ゴドフリー家②
それでもゴドフリー卿はこの領地内では一番の権力者である。廊下を歩いているときには、来る人、すべての人に礼を尽くされる。それを威厳たっぷりに返しながらも、心の中では戦々恐々としながら、妻の自室へと進む。
ゴドフリー夫人は結婚する前、自身が領主の地位に就くはずであったのでその政治手腕は夫にも勝る。その自室はすぐにでも政治参加が出来るようにと、会議室と隣接するように作られているぐらいだ。
ゴドフリー卿は重厚な扉をノックした。
「私だ。入るぞ」
「どうぞ」
口振りとは逆に、こそこそとした態度でゴドフリー卿はドアを開けた。
妻の口調はいつもと変わらない。けれどもそう言うときほど要注意であることをゴドフリー卿は長い経験から知っていた。
妻は火の入った暖炉の側でテーブルを構え、山のように積まれた案件を対処していた。未だに黒々とした髪を硬く結い上げ、メガネを鼻にかけ、慣れた手つきでペンを滑らせている姿を見ると、彼女が普通の領主夫人でないことが分かる。
部屋には無駄な物が一切ないし、着ているドレスもかなり実用的な物である。
彼女が言うには、夫に任せておくより自分でさっさと済ませてしまった方が早い用件も多々あるらしい。そこで生み出された暇な時間がゴドフリー卿の浮気へと繋がるのだが。
後ろから付いてきた二人の娘が中まで入り込み、きちんとドアを閉める。
これで退路は切られた。
「お母様」
二人の娘は昔に戻ったように母親の元へと駆け寄り、抱きつく。ゴドフリー夫人もよそに嫁いだ娘達をしっかり胸に抱えた。
「アーバンルー、サンニコール、そしてあなた」
二人の娘に注がれた慈愛の声はゴドフリー卿の時はぴたりと事務的な声色に変わった。
「どうぞ三人ともソファーにお座りになって」
ゴドフリー夫人は自らの手により、温かなハーブティーを家族に振る舞った。しかし、ゴドフリー卿としては妻の何気ない一挙一動が怖い。
「そ、それで、おまえ、何のようだ?」
「何のようだと?」
夫人は呆れた視線を夫に向けた。ゴドフリー卿は地雷を踏んでしまったと焦る。こう言うときは、素直に手を付いて頭も付いて謝った方がいい。
ゴドフリー卿はソファーから立ち上がって、妻受けがいい綺麗な角度で土下座しようとしたとき、夫人は言った。
「クリスティーナの結婚式の事よ。私たちの領地でもそれなりにお祝いを開くし、王都での式へ出席するために日程も決めなければ。そして、不肖の息子、ルーフェスにも会わないといけないでしょう。長男のフアンが聖職者の道を歩むならば、ルーフェスがゴドフリー領の跡取りとならなくてはいけないのだから」
ゴドフリー卿は付きかけていた膝を慌てて起こした。
危ないところである。
「ああ、そのことか」
「自領での婚儀パーティーの招待客、費用はここに書き記しておきました。それを見て、よければ、サインをください。そして、王都でのクリスティーナの結婚式に参加するため、十日前には出発するのであなたの都合もその日以降は空けておいてください」
ゴドフリー卿は生真面目な活字が埋まった紙を受け取る。
類い希な頭脳を持つ妻は夫を必要とせずに責務をこなす。ゴドフリー卿はただ、それにけちを付け、サインするのみだ。
「ねえ、お母様、フアンお兄様も一緒に結婚式に行くのかしら」
ゴドフリー夫人はため息を付いた。次期ゴドフリー領主であった長男は、昔はそれなりに普通の息子だった。部屋に春画を隠し持ったり、親の目を盗んで町に繰り出し、娘達を口説いたりと。
それがある時を境にいきなり、聖職者になると言いだしたのだ。そして、家を出奔し、今までの生活とは考えられないぐらい禁欲の暮らしを始めた。
呼び戻そうとしたときにはすでに時遅しであった。城一番のプレイボーイと評判であったゴドフリー次期領主はすっかり萎えたご老人も驚く、禁欲生活を送った結果、最高位の聖職位に付いていた。
「どうでしょうね。結婚式と聞いただけでフアンは顔をしかめるでしょうね」
「やっぱり?」
「あーあ。お兄様に会うの、楽しみにしていたのに」
今まで、計算し、決して逸れることのない極太の道を歩んできたが、息子の出奔は人生の一番の失敗だ。
ちなみに二番目の失敗は、失恋した悲しみで、教会で泣いているとき、ちょっと格好良かった現夫と、脆い心の成り行きで結婚してしまったことである。
こうして、遠くに行っただけで心配で夜も眠れなくなるような愛すべき息子、娘に恵まれたことを与えてくれたことには感謝している。しかし、今では仕事も適当にこなし、挙げ句の果てに婿養子でありながら浮気を繰り返す夫を目の前には平静でいられない。




