幼きクリスティーナ
「ほら、ルー! ちゃんと声に出して読んで!」
『…ああ、貴女の瞳には星が輝き、その唇は蜜のように僕を離さない』
「ちょっと棒読みね。もっと感情を込めてよ!」
クリスティーナは不服そうに言った。隣に座ったまだ幼い弟は、怯えた顔で姉の不機嫌な顔と自分の膝に乗った冊子を見比べた。
『ああ、神よ。我らの罪を許したまえ。僕は罪を知ってなお、彼女から身を退くことは出来ない』
「まあまあ及第点ね」
クリスティーナは弟の手から冊子を奪い取った。興奮のため前に垂れる艶やかな髪をうるさそうに払い、ページをめくった。
「もう、最初のつまらないところは飛ばすわよ。実践にしましょう」
クリスティーナは開いたページを弟に見せつけた。それを見て、彼の顔はこれまでにないほど強ばる。しかし、やる気に満ちた彼女は小さな弟の腕をむんずと引き寄せた。そして本に書かれているように『色っぽく』という言葉通り笑う。若干十二歳にしては、かなり艶めかしいだろう。
『ああ、私もう待ちきれない!』
気分はすっかり主人公だ。クリスティーナは目を白黒させている弟を引き寄せ、恐怖で歪んだ唇に口づけた。本をちらちら見ながら書かれている絵の通りキスを続ける。
しかし、弟はというと初めての恐怖のあまり失神してしまった。クリスティーナは自分のキスの仕方が悪かったのだろうかと本を見比べて首を傾げる。
芝生で遊んでいた姉弟の異変を察して乳母が駆け寄ってきた。
「クリスティーナ様! どうしたんですか? まあ、大変! ルーフェス様!」
乳母は放心して倒れ込む弟を抱き起こし、他の侍女を呼び、その小さな身体を運んでもらう。思わず申し訳なくなって、クリスティーナは手に持った冊子を後ろに隠した。けれどそれを見逃す乳母ではない。
「クリスティーナ様、後ろに隠した物はなんですか?」
「何でもないわ」
けれども、人生長いこと生きた乳母は惑わされない。結局、クリスティーナはしぶしぶ冊子を渡した。それを訝しげにめくっていた乳母は次第に顔を赤くさせていく。
「これは、兄君様から没収したはずの春画集…!」
この後、クリスティーナの部屋からは大量の桃色の本が発見された。乳母は解雇され、クリスティーナには上級貴族の淑女に相応しい女性になるべく半年の性格矯正教育が行われた。
しかし、十二の娘が春画に興味があったといえばそれは嘘である。クリスティーナが春画に手を出した理由、それは彼女が単純に恋をしたかったからだ。
貴族から平民まで女なら誰でも一度は夢中になる色恋。クリスティーナも一度、舞台でそれを見てから虜になった普通の娘であった。ただ、彼女には並はずれた好奇心があった。普通の恋愛小説を読みあさり、今度は兄が没収された桃色の本がなんなのか気になり始めたのが事件の始まりである。
そして、意味は分からずもそれに感銘を受けたクリスティーナは、それを教材に弟相手にレッスンを始めた。
半年ごときの矯正で彼女の好奇心が治るわけがない。晴れて監禁がとかれたとき、クリスティーナは勇んで続きをしようと弟の元へ向かったが、彼は姉の影響をこれ以上受けないようにと研究所へと弟子入りした後であった。
クリスティーナも貴族の淑女に相応しいように更に厳格な教育を敷かれるようになった。将来、おしとやかで純情な妻になるようにと。しかし、彼女は心の内で誓っていた。小説のように熱く、そして春画のように何にも縛られない恋を自分でもしようと。それまで結婚はしないと。
*『ニケの確認』の番外編ですが、本編より長くなる予定です。