第四話
「最後は大した事ない相手だったな」
本日三度目の試合、『巨鬼三兄弟』との対戦を終えて、ロードはようやく舞台を後にすることができた。
巨鬼とは巨人系の魔物で、粘土の像をぐにゃりと捻じ曲げたように醜く歪んだ容姿と、人間の三倍以上に及ぶ体格を持つ。漆黒の鎧蛇のような一点ものではなく、代えの効く兵力として"量産"されている魔物の一種だ。
特殊な能力は何も持たない魔物だが、その巨体と怪力だけでもちっぽけな人間には十分すぎる脅威となる。それが同時に三体ともなれば、普通は"大した事ない"と言える相手ではない。
並の剣闘士ならば一戦でも悲鳴を上げるか、死を覚悟するような対戦カードを立て続けに三つも組まされた彼だが、その表情は発する言葉同様に気楽なものだった。
だが、精神が健常であったとしても、肉体の方はそうもいかない。彼の身体からは滝のように汗が流れ、散々に酷使された腕や脚の筋肉は軽い痙攣を起こしているのが見て取れる。
どれだけ超人的な技量を発揮しようとも、ロードはただの人間であって、魔物でも機械でもない。戦いによる負荷は確実にその身を苛んでいる。
むしろ、これだけの疲労を身体に溜め込んでいながら、彼が平然としている事こそが異常と言えた。
「アンジュの剣に、巨鬼の拳……重い武器を捌くときの動きに無駄が出来てたな。調整しなおしておかねぇと」
しかも彼は、この上さらに容赦なく身体を酷使する鍛錬を行う気でいた。
まるで、疲れを感じる機能が壊れてしまっているかのように。
◆
闘技場に隣接する地区に建てられた、剣闘士用の集合住宅――通称、剣闘士の宿。
複数ある宿の中でも比較的新しい建物の一室が、ロードの住まいだった。
住まいと言っても、彼がこの場所に帰ってくることはあまり無い。闘技場の敷地内にいる時間の方が長いくらいである。
一人暮らしの上にそんな有様なので、気まぐれに帰ってみても生活感のない殺風景な部屋が広がっているだけなのだが――
「あ、おかえり」
扉を開けると、今日はなぜか先客がいた。
「……何しに来た、アンジュ」
「いつもの。だいどころ、かりてる」
台所に立つ銀髪の少女に、ロードは呆れた顔で声をかける。対する少女――アンジュは、普段と変わらない無表情である。
汗を拭い、小ざっぱりとした部屋着に着替えた少女の姿は、とても剣闘士とは思えない。
そんな彼女が若い男の部屋に勝手に上がっているのは別の問題がある気がするが、アンジュは平然としたものだし、ロードにも呆れこそすれそれを咎めるような態度ではなかった。
いつもの、と彼女が言ったように、アンジュがロードの部屋に来るのは初めてではない。
彼女の宿泊所はこの宿とは違い、食事は自分で作らなくても用意されるのだが、「たまには、じぶんでもつくりたい」と主張するアンジュは、そういう時にロードの部屋まで台所を借りに来る。
おおよそ週に一度くらいの頻度で、彼女がロードの部屋にお邪魔する時と、ロードが部屋に帰ってくる日がなぜか重なるのだった。
「ロードのぶんも、ちゃんとある、から」
「……別に頼んでないんだがな、いつも」
こんな日は、アンジュが当たり前のように二人分の食事を作っているのも、いつものことである。ロードのささやかな反論も、彼女はまったく意に介さない。
「ごはん、なんにちたべてない?」
「……四日くらい」
「あほう。ロードの、あほう」
むしろ反撃を食らって、無機質な声で罵倒される。
アンジュからすれば、放っておけば食事も休息も忘れて戦い続けるこの青年に、文句のひとつでも言ってやりたい気持ちである。
見るに見かねた彼女が理由をつけて彼の食事を作るようになって以来、文句を言ったところで改善される気配がないのは分かっているのだが。
「もう、できたから。はやく、たべよう」
軽い諦念を抱えつつ、料理を終えて台所から戻ってきたアンジュは、ことん、とテーブルの中央に鍋を置く。その中は様々な野菜をじっくりと煮込んだスープで満たされている。
それと一緒に二人分の皿も用意して、なみなみとスープを注ぐと、アンジュはその一方をずいっとロードへ突き出した。
やれやれと首を振って、ロードはスープを受け取って椅子に座る。剣を取っての戦いならともかく、それ以外の事で自分がこの少女に敵わないのは、彼もよく分かっていた。
鍋を中心に向かい合う形で二人は席につく。食前の祈りを捧げる神も信仰も持ち合わせていない彼らは、そのまま無言で木製の匙を手に取り、スープを口に運ぶ。
「たべたら、きょうはもう、やすむこと。からだ、こわれるから」
「壊れないさ、俺は」
「こわれ、るの。ロードだって、にんげん、なんだから」
本人に自覚がないだけで、ロードの身体はとっくに悲鳴をあげている。今日一晩を休息に費やしたとしても、明日に快復しているかは怪しかった。
それでも彼は戦い続ける事を望んでいるし、同時に彼を取り巻く環境も、彼が戦うことを望んでいる。
だから、そのために彼のコンディションを最低限でも維持できるよう、アンジュは誰に頼まれる事もなく、それを自分の務めとしていた。
「……ロードは、けんをふりまわす、いがい、ぜんぜんだめだめ、なんだから」
「何だよ。心配してるのか?」
「しちゃ、だめなの?」
鈴の音のような少女の声に、微かに拗ねたような響きが加わる。
「ついさっき、本気でこっちを一刀両断しようとしてた奴に言われてもな」
「それは、おたがい、さま。もうすこしで、くびをはねられる、ところだった」
「惜しかったな」
「ひどい、よ、もう」
じっ、と二人の視線が睨みあうように交錯し――それからくすり、と同時に笑みを浮かべた。
「もうなんかい、こんなやりとり、した?」
「さぁな。もう数え切れないほど言い合ったな」
「しんぽ、ないね、わたしたち」
「剣闘士らしい腐れ縁だろう?」
「うん。きずな、だね」
静かに微笑む少女と、皮肉げに笑う青年。
自分達をヒトデナシと称する、二人の剣闘士。
彼らの間には言葉では言い表せない、しかし確かな絆があった。
恋人のようでもあり、宿敵のようでもあり。その曖昧さが自分達にとって一番良い距離感なのだと、二人は言葉に出すまでもなく悟っていたのだった。
「じゃあ、これ食い終わったら一勝負付き合えよ。これも絆だろ?」
「だから、やすまなきゃだめ、って」
「少しだけだ。お前の最後の一撃、あれを捌いた時の手応えが納得いかないんだよな」
「……もう。ロードの、あほう」
骨の髄まで戦いの事しか考えていない発言に、深い溜息がアンジュの口から漏れる。
本当に、彼は何を言っても変わらない。
「ぜんぶ、たべてからね」
「よし」
満足げに笑って、ロードは食事を再開する。小さく肩をすくめ、それでもどこか満足そうにそれを見て、アンジュは手に持った木の匙をくるりと回す。
剣闘士二人の食卓は、こうして平穏に過ぎていった。