び前を向く。机の脇に立っていたミヤがロジの顔を覗き込むようにして見下ろす。
「というかロジ君、本当に臭うかも。お風呂ちゃんと入ってる?」
いたずらっぽく笑うミヤの顔を見てロジは吐き気がした。ミヤはひょろひょろと長い細身だったが、いつもずる賢い目つきをしていて、人をいじめる時にいかにも友人と遊んでいるような雰囲気を出すのが得意だった。
ロジはミヤのことが嫌いだった。本来は他者を支配する側の人間でないと弁えるふりをして、決定的な行動から逃げる卑劣さに寒気がするからだ。
曲げて重ねた雑巾を濡れた机の上に被せる。たぷたぷと濡れた水を切るように手を動かす。じわじわとしみ込んで伝わるその冷たさにロジはぞっとする。それでもロジは机を拭くのに集中するふりをした。三人と目を合わせないように。
ふと、視線の圧が逸れて和らいだような気がしてロジは顔を上げた。三人もまたロジと同じ方向を見ていた。リーダーはロジの机を見て小さく頷いたのち、何も言わずにその場を去った。が、すぐに戻ってきた。その手に水筒を持って。
リーダーは水筒の蓋を開けながら、誰に向けるわけでもなく微笑んだ。
「みんなはやさしいな。ダニは喉が乾いているロジにお茶を分けてあげたんだろう。カワはお茶をこぼしてしまったロジに雑巾をもってきてやって、ミヤは哀れなロジに同情してあげた……」
その声色があまりにも穏やかなので、ロジはリーダーに顎を掴まれて顔を上に向けられてもなお、なぜその場に居なかったはずのリーダーが状況を把握しているのかに気を取られていた。
「こぼしてしまって残念だったね、ロジ。しかし水分補給は大切だ。今日はちょうど経口補水液を作ってきたんだ。だからロジ、口を開けて」
暗示に掛かったようにロジは口を開いた。
リーダーの目配せにカワがロジの背後に回って、頭が動かないように首と顎の間に腕を差し込んだ。その行為で全てを悟ったロジは口を閉じて顔を背けようとした。
諭すようにリーダーは言った。
「ロジ、いい子だから口を開けて」
観念するように。
最初はゆるく傾けられ静かに注がれていたそれが、だんだんと勢いを増して鋭く喉奥に刺さるのを、唇から垂れた液が顎に伝ってゆくのを、体が破裂寸前のようにぶるぶると震えるのを、それを外側から抑えようと首を絞める力が強くなるのを、それぞれ的確に捉えながらもなお、ロジにはリーダーの表情を理解できなかった。
大人びた顔立ちを崩してまで作られた、あどけない少女のような表情が純粋なる好奇心のむき出しだと至ったその瞬間、最後の一滴が喉の水たまりで跳ね上がる音を立てた。ロジは全てを吐き出すようにむせ返り、崩れるように椅子から転げ落ちた。
息継ぎをするように、または息継ぎを邪魔するように荒々しく吐いて飲み込むロジの頬に、つま先が押し付けられた。
「床に零れた分まで、すべて飲んでね。ロジ」
唇を押しのけて入ってきたそのつま先に、ロジはほぼ無意識のうちにしゃぶりつき、滴るゴム製の靴底に舌を這わせていた。
ロジはリーダーのことを嫌いになれなかった。
それゆえに、ロジはリーダーのことを一番憎んでいた。
☆
誰もいない堤防で僕はぽつんと立ち止まる。制服を着た女の子が河川敷で膝を抱えて座っている。小刻みに揺れるその細い背に近づき、僕はズボンからハンカチを取り出した。
「あの、これ、使いますか?」
彼女は顔を上げてきょとんとした顔をしていた。だけど驚くことではなかったはずだ。だって本当に誰にも見つかってほしくないなら、こんなところで泣かないはずだ。見つけてほしくてここで泣いていたくせに、想定外のことが起きたふりをするのは欺瞞だった。
彼女は手を伸ばしてハンカチを受け取った。手を伸ばした拍子に長袖シャツの袖がめくれて、彼女の白く細い手首と傷が見え、隠れた。
人のハンカチで鼻を噛む彼女の隣に腰を下ろす。川の向こうに並んでいる建物が、あまりにも密着して高くそびえたっていることに動悸がする。僕が死んだところで何にもならないだろう。「帆奈」僕は彼女の方を見た。
「私は真水帆奈……あなたは?」
「僕は……路地井……路地井ヨウキ」
彼女は僕の方を見なかった。ただ腫らした目でゆったりと流れる川を見ていた。僕もその視線に従うように川へと目を向ける。僕が溺れたところで誰も見つけられないだろう。
「溺死はやめたほうがいいよ。醜いから」
僕は立ち上がりそうになったが、彼女が僕の袖を掴んでいた。
「ハンカチ、返さなきゃ」
「返さなくていいし……溺死もまだ、しない」
「でも、何もしたくないって顔をしている」
死ぬ前に殺したい奴がいると告白した時、帆奈は驚かなかった。ただ頷いて「目を瞑って」とだけ言われた。僕は期待していなかったが、目を閉じた。こうやって世界の情報を受け入れ拒否する瞬間だけが僕の安息だった。ふと頬に息が触れた。虐待によって拳を固めることのできなくなった僕の右手を温もりがつつんだ。絡んだ指の、その爪先が僕の手のひらをくすぐって、そして、離れた。
「あなたは善い人だから、能力をあげる」
僕は目を開けなかった。その声が近くにある間は、僕は一人ではないと安堵していた。
「世界が善い人の思い通りになれば、世界は善に包まれる。そうでしょう?」
答えようとして目を開けた。辺りはすっかり暗くなり、帆奈はそこにいなかった。
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対岸より向こうに並ぶ建物が逆光で濃い影となって、堤防を歩くロジを圧迫した。桃色と薄い青が黒色に陵辱されたような雲の色でさえ、学校でいじめ抜かれて摩耗したロジの神経に障った。啼いているカラスの声についばまれる死肉を連想し、遠くで電車の走る音に血の飛び散る音を幻聴する。うつりこんだ夕闇に元の色を失った川の歩みを捉えて、ロジはリーダーから聞いた話を思い出した――すぐに発見されないでずっと水につかっている水死体は変色するばかりではなく、腐乱し、体の内側からどんどんと膨らんで悪臭を放つらしい。生きながらにして、とロジは路面の石を蹴り飛ばす。生きながらにして水死体であるようだ。人間であることを取り繕うための組織がどろどろと溶けて流されてゆく。もはやそれは人の形をしていない。だからたやすく汲みとられ捨てられてしまう。
濃厚な闇の中でほのかに朱色に照らされる輪郭を見つけてロジは立ちどまった。草に覆われた緩やかな斜面に誰かが座っている。ひっそりと背中を丸めて膝を抱えているようである。ロジはその背に近づく。制服のスカートに見えるそれが風を孕んでは受け流してはためく。さらにロジが踏み込む。すすりなく声が聞こえる。ロジはズボンのポケットからハンカチを取り出して、しまい、踵を返した。
☆
そうするしかないと僕は言い聞かせた。殺すしかないし殺されるしかない。あいつらが改心するなんてありえない。僕が死んでも、おもちゃを変えて同じことを繰り返すだろう。だからこの無意味な命を活かすんだ。価値のある人たちのために。そうしてはじめて、この生も報われる。勇敢な犠牲者という何かになって終われる。
少し遅れて入った教室は生徒たちのお喋りで満たされていた。僕が扉を開けた瞬間、ぴたりとその声は止んで、何事もなかったかのようにまた再開した。僕は騒がしさの中を通り抜けて、自席につこうとした。誰かが僕の肩を掴んだ。立ちどまる。「おい」椎谷の声だった。僕はゆっくりと振り向いた。「みんなの前でオナニーしといて、よく生きてられるな」僕は手に持っていた鉈を振りかざして椎谷の頭をかち割った。鈍い音と飛沫の鮮明な音が混ざる間に、椎谷の短い叫びがあった。ばたりと倒れた椎谷の背を踏んづけて自席に戻る。鉈から滴る血を新しく買ったハンカチで拭う。カワとミヤの方を眺める。彼らは顔面蒼白で僕と倒れた椎谷を交互に見ている。リーダーといえば近くの席の女子とお喋りをしている。僕は椎谷を殺した。その凶器も今、この手の中にある。しかし、みんなと変わらずにいつも通りに過ごしているリーダーの姿を盗み見るだけで、全てを投げ出して逃げたくなった。
これは、挨拶の言葉が精査されないことを模した能力だった。
当然のことだと思っていれば、当然のことだと即座に処理されるようになる。普段からいじめられている僕が鉈を持って教室に入ることも、椎谷が僕に殺されてしまうことも、みんなにはまったく想定の範囲内だった。
授業が始まっても、カワとミヤは落ち着かない様子で僕のことをちらちらと見ていた。リーダーは真面目そうな顔つきで黒板を見ていた。
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「この小説がさ。僕は、僕が、ばっかりで」
リーダーは携帯機器を操作して、小さな画面にぎっしりと詰め込まれた文章を見せた。映りこんだ教室の照明のせいで一部分が読めなかったが、ロジがそれを自分の小説だと認識するには十分だった。立ったまま硬直するロジを取り囲むようにして三人が囃し立てる。
「いじめっ子に復讐だなんてやるなあ、ロジ。でも頭のかち割り方のディテールが甘いんじゃね? 一度割られてみるか?」
「本名出さないでくれる? 普通そこ捻るよね。ばかなの、ロジ君?」
「いじめの描写と憎しみだけリアルだー」
己の左手で右手首を爪が食い込むほどに握って、ロジは俯いた。
「ああ、こんなの……暇つぶしで……そんな深い意味はなくて……だから……」
途中で詰まり、掠れて裏返るその声はだんだんと水分を含んで、ぼとぼとと床に伝うように落ちてゆく。カワは一歩だけロジから退いて、ミヤは抓ってやろうと伸ばした手をおろし、ダニはロジのわずかに上下する肩を見下ろした。紙製のコップにジュースを注いで飲み干すことは容易い。されどそのコップに一滴でも尿を零してしまったなら、いくら洗ったところでそのコップを使おうとは思わない。何をするにも怯えられる。信じてもらえない。許してもらえない。もう一生仲良くできない。殺すしかないし殺されるしかない。
「暇つぶしなんて言わないで、ロジ」
その言葉にはっとロジは顔を上げた。それを見てミヤは引きつったように笑う。まだ何かを期待しているよ。改心やハッピーエンドを。ここまでの文脈を把握していれば、そんなことありえないってわかるよ、普通。
「何かを作りだして、何かになりたいという気持ちは本当だったんだろう?」
こくこくと控えめに頷いて動くロジの顎を見ながらカワは欠伸をする。実はそこまで嫌いじゃなかったんだけどな。でも殴るのは楽しかった。反応が面白かったから。結局、そこが悪いんじゃねえのかな。そうやって縋るように、繋がりつづけようとするから。
二人の距離はほとんどなかった。リーダーの動く唇がロジの頬毛に触れた。リーダーはゆっくりと、徹る声で、告げた。
「現実の問題も解決できないで、何かになれると思ったのか」
ロジの唇が震え、言いかけて噛んだように、何にもならない音が漏れた。
日々は瞬く間に消費され、お気に入りのフォルダーが乱雑になってゆく。既にあふれかえっているのになおも増え続けるものたちをそっと見る。未だ完結していないもの、何年も更新が止まっているもの、新しく横に増えるだけ増えて縦に伸びないもの……それらは一度愛した物語のはずだった。
コンピューターにかじりつき、お気に入りから興味の失せたサイトを削除していたところで、その手はぴたりと止まった。
あらすじ。苛烈ないじめを受けていた少年が川のそばで出会った少女に与えられた不思議な能力によっていじめっ子に復讐する。未完。題名『ナローパス』。
故人の遺した物語をただひたすらに読みなぞる。
リンクを辿ってブックマークとコメントの数を確認し、その何もなさに突き当たる。
誰もが大事にしないために乱雑に扱うことが見逃されて、誰もが気にしないために中途半端なままで放置することが許された。
暇つぶしだと言ってそんなものに青春を費やしてしまった。
いつの間にか修正されていた作品紹介欄に目を通す。
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連載、やめます。
たとえ多くなくても、少なくても、一人でもいいから、
だれかに刺さってほしいと思ったものが、刺さらなかった。
きちんと完遂できなくてごめんなさい。
愛されるように表現できなくてごめんなさい。
何も与えられなくてごめんなさい。
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