第一話
『お集まりの紳士淑女の皆様、お待たせしました!』
帝都の円形闘技場に、実況者の大音声が響き渡る。
闘技場の観客席を埋め尽くすのは、身分も年代も性別も異なる人、人、人。
貴族がいる。浮浪者がいる。老人がいる。子供がいる。男も、女も、ここに集まった者は皆、あるものを見るためにここに来た。
彼らが求めるのは闘争と破壊、流血と死。闘技場の住人が繰り広げる命懸けの戦いだ。
獰猛なる魔物の、哀れなる剣奴の、そして勇壮なる剣闘士の戦いを見るために、彼らはここにやって来たのだ。
そして今また、新たな戦いの宴の幕が開かれようとしていた。
『これより始まりますは本日の大一番!当闘技場でも指折りの剣闘士二人による、一対一の決闘でございます!』
その言葉で観客の歓声のボリュームが一段と大きく膨れ上がる。
いいぞ! やれ! 戦え! と叫ぶ人々の声が、闘技場を熱気で包み込んでいく。
そして、今日の主役である二人の剣闘士が、闘技場の舞台に姿を現す。
『東からは、遥か北方の地からやってきた、人と妖精の混血児!大地の妖精ドヴェルグが鍛えた武具を身に纏い、立ち塞がる者全てを切り伏せる美しき戦士!"妖精剣"アンジュの登場です!!』
東門から現れたのは、まだ少女と呼ぶべき年頃の若い女だった。
純白の全身鎧を身に纏うその姿は騎士か姫のように清廉で美しく、だがその手に握られているのは、少女自身の身の丈をも上回る、無骨で巨大な片刃剣である。
そして鎧から唯一露出したその顔立ちは、まるで名工が手がけた人形のように美しい。
北方の雪原のように滑らかで透き通った白い肌に、腰まで届く長く艶やかな白銀の髪。妖精の血を引くことを示す僅かに尖った耳も、深い紫の瞳も、すらりとした鼻梁も、淡い桜色の唇も、全てが完全な比率で調和が取れている。
血生臭い闘技場の只中において浮世離れして見えるほどのその美少女は、特に男の観客の注目と歓声をおおいに集めていた。
『西からは、闘技場最強の一角とも名高いあの男!幾百幾千の魔物を屠り、剣闘士を討ち、愛剣一本のみを頼りに"竜殺し"を成し遂げた伝説の男。"水晶剣"ロードの登場です!!』
対する西門から現れたのはこちらも若い、二十歳ほどと思しき男だった。
くすんだ赤色の髪に、刃のように鋭い目つきの黒い瞳。細身だが、その体躯は極限まで鍛え上げられているのが分かる。
全身鎧を纏う少女とは対照的に、彼は防具と呼べるものを一切装備していなかった。兜や胸当てすら身につけず、闇に溶けるような漆黒の衣装のみを纏っている。
そして、あるいは彼自身よりも観客の目を引くのは、その手に握られた一振りの剣。刀身から柄に至る全てがまったく同じ材質から作り出された、透明な両刃の長剣。太陽の光を浴びたそれは、まるで氷のように怜悧で鋭い輝きを放っている。
彼が姿を現した瞬間に、闘技場を揺るがすほどの歓声が沸き上がった。
『この帝都闘技場が誇る二本の剣!二人はこれまでも名勝負を繰り広げた好敵手であり、"水晶剣"は"妖精剣"の剣の師匠でもあります。今日こそ"妖精剣"は師を越えられるのか、それとも"水晶剣"が師の意地を見せるのか!?』
実況の煽り文句を受けて、観客席のボルテージが更に上昇する。今にも爆発しそうな熱気を抱えて、観客達は舞台の二人を注視する。
一方の少女と青年は、実況にも観客の声援にも耳を貸すことなく、無言のまま剣を構える。他の一切を無視して、ただ相手の一挙手一投足を見逃すまいとしている。
そこには師弟などといった関係性を思わせるものは無く、無音にして大気を震わせるかのような殺意の応酬のみがあった。
『それでは、試合ぃ……開始っ!!!』
そして開幕の号令が鳴り響いた瞬間、両者の間にあった距離はゼロとなる。
飛び込んだのは少女だった。常人の目では追えないほどの速度で大地を疾走し、大剣を両手で大きく振りかぶる。重厚な全身鎧を身につけているとは思えない動きであった。
迎え撃つ形となった青年は、少女が大剣を振り下ろすタイミングに合わせて自らの長剣を振るう。二つの刃が触れ合う瞬間、観客は皆、男の剣が少女の大剣にへし折られる様を幻視した。
鉄塊の如き大剣と、装飾品のような水晶の剣。その二つが正面からぶつかり合えばどのような結果になるかは、火を見るよりも明らかと思われた。
だが、現実は彼らの想像を裏切る。刃が交わる硬質な音が響いた次の瞬間、水晶の剣は無傷のままそこにあり、大剣はその斬撃の軌道を大きく逸らし、屠るべき相手に傷一つつけることができなかった。
何のことはない。青年はただ、自らの剣で相手の剣を受け流しただけだ。だが一体誰が速度の乗った重量武器の一撃を、ただの長剣で真っ向から受け流そうと考える?仮に考えたとしても、それを成し遂げる技量を持つ者はいるのか?
命知らずの剣闘士達の中にもそんな愚か者はいない。ただ一人、この男を除いては。
「……」
渾身の初撃を外した少女は、無言のまま即座に一度振り下ろした剣を引き上げる。まるで武器の重さを感じていないかのような軽快な取り回しである。
その表情には、驚きや動揺といった変化は全くない。まるで本物の人形のように、少女の顔からは一切の感情を読み取ることができない。
対する青年の顔には、僅かに笑みが浮かんでいた。それは好意的な要素をまるで含まない、威嚇するかのような攻撃的な笑顔だった。
少女と青年が示し合わせたかのように剣を構えなおした次の瞬間から、戦いは乱打戦へと突入した。
少女が大剣を短剣のように縦に横にと目にも止まらぬ連撃を放てば、青年はその全てを自らの剣によって受け流す。
彼は相手の攻撃全てを"防御"し、一度として"回避"を行わない。その姿は酔狂を通り越して異常であった。
一見すれば少女が一方的に押しているようにも見えるが、青年もまた受け流しの直後、相手に生まれた隙を突いて鋭い斬撃を幾つも繰り出している。そして少女はある時は鎧の装甲で刃を逸らすことで、またある時は機敏に体を捻り、ステップを踏むことで"回避"していた。
彼女の動きもまた、全身鎧という鈍重な"枷"を身につけている者としては、本来ありえないものであった。
人外の攻防を繰り広げる二人を、観客は歓声を上げるのも忘れて息を呑んで見守る。静まり返った闘技場に、剣のぶつかり合う音だけが響く。
いつ終わるとも知れない斬撃の嵐の中、新たな動きを見せたのは再び少女の側だった。
彼我の武器の間合いを見切り、相手を寄せ付けぬよう距離を保ち始めたのだ。当然、意図に気付いた青年は間合いを詰めようとするが、攻撃よりも牽制を重視して振るわれるようになった少女の大剣は、高く分厚い刃の防壁となって接近を阻む。
大剣の破壊力を想像すれば、牽制を無視して迂闊に踏み込むこともできない。それが分かっているからこそ、青年は不利な距離からの迎撃を強いられる事となる。そして少女も己の優位に気を緩めることなく、じっくりと相手を追い詰めていく。
その光景は決して退屈で単調なものではなかった。縦横無尽に繰り出される斬撃、そして二人の剣闘士の間に満ちる、張り詰めた糸のような殺気と緊迫感に、全ての観客が圧倒されていた。
とはいえこの時点で、"妖精剣"が大きなミスをしなければ、普通の勝負なら決着はついたと言えるだろう。
だが、"水晶剣"は武器の差や、堅実な戦法だけで勝利できるような相手ではない。
何百、あるいは何千という数の斬撃を受け流しながら、彼はじっとチャンスを待っていた。防戦一方の状況から十分が過ぎ、二十分が過ぎても、彼は待ち続けた。
青年は少女を間合いに捉えることができない。だが少女もまた、青年の防御を突き崩すことがどうしてもできなかった。傍から見れば、一体どちらが攻めあぐねているのか分からぬほどに。
"受け流し"という動作には、ただ避けるより体力も集中力も消耗する。一度でも受け損なえば良くて重傷、悪くて即死の斬撃を受け続けておきながら、青年の気力はまるで尽きる様子がない。
この事態に、それまで無表情であった少女はかすかに眉をひそめながらも攻撃を続け――三十分以上が経過してついに、綻びが生じる。だが、それは青年にではなく、少女の側にであった。
息もつかせぬ程の連撃を安まず放ち続ける事もまた、心身に凄まじい負荷を与える。その時彼女が放ったのは、軌道、踏み込み、速度、その全てが他の攻撃よりほんの僅かに、しかし確かに"甘く"なった一撃。
彼の目は瞬時にそれを見抜き、剣を持つ手に力を込める。最適のタイミング、軌跡、力加減を見計らい、刃に神経が通っているかのような集中力で、少女の失策の一撃を切り払う。
次の瞬間、青年の剣が大剣を弾き上げ、少女の身体が反動でバランスを崩す。硝子球のようだった少女の瞳が驚きに大きく見開かれた時、青年はすでに距離を詰めていた。
それはたった一歩分の距離。
だが、それは彼と敵対する者の生死を分ける一歩である。
「っ!」
こちらの体制を崩した上で、間合いに入られた。決死の状況下だが、"妖精剣"はまだ勝負を諦めてはいなかった。
弾き上げられた大剣を自らの頭上でぴたりと止め、そのまま振り下ろす。体制を崩し、踏み込みも甘いままに放たれたそれは、本来ならばありえないほどの速度と威力をもって青年の脳天へと迫る。
命中すれば身体ごと真っ二つになることは必至――だが、その刃が青年へと届くことはなかった。
彼が防御したのではない。刃が青年の肉体に届く寸前で、少女の剣がぴたりと止まってしまったのだ。
そして、対する青年の剣は――少女の喉元に、ぴたりとその切っ先を突きつけていた。
しぃん……とした静寂が一瞬、闘技場内に訪れる。二人の剣闘士は動きを止め、観客は互いに顔を見合わせる。
どちらが早かった? 引き分けか?
ざわめきが観客席に広がっていく中で、不意にごとん――と、重いものが地面に落ちる音がした。
それは"妖精剣"の少女が自らの剣を手放した音だった。
主を失った大剣は、"水晶剣"の青年のすぐ真横にその身を横たえる。
「わたしの、まけ」
抑揚のない、鈴の鳴るような声が少女の唇から紡がれる。
その瞬間――闘技場が爆発した。
『決まったぁぁぁぁ!!勝者、"水晶剣"ロード!』
弾けたように観客が立ち上がり、割れんばかりの歓声と万雷の拍手を鳴り響かせる。彼らは口々に勝者の名を讃え、敗者の健闘を讃える。
先程までの緊張感から一気に解放された反動か、闘技場全体が祭りのような騒ぎになっていた。
しかし闘技場に立つ二人の剣闘士は、戦いが始まる前と同じように、周囲の様子には全く興味がない様子だった。
勝利した青年が少女の喉元から剣を引き、鞘に収める。それをじっと見守った後で、少女も自分の剣を拾い上げる。
「いい勝負だった」
青年が突然、まるで独り言のようにそう呟いた。少女がぱっと青年を見た時には、既に彼は彼女に背を向けて歩き出していた。
そのまま彼は振り返ることなく、自分が登場した時と同じ門から去っていく。
まるで一振りの剣のように鋭く張り詰めた気配を纏ったその後姿を、少女と観客達は最後まで見送っていた。
この日の戦いは後に、幾度となく繰り返された"水晶剣"と"妖精剣"の対決の一ページとして、闘技場に関わる者の間で長く語り継がれることとなる。
だが今の彼らにとってそんな事はどうでも良かったし、これから先も気にすることはないだろう。
彼らは剣闘士。
ただひたすらに戦い、殺し、そして死ぬだけの――ヒトデナシなのだから。