表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

はえてる

作者: 園橋のぎ

「青木さん、これ並べといて」

「はい」

 言われて押し付けられたカゴの中身が目に入り、私は一瞬だが顔をしかめた。

 青果売り場のパートはレジ打ちよりも給料が良い。

 保育園の送り迎えの時間外で仕事が終わるところも大きな魅力だと思って選んだパート先だ。

 けれど、入ってから気づいたのは青果というくくりにはこれも含まれるのだということだった。

「気持ち悪い」

 誰にも聞かれないように小声で呟く。

 開店前のこの時間は皆忙しく、パートで入った主婦の言葉など誰も気に留めやしない。

「青木さん、早くして」

「はい」

 私は答えて、しめじの入ったカゴを持ち上げた。



◆◆◆


 物心ついたころから私はきのこが嫌いだった。

 他の野菜とは明らかに違う湿った手触り。

 冴えない、薄汚い茶色の見た目。

 地球上に生えているとは思えない奇妙な形。

 カビのような臭い。

 その何もかもが幼い私をぞっとさせた。


「あなた、昔庭の隅に茸が生えているのを見つけて、泣き叫んだのよ」


 台所に立った母が私に背中を向けたまま言う。

 まな板の上では、えのきがトントンと刻まれている。

 真っ白で、夏の日の下で干からびた糸ミミズのような、異様な臭いのする茸。

 無理矢理口に入れても泣きながら吐き出す私に、父も母も食べさせるのを諦めたが、それでも我が家の食卓に茸が上ることは絶えなかった。


「本当に茸が嫌いなのねぇ……誰に似たのかしら」


 緑の芝の間にあの茶色くぬめった頭を見た時の絶望感を、両親は知らないのだろう。


 私はその夜、こっそり庭に降りた。

 手には父がタバコを吸うときに使っていたライターを握っていた。

 月光の下、茸はおぞましい本性を剥き出しにして、黒々とそびえ立っていた。

 ぬらぬらと光って、醜い小人の背こぶのように盛り上がっていた。

 夏の土の匂いに混ざって、かびた匂いが私の鼻を突いた。

 私はパジャマのズボンの裾をまくりあげ、しゃがみこんでそれを睨みつけた。

 不細工な侵略者に侵され、そこだけ芝がやせ細っている気がした。

 わるいやつめ。

 ライターの火をともすと、闇の中で黄みを帯びた茶色の傘がぶるりと嗤った。

 わるいやつめ。

 わるいやつはやっつけてやる。

 私はライターの火を、化け物に近づけた。

 なぜ燃やそうと思ったのかは分からない。

 たぶん、頭には「お焚きあげ」のことがあったのだろう。

 或いは、兄が見ていたテレビの戦隊ものの影響で、悪は燃えるものだと思っていたのかもしれない。

 ゆらゆらと揺れる炎が茸の傘に触れた瞬間。

 ポン、と音がして傘が弾けた。そして。

 ぶわり。

 暗闇に胞子が広がったのが、炎の明かりで見えた。


「っ!」


 慌てて身を引いた拍子に、お尻が濡れた芝の上にどすんと落ちた。

 くちゅり、と尻の下で何かが潰れる感触がした。

 きのこだ。

 私には分かった。見なくても、ざわざわと総毛立った肌がそれを知っていた。

 きのこだ。

 さわってしまった。

 真っ暗闇の中、傘の弾けた茸が私を嘲った。


 さわったな。

 さわってしまったな。

 ほぅら、見てごらん。

 あのかあいそうな子を見てごらん。

 さわってしまったぞ。さわったぞ。

 いまに生えるぞ。

 しりから生えるぞ。

 指についた土から生えるぞ。

 太もものうらから生えるぞ。

 にょきにょき生えるぞ。

 ぞろぞろ生えるぞ。

 いまに生えてわれらになるぞ。

 茸になるぞ。

 茸になるぞ。


 私は逃げ出した。

 逃げて風呂場に駆け込んで、泣きながら体を洗った。

 茸の胞子を落とさなければ。

 早く落とさなければ茸になってしまう。

 何事かと起きてきた父と母に見つかっても、私は体を洗うことをやめなかった。

 ライターはとうに手放してしまっていた。



◆◆◆


 今思えば、良く火事にならなかったものだ。

 目の前で積み木で遊んでいるわが子を見ながら私は思う。

 あの後私はこっぴどく叱られた。夜中に外に出ていた、という罪で。

 なぜ夜中に外に出たのか、私は両親に話さなかった。

 それよりも身に迫った茸の恐怖の方が強かった。

 朝になったらあの茶色いものが生えているのだと怯えた。

 きっと、膝の裏の柔らかいところから皮膚を突き破って生えてくるのだ。

 夜中の内に私の血管の中を胞子が駆け巡り、肉の隙間を縫って生えてくるのだ。

 開いた傘が私の皮膚を覆いつくして、ごわごわのしわしわになってしまうのだ。

 そう固く信じていた。

 朝日の光の下で何も生えていないてのひらを見た時のほっとした気持ち。

 庭の茸は何故かどこにも見当たらなくなっていた。


「ママ、ママ」

 舌っ足らずの声で息子が私を呼び出したので、私は立ち上がっていって抱き上げる。

「どうしたの、ひー君」

「みてー、きのこー」

 ぞっとして、手を放しそうになる。

「……どこ?」

「これー」

 息子がむっちりと膨れた腕を私に突き出す。

 肘の内側の窪んだ部分。

 そこにポツリと1つ、小さな赤い点があった。

「ここ、きのこ」

「虫刺されじゃない……蚊かしら。ダニじゃないと良いけど」

 ここ裏野ハイツは築30年が経つ古い木造アパートの為、壁や床に隙間が出来つつある。

 1階にあるこの部屋も、この時期になるとムカデや毛虫などが入り込むことがあり、そのたびに夫が買ってきた殺虫剤で退治するのが私の役目だった。

 夫は道具は買っても退治はしてくれない。

 家の隅に追い詰め、丸めた新聞紙で叩き潰すのはいつも私だった。

「きのこ、かいかい。かいかい」

「はいはい、スーッしましょうね」

 むずがる息子をあやしながら、薬箱の中から取り出した虫刺され薬を塗ってやる。

 ひんやりする感覚が面白いのか、息子はきゃっきゃと笑いながら「きのこー」と手を叩いた。

「茸じゃなくて、かいかいでしょ」

「きのこ、かいかい。かいかい。きのこ」

 飽きたのか私の腕からぱっと抜け出し、また遊びに行ってしまう息子に溜息がこぼれる。

 大人しくて手のかからない良い子なのだが、やはり男の子のせいか行動が読めない時がある。

「……蚊取り線香、焚こうかしら」

 去年使った残りはどこにしまっただろう。

 台所の下の扉あたりだっただろうか。

 考えながら、私はふと思う。

 言われてみれば、虫刺されのあの膨らみは茸の傘に見えなくもないと。



◆◆◆


「虫が出たのよ。あの子が刺されて大変だったんだから」

「またか」

「あの子のアトピーが悪化しないか心配で……あなた、どうにかしてちょうだい」

「そう言われてもな……」

 夫は口の中で何かもごもごと言い、味噌汁を飲んだ。

 社内恋愛で結婚した5歳年上の夫はおっとりしていて優しいが、少し気の弱いところがある。

 寿退社するまで男性に交じってバリバリ働いていた私は正反対で、文字通り虫も殺せない人だ。

「除虫剤を入り口のところに撒いておこうか」

「それならもうしたわ」

「さすがだね」

 夫がへなりと眉を下げて笑う。

「わが子の為だもの」

「そうだねぇ……」

 洋室で眠っている息子を見て、夫がおっとりと笑う。

 夫は育児にも積極的で、息子の面倒をよく見てくれる良い人だ。

 産後は育休を取って、私の代わりに炊事や掃除、おむつ替えまでしてくれた。

 今は仕事に復帰したが、遅く帰ってきてもこうして息子の寝顔を確認する良き父だ。

「引っ越そうか」

「え」

 急な夫の言葉に私は戸惑った。

「引っ越しって……」

「この子がいずれ大きくなったら、この部屋も手狭になる」

 箸を片手に持ったまま、夫は何でもないことのように言った。

「虫が出るなら、虫の出ない所に引っ越せば良いんだよ……その、マンションとかに」

「でも、2階のおばあちゃんもひー君に良くしてくれているし」

「うん」

「お隣の方は見かけないけど……101の方だって感じの良い方だし」

「うん」

「今のパート先にも近いし」

「そうだね」

「それにこんなに安い部屋、この辺じゃ他には無いわよ」

「そうだね」

「家族3人が暮らせる広さだと10万は下らないわよ。これから色々出費が続くのに」

「うん……うん、そうだね、君の言うとおりだ」

 やっぱりさっきのは忘れて。

 そう言った夫に私は言い過ぎたことを悟って口をつぐんだ。

 引っ越せるものならば私だって引っ越したい。

 でも、我が家にそんな余裕はない。

 電灯の傘が味噌汁の表面に映って、不格好な茸のように見えた。



◆◆◆


 6月になって息子が痒みを訴えることが増えた。

 まだ殆ど日に焼けていない白い肌の上にぽつん、ぽつんと赤く膨らみが出来る。

 そのたびに私は虫刺され用の薬を塗っているのだが、あまり効果が無いのか、少し時間が経つとまた痒みを訴えてくる。

 息子は幼児の頃アトピー性皮膚炎にかかったことがあって肌が弱い。

 だから、掻き毟らないようにさせているのだが、気が付くと肌を掻いている。

「ママ、きのこ、きのこ」

「静かにしなさい」

 そして、虫刺されを茸と呼ぶ。

 何度教えても直らない。

 私はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。

 いっそ病院に連れてゆこうか。

 先生なら何かいい薬を出してくれるかもしれない。

 子供のうちからあまり薬に頼るのは良くないようで、気は進まないけれど。

「ママ、きのこ」

「茸じゃないって言ってるでしょ」

 振り上げかけた手をはっとして止める。

 いけない。落ち着かないと。

 怯えた顔をしている息子を、膝をついて抱きしめる。

「ごめんね、ひー君。ママ怖かったね」

「ママ、おこってない」

「ええ、怒ってないわ。さ、スーッしましょうね」

 液体薬を塗った息子の腕はてらてらと光り、ぷつぷつと赤く腫れている。

 群生した茸の傘のようで気味が悪い。

 この数はちょっと異常だ。

「ひ―君。明日、お医者さんに行こうか」

「や」

「でも、かいかいでしょ」

「きのこ、かいかい」

「お医者様に行ったら、かいかいが無い無いになるよ」

「ないない」

「そ、ないないできるよ」

 明日診療所は空いていただろうか。

 私は息子をあやしながら、片手をスマートフォンに伸ばした。


◆◆◆


 医者の見立てでは、息子の腫れは虫刺されによるものとのことだった。

「家に虫を入れないようになんて言われても……」

 このアパートに一体いくつの隙間があると思っているのだろう。

 私たちの部屋の隙間をすべてふさげたとしても、上や隣から入ってくるかもしれない。 

「本当、引っ越そうかしら……」

 そういえば夫は何を言いかけていたのだろう。

 もしかしたら、何か引っ越しの当てがあったのかもしれない。

 帰ったら来たら聞いてみよう。

 そう思いながら私は玄関で息子の靴を脱がせ、パンプスを脱ごうとしてふと足を止めた。

 コンクリートの三和土の隅、木の板壁にぷつぷつと虫の卵のようなものが付いていた。

 赤みがかったオレンジ色の、直径1mmにも満たない粒。

 不透明なトビコに似ている。

「やだ……何これ」

 もしかしたら、息子の虫刺されの原因になっている虫の卵かもしれない。

 私は顔をしかめて息子を台所の床に下ろすと、夫の工具箱をから出してきたヘラでその虫の卵のような物を板の表面ごと削り取った。

 ビニール袋にそれを投げ込み、口を縛って生ゴミ入れに捨てる。

「ああ、気持ち悪い」

 また卵を産みに来ないように、あそこには念入りに殺虫剤を吹き付けておこう。

 鳥肌の浮いた腕をさすって、私は工具箱にヘラを押し込んだ。



◆◆◆


「それで、あとで調べたらそれがなんとね、驚いたのよお」

 パート先では田中さんが大きな声で喋っている。

 私よりパート歴は長いが、仕事は私の方が早い。

 喋ってばかりで、手を動かさないせいだ。

 彼女の話には誰も耳を傾けていないのに、そんなことは気にしないのか喋り続ける。

「虫の卵かと思ってたんだけど、これが実は茸だったのよね」

 「茸」の単語に息が止まる。

「それって、どんな奴」

「それがね、ちっちゃくてブツブツしていたから卵だと思ったのよ」

「色は」

「赤、いや橙かしら。裏に置いてた板にびっしり生えちゃってね。もー、びっくりよ」

 あれも茸だったのねぇと呑気な声が言う。

 茸。

 板に生える茸。

 木の板に生えていた茸。

「本当に小さかったから、茸とは思わなかったのよ」

 ほほほと何がおかしいのか彼女は笑う。

「だってねぇ、本当に小さかったのよ。まるで虫刺されみたいにポチッ、って」



◆◆◆


 私は家に走って帰った。

 ドアをこじ開け、玄関の脇の板壁を見る。

 昨日削った跡が線になって浮いている。

 ここじゃない。

 裏だ。

 私はパンプスを脱ぎ散らかして、大股に夫の工具箱に歩み寄った。

 一番大きなマイナスドライバーをひっ掴み、戻る。

「ママ、きのこ、きのこ、かいかい」

「後にして!」

 怒鳴られて息子が黙り込む。

 今は構ってられない。

 早く、確かめなきゃ

 削った板と板の隙間にドライバーの先を押し込み、ぐっと剥がすように力を加える。

 ぎしりと板壁が鳴って、隙間からぽろぽろと何かがコンクリートの土間に転がった。

 赤い、小さな、虫刺されみたいな粒。

「っ」

 もう一度体重をかけて、ドライバーを押し込む。

 バリバリっと音がして、板壁の端がめくれ上がった。

「嗚呼」

 びっしりと。

 みっしりと。

 そこには私の憎むべき敵がひしめいていた。

「居た……」

 茸だ。

 茸が私の家に。

 茸に私の家が侵される。

 茸に私の息子が冒される。

 早く、駆除しなければ。

「ママぁ」

「ひ―君、大人しくしてなさい。ママはね、茸をやっつけなきゃいけないの」

「きのこ。きのこ、かいかい」

「そっちは虫刺されでしょう、黙ってなさいっ」

 私の剣幕に驚いて、息子は一瞬黙り込むとわっと泣き出した。

 その泣き声に私は我に返り、ドライバーを手放して慌てて息子を抱き上げる。

「ご、ごめんねひ―君。泣かないで。どうしたの、どこが痒いの」

「マ、ママ……おててのきのこ……」

「そ、手が痒いの。見せてちょうだい」

 泣いている息子を慰めながら私は差し出された手に目をやり、


「……えっ」


 水疱のように膨らんだ赤い傘。


「何、これ」

「ママ、きのこ、かいかい」


 思わず伸ばした私の指先にも、ポツリと赤い膨らみが。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] はえてる!はえてる!((;゜Д゜)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ