弟との再会
ファーストコンタクト
たちまち、領地内は活気をおび始めた。領民達には三日三晩、無償で葡萄酒とパンが振る舞われ、城の中では召使いが総出で、第三令嬢の嫁入り準備に勤しんでいた。最上級の絹をクリスティーナの見事な身体に合わせて裁断し、これまでにないほど美しい婚礼衣装が作られる。
クリスティーナはというと、お相手である国王の少ない情報をかき集めていた。恋を始めるにも情報が必要である。
なんでも、彼はかなりの変人であるらしく人前に出てくることは希らしい。仕事は出来ても、実際生きている人間に興味がないと言ったところか。性格のよさを第一にあげていたクリスティーナのやる気がたちまち低下し、刺繍が雑になるのは仕方がないことであった。本命の恋愛は他国の王子様と決め込もう。
それでも婚礼衣装の出来映えはため息が出るほど素晴らしかった。
それを、さっさと箱にしまい、普段着に着替える。そして両親やお世話になった使用人に一人一人挨拶をすると、乳母達はあの暴風令嬢が無事嫁ぐことにとほっとして泣き出し、父親は厄介払いが出来たと喜んだ。クリスティーナも早速地味な女に徹してさっさと降嫁しようと力をみなぎらせた。
荷物や馬車が整い、城で過ごす最後の日、彼女は先日久しぶりに王都から帰ってきていた弟の元に向かうことにした。
令嬢にふさわしく優雅に道行く使用人に挨拶し、ドアの前に立つ、軽くノックした。
「ルー? 私よ、クリスティーナよ。早く開けないとどうなるか分かっているわよね」
彼女は厳かに宣言した。昔、彼女がそういうと、すぐに弟は出てきた。そうでないと、彼の秘密は次々乳母へと漏れていくのだ。
クリスティーナはそれでも鍵がかかっていることを確認すると、袖口から一本の針金を取り出す。泥棒顔負けの手つきでそれを鍵穴に差し込み、ガチャガチャするとカチリと音がして扉は簡単に開いた。
これもまた幼い頃、空想した恋愛シチュエーションで、捕らわれた恋人を助けるために必要かもしれないと思って花嫁修業で会得した技である。ちなみにクリスティーナ的には助けるより、助け出される方が好みである。
「ルー!」
ドアを全開に開いたクリスティーナはずかずかと弟の部屋を巡回する。
「十三歳の時、犬に驚いてお漏らししたのだーれだ!」
「ティーナ…」
厚い眼鏡をかけて現れたのは弟ルーフェスであった。研究にのめり込んでいるらしい弟は自分の衣服にさえ関心がないらしく、まさに着た切り雀であった。そんな彼は、しかめ面で姉に抗議した。
「勝手にはいるなよ。人の秘密を大声で言うなよ!」
「開けないと、どうなるか分かっているわよねと言ったはずよ」
「制限時間が短すぎるんだよ」
弟のもっともな言い分をきっぱり無視して、クリスティーナは弟を眺めて顔しかめた。
「あんた、ひどい顔ね。家に着いてから顔は洗ったの? お父様に挨拶は行ったの?」
「これからだよ」
「じゃあ、さっさと着替えなさい。そんなぼろぼろじゃなくて、きちんとしたもの着けなさいよ。それともこのまま、ずっと研究者として生きていくつもり?」
ルーフェスはすっかり刻まれた眉間のしわを更に深めた。
「まあ、とりあえず、着替えて」
弟を部屋まで追い立てようとする。それにルーフェスは慌てて言った。
「ああ、ティーナ。僕はもう大人だ。一人で出来るから大丈夫だよ」
「昔のことを根に持っているのかしら。遠慮しないで大丈夫よ。もう、私も十分大人よ。していいことと悪いことの分別は付いているわ」
それはクリスティーナが構築した分別であり、他から見てみれば正しい分別かどうかはわからない。
弟の抗議に構わず、部屋にはいると、何とそこには先客がいた。
「あ…」
ルーフェスのベッドの片隅に座った少年はクリスティーナの姿を認めるとびくりとした。そしてその丸い頬を赤らめる。
「えっと…」
口ごもる弟にクリスティーナは、まさか、まさかと口元を覆う。
小さい頃から内気で変人だったルーフェスの部屋にお客が来たことは少ない。ベッドに座る少年は豪華な内装に似合わない質素な衣服であり、表から正式に招かれた客ではないようだ。そしてこの怯えた表情、けれどもどこか期待している色っぽい表情。とても友だちだとは思えない。だとしたら…
クリスティーナの、驚愕した顔にルーフェスは観念したように姉に向き直った。
「こっちが、僕の研究助手のニケだ。僕が家に研究材料の球根を植えていたから掘り起こして試薬を作るためにこちらに来てもらったんだよ。決して怪しい者じゃないんだ」
一瞬、息を止めて自分の考えが思い違いだということに至る。
息を吐いて、一息ついたクリスティーナは胸をなで下ろした。
「…それなら、先にちゃんとお父様に言ってお客さんの部屋も与えてもらいなさいよ! 私ったら、男二人でこそこそやっていると思って変な想像をしてしまったじゃないの! もう、この子が可愛いからなおさらじゃない!」
クリスティーナの恋愛に対する知識の幅は広い。一人、顔を赤らめて、まくし立てる彼女に二人は何が彼女の頭の中で起こっているのか全く持って分からなかった。けれども美しく、社交界の花である令嬢がこんなにも怒るのだからと、なぜかニケ少年が謝る始末であった。
一通り、姉の説教を聞き終えてルーフェスは仏頂面で応えた。
「今から父上に会いに行こうと思っていたんだよ」
「さっさと、会いに行ってお姉さんを安心させて!」
弟に着替えを与え、部屋から追い出して、クリスティーナに怯えるようにベッドに座る少年に目を移した。
「もう、ごめんなさいね。気の利かない弟で。すぐに部屋を準備させるわ」
「あの、僕こそ突然お邪魔してすみません」
彼は細い声で謝り、頭を下げる。
しかし、その声にクリスティーナは違和感を覚える。彼女はまじまじと目の前に座る少年を見つめた。十代前半だろうか、目の大きい可愛い子である。だけど、一度違和感に気が付くと、クリスティーナの目は騙されなかった。
「あなたは、…本当は女の子ね?」
「…あ」
そばかすの散った顔が強ばる。図星だ。
その顔も可愛らしくてクリスティーナは気分が乗ってきた。か弱い羊を容赦なく追いつめるこの姿こそ、彼女が魔性の女といわれる所以である。手を取り、怯えきった少女を黄金の瞳で見る。言っておくが本人としては神父様のように何事も受け入れる広い心で望んでいるつもりである。
「ふうん。ルーはあなたが女だということを知っているの?」
「い、いいえ」
「それではただ、研究助手ってこと? でも、研究所には男しか入れないんでしょう?」
「…はい」
「それで何のために男装までして研究所にいるのかしら?」
「ただ、研究がしたかったからです」
少女は豹に狙われているおかげで顔を青ざめ今にも倒れんばかりである。
「不思議ねえ、誰もあなたの性別に気づかなかったの?」
「はい」
クリスティーナはわくわくしてきた。これぞ、もしかしたらどこかの恋愛小説に載っていた身分差の恋に発展するのではないか。身分の低いがんばり屋の男装少女が領主の息子に恋をする。そして、自分が恋のキューピットとなり、二人を結びつけることができるのでは。
彼女は一人期待を膨らませ少女の手をとり、握りしめた。
「ねえ、あなた、ルーフェスのことは好きかしら?」
「え? ええ、彼は尊敬する師です」
「違うわよ! 男としてよ」
魔性の美女に熱っぽい眼差しで見つめられた少女は噴出した。
「そ、そんなことは! おおそれ多いです!」
「そうじゃなくて、あなた自身の気持ちよ。あのルーのことが少しでも好き? 恋の対象として」
クリスティーナは実際、弟に少しだけ罪悪感を持っていたのだ。あの弟の女嫌いの原因が自分にあるかもしれないと分かったとき、胸が痛んだ。なぜなら、恋は人間の最高の至福であるからだ。すべての喜びを凌駕し、人生に潤いをもたらす恋、その機会を自分は弟から奪ってしまったのではないか。この頃は弟の相手が男でも動物でも銅像でも大目に見ようと思っていたが、今、この彼女の存在である。
「応援するわ! 少しでもルーのことが気になるようだったら、このお姉さんに相談なさい。私もこれから王都へ行くから! もう、何もかもそっちのけで援助してあげる」
「王都へ…?」
「ええ、明日から側室としていくんだけれど、一人じゃ心細いし、もしもあなたのような可愛い子がいるんだったら私も嬉しいわあ」
ぼんやりとクリスティーナの話を聞いていたニケは、たちまち後ずさり、床に頭をこすりつけんばかりに礼をした。
「私、すみません! 側室様とは知らず、ご無礼を申し上げました!」
「そんな、未来の義妹かもしれないのに。よくってよ。側室っていっても国王が男色家だったり、うまくいかなかったりしたらすぐ戻ってくるわよ」
のんびりと言ったクリスティーナは優しく男装の少女を起こした。
「それじゃあ、また王都で会いましょう。ルーはたぶん、お父様に説教されていると思うから、先にあなたの部屋を頼んで置くわ。私もあまり、ここにも長居できないしね。ルーにもよろしく言ってちょうだい」