四話
ミスリム商会の地下に造られた会場設備は大規模だ。とは言っても、この地下施設は公式には存在しないことになっているため、数千人規模の人数を収容出来るという程では無いが、それでも固められた土を利用した通路は広い。男が二人並んで歩いてもまだまだ余裕がある。
その二人の内の弱者側の人間。短剣を突きつけられたまま会場へと歩く英二は、あまり恐怖を感じていなかった。
「なあなあ、俺の名前はライヤーって言うんだけど、王子様の名前は何って言うんだ?」
それはこのライヤーが飄々としていて、どこか親しみを持ちやすいからだろうか。もしくは、この気に食わないオークションを壊してくれる、という期待か。あるいは両方か。
ライヤーの顔立ちは精悍でも、表情の移り変わりは道化師のように気まぐれだ。だが、嫌な感じはしない。
英二は素直に答える。
「エイジ・タカミヤだ」
ライヤーは後ろから突きつけている短剣を下げた。
「おおっ、エラく肝の座った王子様だな。クジュウの民、っていうのはみんなそうなのか?」
「さあな。それより、王子様ってのは止めてくれ。俺は王子様でも何でも無いんだ」
英二は一応、周りに人がいない事を確認しながら言う。
ライヤーは僅かに押し黙った後、大きな笑い声を上げた。
「なんだなんだ、あんたも訳ありだったのかよ! 怪しいとは思ってたが、くはっ。こいつはおもしれぇ!」
ひときしり笑った後、ライヤーはもう一度短剣を突きつける。
「くくっ、なに、それなら尚更あんたを傷付けるつもりはねぇ。ただ、もう少しだけ王子様でいて貰うぜ」
「俺を王子様にしてどうするんだ?」
ライヤーの声は不思議と良く通る独特の響きだ。
英二はここの貴族達より、むしろ侵入者であるライヤーに好感を持った。
それはこの侵入者も同じらしく、まるで旧友にでも話すかのような気軽さで、ライヤーは答える。
「決まってるさ。そいつの命はそいつの物。奴隷達を解放するのさ」
オークション会場の入口が見える。
そこには英二とライヤーを迎える人間が列をなして待っていた。さっき休憩所で歓談していた女性や警備員の服を着た男。受付にいた男もいる。
老若男女、肌の色、区別も差別も無く、共通しているのは手首に巻いた赤い布だけ。
その赤いリストバンドを掲げるように、彼らはライヤーに敬礼した。それこそが誇りであるような、迷いの無い動き。
「このライヤー・ワンダーランド率いる反帝国組織『ラクセルダス』がなぁ!」
その花道を躊躇も無く歩く男は、確かに彼らの頭領なのだろう。
笑みを浮かべたライヤーは、景気良く入り口の扉を蹴り開けた。
クジュウの民の少女は最終的に二億まで値を上げて、肥えた商人に競り落とされた。薄暗い会場の澱んだ熱気もその時を最大にして、今はゆっくりと収束の瞬間へと進んでいる。
淡い暖色のドレスを揺らし、リズは脚を組んだ。
それはリズが考え事をするときの癖だ。あまり淑女としては良い癖ではないが、最近は男装に慣れていたために無意識にしてしまっている。
隣の商人が、その艶めかしい脚に目を奪われていることにも気付かず、リズは物思いに耽る。
仮初めの王子様は大丈夫だろうか。もしかしたら、彼を選んだのは失敗だったかもしれない。
(エイジは優しすぎる。悪い事とは言わないけど、きっとそれはいつか彼を苦しめてしまうだろう)
リズは英二と自分の間に、決定的な価値観の差を感じている。さっきもそうだ。
エイジは奴隷の苦しみを我が事のように思い、助けたいと思っていた。そして、その感情は全て奴隷自身のためだ。
自分は違う。
勿論、もうラミのような被害はあってはならないとは思うが、リズが一番心配しているのは、国と妹だ。
リズはフラムベイン帝国の第三皇女として、奴隷の密売が国の益にはならない、と判断したから潰しにきた。
現在、長らく続いた隣国との戦争は、互いの国力の疲弊によって休戦している。そして奴隷の主流は隣国、クレアラシルの褐色の肌を持った人間だ。
休戦直後に奴隷の所持を禁止したラック・ムエルダも、恐らくこう考えたのだろう。今は悪戯に戦争の火種を起こしてはならない、と。
何も戦争はやってはならない、とは言わない。フラムベイン帝国の歴史は戦いの連続だ。また近いうちに戦争は起こるだろう。しかし、まだ小さな背丈の妹の為に、抗う術を持たない無力なシアの為に、戦争は避けたい。
それがこの先フラムベイン帝国の為になると信じているし、不遇の妹の救済になると信じている。
リズは組んでいた脚を戻し、立ち上がった。
オークションはもうすぐ終わる。この場にいた全員の顔はもう覚えた。長居をする必要は無い。
未だに戻って来ない英二を探しに、リズはドレスの裾を揺らしながら出口へと歩き始める。
その淀みない歩みを止め、飛び退くと同時に、勢い良く開いた扉から会場に男の声が響き渡る。独特な、だが通りの良い声。
「さあさあ、下らねぇ宴は楽しんだか!? 最後に俺達からの出品だ!」
口上と共に、手首に赤い布を巻いた『ラクセルダス』の構成員が素早く侵入し、テーブルの人間が逃げ出す前に鎮圧していく。
会場には主だった警備兵はいない。入場前の厳重な身体検査。警備兵がいる物々しい空間では入札が鈍る、というトワイロの判断だ。
完全に裏目に出た自分の判断を呪い、トワイロはステージの奥の搬入路に逃げ出そうとする。
ライヤーはそんなトワイロに声を張り上げた。
「お前が逃げればこのクジュウの王子を殺す! そうすればクジュウと戦争だぞ!」
トワイロの心に戦争の二文字が浮かぶ。商人の自分にはありがたい事だ。
その引き金を引くのは自分?
トワイロは戦争を食い物にして今の地位まで上り詰めた。それ故に戦争の実態を良く知っている。人は多く死ぬ。世界が動く。前回のきっかけは、名も知らぬ貴族のこじつけのような因縁。そこから全土に烈火のごとく戦争は広がった。ありがたい、と笑いながら話した酒の席。波に乗り、流れを見切った自分の商人としての才。
その引き金は、自分。
今まで考えたことも無かったその重みが、トワイロの視線をライヤーに向けさせる。ライヤーの隣にいるのは確かに、クジュウの王子と名乗っていた黒目黒髪の少年だ。帳簿を見て自分はほくそえんでいた。金になる、と。
動きの鈍ったトワイロの足に衝撃が走る。僅かな気の迷い。その小さな隙は、良く訓練されたラクセルダスの構成員がトワイロを取り押さえるのに、十分な隙だった。
「がっ!」
地面に押さえつけられたトワイロは、己の失敗を悟る。
その様子を見て、ライヤーは英二に突きつけていた短剣を下ろし、悠々とステージに上がった。
「さあ、奴隷達の牢屋の鍵を貰おうか」
しゃがみこみ、トワイロに短剣を突きつけるライヤー。トワイロは顔を上げず、悔しげに呻いた。
解放された英二は周りをぐるりと見渡した。地面に押さえられた貴族の男性。テーブルについたまま不満げにふんぞり返る商人。会場に少しの乱れはあっても、制圧の手際としては見事としか言いようが無い。
ラクセルダスの構成員には、英二を拘束する意志は無いらしい。放っておいても危険は無いと舐められているのか、ライヤーの仲間と思われているのか。
まあどっちでもいいか、と英二は暖色のドレスを、リズの姿を探して歩く。
「エイジ」
「リズ、こんな所にいたのか。もうちょっと見つけやすい所に居てくれよ」
入り口の扉のすぐ横。両手を上げ、背中に剣を突きつけられたまま立っているリズに、英二は軽口を叩いて近寄る。
リズが英二の知り合いだ、と分かると髭の生えた男の構成員は剣を下げた。しかし、男はまだ警戒を解かない。かといって襲い掛かったりもしてこない。
英二がステージを見ると、ライヤーはトワイロの身ぐるみを剥がし、無理矢理牢屋の鍵を探していた。
「お前が全ての鍵を肌身離さず持ってるのは知ってるんだよ!」
距離のある英二にまで聞こえてくる、心底楽しそうな声。計画が上手く運んで機嫌が良いのだろう。
リズは無表情でそれを見ながら、英二の隣に立った。
「エイジ、彼らの目的は?」
「俺もよくは知らないけど」
英二はまだ警戒している構成員をちらりと見た。特に何もしてこない。ならば話しても問題ないだろう。
「奴隷の解放、だったっけ。あいつも俺達と同じで、このオークションを壊しに来たらしい」
「…………確かにぶち壊してくれたな」
「まあまあ。少し話したけど、あいつの目的は略奪とかじゃなくて奴隷の解放だけらしいし、今回は仕方ないだろ」
嫌悪感を表すリズに、英二は軽い気持ちで話す。リズからしたら失敗かもしれないが、やはりこの場で奴隷達が助かる、という事実が純粋に嬉しかった。
そんな英二とは対照的に、リズは苦虫を噛み潰した表情のまま周囲を見回す。
「この中の指揮官は?」
リズは見覚えのある男を、自分が入場料を払った元受付の男を見た。その男は剣を持って周囲を警戒している。
ああ、と英二は既に決着のついているステージを指差す。
「あの男が親玉。そこまで悪い奴じゃなさそうだったぞ。名前は」
「やっと見つけたぜ! 手間かけさせてくれるなよっ」
英二の声を途中で掻き消すほどの声量。ライヤーは軽い足取りでクジュウの少女の入った牢屋に近付き、数ある鍵の一つを差し込んだ。
カチャリ、と音を立てて鍵は開く。少女は扉を開け、緩慢な動きで檻から出る。
猫のような丸い漆黒の目が、助けたはずのライヤーを睨んだ。
「どうしたんだ、助かったんだぜ? お前」
ライヤーは覗き込むように少女を見た。少女は睨み続ける。到底、助けてもらったとは思えない態度。
まあいいか、と少女に興味を失ったライヤーは鍵束を構成員に投げ、ステージ奥に囚われている奴隷も解放するように指示した。
英二はそこまで見て、少女が助かったことにほっとしながら、さっき言いそびれた言葉を話す。
「えっと、組織の名前はラクセルダスで、あいつの名前はライヤー……なんとかだった気がする」
「ライヤー・ワンダーランド、かい?」
「ああ、そうそう。そんな名前だった」
そうか、と一つ頷いたリズは、驚くべき俊敏さで元受付の男の懐に踏み込み、鮮やかに顎を打ち抜いた。
糸が切れたように崩れ落ちる男からこぼれ落ちた剣。リズは空中でそれを掴み、ステージに向け疾走した。
「はっ?」
何が起こったか一瞬理解出来なかった英二は、間抜けな声を上げた。
これにてめでたしめでたし、で終わる筈だったのに、何故リズはこんな事を。
遅れて事態を察した髭の生えた男の構成員が、英二に向かって剣を見せ付けるように持ち上げる。
総毛立つ感覚とほぼ同時に、英二はライヤーの言葉を思い出した。
『反帝国組織、ラクセルダスがなぁ!』
リズは皇女で、ライヤーは反帝国組織の頭領。そんな二人が出会って何もない筈が無い。
にじり寄る髭の生えた男から後ずさる英二。突然の異変を好機と受け取り、我先に、と出口へ逃げ出す貴族や商人。それを抑えようとする構成員達。凄まじい速さでステージを駆け上がり、ライヤーと対峙するリズ。未だ立ち尽くすクジュウの少女。
会場は混乱の最中へと誘われた。