二話
揺らめく湯気。とろける体。
「極楽だ……」
広い豪華な造りの浴場に、声が軽く反響して消えていく。
一人では到底使い切れない広さの湯船。英二は足を伸ばし、大きく息を吐いた。
(とりあえず入れ、って言われたから入ったけど、この先どうなるんだ)
リズの家。つまり皇女の住まいである皇居は、目を覚ました場所から、歩いて五分程の距離だった。最悪サバイバルを考えていた自分が恥ずかしい。
ちゃぷりと乳白色のお湯を掬う。指の間から零れ落ちる。
彼女がこの皇居に着く頃、英二は歩けるようになっていた。そこでいきなり現れた使用人に連れられ、どんな罰が待っているのか、と身構えていたら、意外にも着いた先はこの浴場だった。
服を脱がせ、体を洗おうとしてくる使用人の女の子をどうにか説得し、一人で落ち着ける状況になった英二はぼんやりと上を向く。
いきなり命の危機だったが、どうにか死なずに済んだ。
そう、自分は生きているのだ。
自分がいた地球では経験したことの無い、危機に晒されたが故の生々しいまでの生。それは安心と、これから先の不安を浮き彫りにする。
(コリスト……だったっけ。あんな生き物が見たことも聞いたことも無い。でも、リズや使用人が話していた言葉は日本語。フラムベイン帝国、なんて聞いたことないし……やっぱりここはまだ異世界なのか?)
言葉が通じる事の違和感。仮に外国だとして、そんな偶然があるのか。
ここはあの大きな樹のあった世界とは、また別の異世界。その仮定が大きくなる。というより、それ以外にそれらしい答えを見つけきれない。
英二は大理石で出来た石像を眺める。贅沢な金の使い方だ。
(いや、それは今はいい。言葉が通じて悪い事は何もない。話せるのが異世界に来た特典なら、喜んでも良い。問題はこの場所が、あの熊みたいなコリストを易々と殺せる場所だ、って事だ)
まだ鮮明に覚えている、首から剣を生やしたコリストの映像。あれはリズが投げたんだろう。不意打ちとはいえ、リズはコリストをあの一撃で倒した。それこそ良くあること、レベルの気軽さで。
つまりはリズはコリストより強い。それも、圧倒的に。
「女の子なのになぁ……」
もしも。もしもこの異世界のフラムベインとか言う国が、力の支配する国だったら。女の子のリズでさえあの強さだ。自分など指先一つでやられてしまう。
今はクジュウの民だかなんだかと勘違いしてくれているから良いが、本当は全く関係の無いただのひ弱な高校生です、とバレたらどうなるのだろう。
(…………よし、とにかくリズには逆らわないようにして、ご機嫌を取ろう。せめて、この異世界の事を知るまでは)
力が強いというのは、間違いなく正しい。少なくとも、さっきのコリストとの戦いはそうだった。殺すか、殺されるか。
今まで希薄だった意識。平和な日本の学生で、喧嘩一つしたことの無かった英二は異世界の地で、そんな当たり前の事を思った。
浴場から出てリズの居るらしい部屋に移動する途中、英二は着慣れない、ゆったりとした異国の服の感触に襟元を引っ張った。
「こういう服はテレビの中でしか見たこと無いな……」
「あっ、もしかしてお気に召しませんでしたか!?」
英二の言葉に、ラミ・モルドナーは敏感に反応した。
緩く片側に括った亜麻色の髪は、彼女の動きに合わせて良く動く。エプロンドレスを身に纏う姿は様になっているが、対照的にその大きな碧眼は不安げに揺れている。
美人か可愛いか。どちらかと言えば可愛いに分類されるラミの視線に、英二は罪悪感を感じて、軽く首を横に振った。
「いや、そういう訳じゃないんだ。気にしないでくれ」
「ああ、良かった。リズ様の連れてきたお客様に粗相があったら、後で叱られちゃいます」
そう言って、さっきまでの不安げな表情を一転させて、笑いかけてくるラミ。その笑顔に癒されながらも、忙しい子だな、と英二は苦笑いを返した。
「ラミ……は、ここで働いてどれくらいになるんだ?」
見た目は同い年くらいだが、初めに敬語と敬称をラミ本人に却下されたため、少し躊躇いながら名前を呼ぶ。
当たり障りの無い世間話だが、ラミはどこか満足そうに答えた。
「私が十三の時にここに来たので、大体四年くらいですかね。たまたま、ここの侍女長のネイルさんに拾われて」
良く動く表情。話し方や仕草の端々に、持ち前の明るさが滲み出る。
英二はそんな明るさに自分の今の境遇が照らされた気がして、ちょっぴり気が滅入った。
「そっか。道理でその格好が様になってると思ったよ」
ありがとうございますっ、と大袈裟に礼を言うラミ。
エイジさんは何歳ですか、リズ様とはどういう関係ですか、と続けて嵐のような質問を浴びせてくる。英二が適当に答えたり、はぐらかしたりしていると、廊下の先に豪華な、他の部屋とは違う扉が見えてくる。
こほん、とひとつ咳払いして、ラミは豪華な扉を指す。その動作はさすが長年使用人をしているだけあって、無駄の無い綺麗なものだ。
「あれがリズ様の部屋ですよ」
「もしかして、個人の部屋か? 応接間とかに通されると思ってたんだけど」
「普通はそうなんですけどね。リズ様のご指示です」
話す間にも扉は近付いてくる。
英二が立ち止まると同時に、ラミは扉をノックした。
「リズ様。エイジ様をお連れしました」
入れてくれ、と中から声がして、ラミは扉を開き、英二に入るよう促す。
英二は扉を開けた状態で待つラミを横切り、部屋に入る。
「やあ、さっき振りだね」
思ったより質素な内装。ぱっと見ても、ここが国で上から数えたほうが早いほど偉い人の部屋とは思えない。かといって安物、という訳ではないのだろう。使い込まれた机や、使いやすさを重視した簡素なテーブルは、素人目に見ても造りの細かな高級品だ。
中央のソファに座って朗らかな笑みを浮かべるリズ。後ろで扉の閉まる音。ラミは入って来ないらしい。
英二はリズの機嫌を損なわないよう気を付けながら、ゆっくりと歩み寄る。まずは礼儀が大事だ。
「さっきは助けて頂きありがとう御座います」
そう言って深々と頭を下げた英二に、リズは目尻を下げる。
「まあまあ、そんなに畏まらないでくれ。それにこちらとしても色々と聞きたい事があるんだ」
来たか、と英二は思いながら、促されるままソファに座る。今は友好的だが、ここで機嫌を損ねたらどうなるか分からない。緊張しながらリズの言葉を待つ。
「前々からクジュウは気になっていてね。話にしか聞いた事は無いけど、この国とは違う技術体系で成り立っているとか」
「ええと、あの。そのこと何ですが……実は俺、ここがどこだかも分からなくて」
「ふむ、君はこの家の警備を潜り抜けてあの場所に居た。当然、君に何かしらの思惑があった、ということは知っているよ」
警備を潜り抜け、という言葉に反応した英二を、リズは射抜くように見た。
「私や母を暗殺しに来た、にしてはコリストに遅れをとる実力。恐らく情報収集のみに特化した諜報員。現に敢えて背中を晒しても、何もしてこなかったしね」
いつの間にか何か話が大きくヤバい方に向かっている。英二は誤解を解くつもりで口を開こうとして、思いとどまった。
(一体なんて説明すれば良い? 何もしてないけど、気付いたらあそこにいましたー、なんて言える雰囲気じゃないし、かといって諜報員とか、そういう悪人的な称号は非常にマズい)
焦りながらも何も言わない英二に、リズは優しく微笑みかける。
「大丈夫、私は諜報員だからと言って、君をぞんざいに扱ったりはしない。使用人には、君は私の客人という事にしてあるし、現に今だってそう扱っているつもりだよ」
「はあ…………」
英二は目的の読めないリズの言葉に生返事しか返せない。
他国の諜報員なんて、普通は拷問なり何なりして口を割らせるんじゃないか、と映画で見た知識を呼び起こす。
リズは腰を浮かせ、身を乗り出して英二に顔を寄せた。密やかな声が耳をくすぐる。
「早い話が、私の下につかないか、と言うことだ」
英二は言われてやっとリズの意図が分かった。
リズは自分を取り込もうとしているのだ。厳しいらしいこの家の警備をかいくぐり、クジュウとやらの情報を持っている、と思われている自分を。
真実を話すのは今しか無い。これ以上話が飛躍する前に、英二は自分に起こった馬鹿げた事態を語る決意をした
「あの、とても信じて貰えないかもしれないんですが……」
「いやいや、君はこれから私の右腕になってもらうつもりだ。だから、私は信じよう」
「俺、こことは全然違う場所から、いきなりここに来たんです。多分、世界自体が違う場所から。クジュウとか諜報員とか、全く関係ありません」
「そうかそう……か……?」
あれ、とリズは額を押さえて、少し沈黙した後、軽く笑みを浮かべた。
「いや、そういう嘘は言わなくても大丈夫だよ。ここは離れとはいえ、皇族の敷地内だ。偶然迷い込める場所じゃない。それこそ侵入のエキスパートでも無い限り……」
「いや、本当です。そもそもここが敷地内なんて知りませんでしたし」
嘘だ本当だ、を繰り返す事、十分。ついにリズは折れた。
「はぁ、見かけによらず強情な性格だね。まあとにかく、最初に君に頼みたいのは……」
「リズ様、大変です! またマリレア様が発作を……!」
勢いよく開いた扉から、緊張感のある声。
英二が驚いて振り向くと、慌てた様子のラミの碧眼がさらに動揺する。
「す、す、すみません! 来客中だって事、忘れてましたっ」
「いや、いいよラミ。それで、母上がどうしたって?」
リズはこれ以上の英二との話を諦めて、ラミに続きを促す。
ラミは英二を気にしてか、自分の失敗を気にしてか、どこか遠慮がちに答えた。
「発作、です。いつもよりは軽微ですが、リズ様を呼んでいまして……」
またか、とリズはため息をついて立ち上がった。
「エイジ、すまないが話は後だ。ラミ、エイジを客室にでも案内してくれ。私は母上……いや、マリレア様の所に行ってくる」
はい、と幾分か落ち込んだラミが頷くのを見て、リズは早足で部屋を出て行った。
よく分からない状況に首を傾げるエイジに、ラミは戸惑いがちな笑顔で話しかける。
「えっと、エイジ様。お部屋まで案内しますね」
発作とは、リズの母親に何があったのだろう。英二は気にしながら返事をする。
「ああ、よろしくお願いしま……するよ」
ラミは扉の前に立つ。普段から失敗が多いのか、先ほどよりやや元気が無い。
英二の歳は十七。今年で十八。さっきの話によるとラミも同じくらいの歳だ。しかし、英二はなんだか学校の後輩のような親近感をラミに覚えた。実際はラミの方がこの世界の大先輩だが。
「えっと、とりあえず俺は気にしてないから、落ち込まないで良いよ」
反射的に出た陳腐な慰めの言葉。少し驚いたような表情の後、ラミははにかんで、案内を始めた。
込み入った事情だろう、と日本人的な気遣いで、リズの母の発作とは何なのかは、結局ラミに聞けずじまいだった。
案内された部屋で椅子に座り、英二は机に肘をつく。
部屋をざっと見渡せば、やはり日本では無い造りの家具。上質な木で出来たベッドは天蓋付きで、一体どこのお姫様の部屋だ、と思う。下手したらさっきの本物のお姫様の部屋より豪華だ。
何気なく机に置いてあった本を開く。
「やっぱり日本語じゃない、か……」
まだ僅かにあった『ここは日本の映画村的な場所で、もしかしたらそこに偶然来てしまっただけ』という希望は砕かれ、代わりにぽつりと声が漏れる。
本に書かれた字は日本語でも英語でも無い、初めて見る文字。しかし、彼らが話す言葉は日本語。英二は少し考えて、理由探しを諦めた。
本を閉じて立ち上がる。
何にせよ、頼れるものが自分には無い。無力さを歯痒く思いながら、窓から外を眺めた。
良く手入れされた庭。ちょっと前まで自分が居た森が奥にある。
やることも無く、英二がぼんやりと庭を眺めていると、年端もいかない少女が歩いている姿を見つけた。
その少女は英二に気付いていない。花を一輪大事そうに持ち、大きな帽子を揺らしながら歩く。
少女が遠目からでも分かる上機嫌さを振りまいていると、強い風が吹いた。大きな帽子が飛ばされ、庭の木に引っ掛かる。
帽子が引っかかった枝はそんなに高い場所ではないが、少女の背丈では届かない位置だ。更に少女の手の届く範囲の幹には、掴めそうな取っかかりもない。少女は何度か挑戦して、さっきまでの上機嫌とは一転、途方に暮れた様子で木に引っかかった帽子を見つめた。
そんな少女を見ていた英二は、行儀悪く窓から出て、少女の背中に声をかけた。こんな事してる場合じゃないけど、と内心思いながら。
「俺が取るよ」
いきなり声をかけられ驚く少女の返事も聞かず、英二は軽く跳躍して帽子を掴んだ。
「はい」
差し出された帽子。少女はそれをゆっくりと、遠慮がちに受け取った後、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! わたし、もの凄く困ってて、とっても嬉しいです!」
少女は英二の手を取って、庭のテーブルを指差した。
「あそこで待ってて下さい! わたし、お礼のお菓子を持ってきますね!」
「あ、いや別に……」
英二が否定する前に、少女は持っていた花を帽子に差して、その花を頭上で揺らしながら駆け出す。
「……まあいいか」
どうせ今はやることが無いし、半ば無理やりとはいえ約束を破るのは気まずい。英二は仕方なく、綺麗に掃除されているテーブルに向かった。
「さっきはありがとうございました!」
少女は元気にお礼を言って、テーブルに紅茶とお菓子を載せた盆を置いた。
英二は安心して息を吐く。実は少女がたっぷりと盛り付けられたお盆を持ってくるのは二度目だ。一度目はテーブルに辿り着く前に転んで、色々と庭にばらまいてしまっている。
そんな英二の胸中には気付かず、少女は大きな帽子を外した。
散らばる金の髪が太陽を跳ね返す。肩まで伸びたその髪は緩く曲線を描き、少女の可憐さを引き立て、成長前特有の危うさを印象付ける。
大きな瞳は好奇心と純真さをたっぷりのせた琥珀色。表情の変化の多さが、少女の性格を良く表している。
転んだせいで汚れたドレスに気がつかないまま、少女は一礼した。
「わたしは、シアミトル・フラムベインです! シア、って呼んで下さい!」
ここは皇族が住んでいる皇居。ならばその中で、明らかに上質なドレスを着たシアも当然、皇族。英二は薄々感づいていた。しかし、こんな小さな女の子が偉い人、というのがあまりピンとこない。
「えっと、俺は高宮……エイジ・タカミヤだ。シア……で良いか?」
「はい! エイジさん、ですか。素敵な名前ですね!」
シアは嬉しそうに言った後、ドレスの汚れに気付き、慌てて両手で払う。
英二は苦笑しながら立ち上がり、シアの手の届きにくい汚れを払った。
「そそっかしいお姫様だな」
「う…………すみません」
気にしている部分を言われたからか、僅かに肩を落とすシア。英二は緩く佇む金髪をくしゃり、と撫でた。
「いや、褒め言葉だ。子供は元気なのが一番だしな」
そう言われて、嬉しそうに笑顔を見せるシアに、元の世界の妹が重なって見え、英二は椅子に戻りながら家族に思いを馳せた。
優しい父親とお祭り好きの母親。自分によく懐いてくれていたが、最近兄離れを始めていた妹。
家族は心配しているだろう。自分は戻らなくちゃいけない。例えどれだけ時間がかかっても。
庭の花の咲き具合がどうだとか、この帽子と花はお姉さまの贈り物でとても大事だとか、そんな事を一生懸命にシアは話す。英二はそんなシアに姿に、この世界に来てから無意識に張っていた警戒の網が緩くなっていくのを感じた。
「それで、お姉さまは凄いんです! 今まで色んな剣の強い人が来たんですけど、途中からお姉さまがみんな追い越して、最後には強かった人の方が教えを乞うようになるんですよ! 勉強も、家庭教師の人が『是非うちの研究所に来ないか。君ならこの国を背負う技術者になれる』って言うくらいでっ」
「そりゃ凄いな。どんな完璧超人だよ」
シアは姉が大好きらしい。さっきから熱弁している。しかし、誇張が入りすぎだと思う。
英二はお菓子のクッキーの最後の一枚をシアにあげ、紅茶を口に含んだ。
「まあ、それほどでもないさ。常に精進、積み重ねていけば誰だって出来る」
「ごほっ!」
突然聞こえてきた声にむせる。
「エイジ、大丈夫かい? まるで悪事がバレた犯罪人みたいな反応をして。不法侵入とか」
「洒落になってないぞ、それ!」
お姉さまはこいつか、と思わず敬語も忘れて振り向くと、リズは堪えきれない笑みを浮かべていた。
「ふふっ、そっちの方が良いな。ラミにも敬語は使ってなかったし……よし。私にも敬語は禁止だ、エイジ」
「んな事を言って、更に弱みを握るつもりですか?」
「不敬罪。皇族の命令に背けば重罪だ」
敬語を使うと不敬罪、というあべこべな命令。
英二が躊躇っていると、シアが立ち上がり、リズに飛びかかるように抱き付いた。
「お姉さま、エイジさんをあんまりいじめないで下さい! エイジさんはわたしが困っていた所を助けてくれたから、良い人です!」
「いじめてなんかないよ、シア」
リズはシアの髪を手櫛で優しく流す。シアは気持ちよさげにされるがままだ。リズが男装のせいで、その二人の姿は頼れる兄と健気な妹に見えなくもない。
リズはシアの頭に手を載せたまま、エイジに視線を上げた。
「エイジ、君は何歳だい?」
「今年で十八……です」
「なんだ。私と同じじゃないか。だったら、なおさら敬語なんて必要ない。君とはそういう部下と上司ではない、もっと深い仲になるつもりなんだ」
聞きようによれば愛の告白にも似た言葉。現に勘違いしたシアはリズのお腹に赤くなった顔を押し付け、隠している。
だが、英二はリズの紅い視線に、もっと深刻な決意を感じた。
自分に何故これだけ執着するのかは分からない。しかし、助けられた恩もある。それに結局の所、今の英二に頼れる人間なんていない。
ならば、ここは覚悟を決めるべきか。恩義が半分、打算が半分。英二はゆっくりと頷いた。
「…………分かった。これで良いか? 言っとくけど、この口調で行動は礼儀正しく、なんて器用な真似は出来ないぞ」
「ああ、それで良い。いや、それだからこそ良い」
リズの思惑は分からないが、英二には彼女が悪い人間には思えなかった。
どうせこの先、誰かの協力が必要だ。
英二は元の世界に戻るため、この世界で生きるため、リズ・クライス・フラムベインと契約の握手を交わした。
リズの住む皇居の森は広大だ。森の先は不踏のビルド山が侵入者を拒んでいるし、仮に入り込んだとしても方位磁針の効かない天然の迷宮が待ち受けている。さらに仮に森を抜け皇居に出ても、警備兵が常に目を光らせ、皇族の安全を守る。野生動物はそもそも人の気配の多い皇居にはあまり近付かない。
「確かこの辺りに…………おお、いたいた。結構デカいぞ」
皇居の警備兵の一人、ダリアはリズの命で、英二と戦ったコリストを捕りに来ていた。
コリストの毛皮はそれなりに高値だ。肉も不味くは無い。
「全く、散歩のついでにコリストの成体を狩ってくるなんて『皇帝姫』の名に相応しい武勇だな」
ダリアが呆れながらコリストに近付くと、別の声が森に響く。
「当然だ。姫様にかかればコリスト等は片手間だろう。俺にすら倒せる相手だ」
共に来た警備兵のモッズは、我が事のように胸を張った。
ダリアは押してきた台車をコリストの死骸のそばに止め、モッズに手で指示しながら気だるげに話す。
「その姿は他のどの皇女より美しく、その剣は何人も相対する事を許さず。最近は求婚を避けるために男装までしてるが、それでも愛の花束は貴族から山のように届く。モッズ、お前には高値の花過ぎるだろ」
「…………うるさい。想うだけなら勝手だ」
そんなものかね、とダリアは自分とは違う価値観を聞き流す。
女遊びもしないこの仕事馬鹿とは、それなりに長い付き合いだ。この手の会話も何度したか覚えていない。
そういえば今日は珍しく姫様に客人が来たらしい。どんな奴かは知らないが、男だったらモッズがうるさそうだ。
ダリアは少し憂鬱になる。今日は飲みに行って、行きつけの娼婦のいる店に行こう。そうだ、そうしよう。こういう日には男ばかりの宿舎から離れて、女を抱くに限る。
台車の取っ手に体重をかけ、周りを警戒する振りをしてサボる。モッズが恨みがましい視線を寄越すが、いつものことだから気にしない。
モッズがため息を吐きながらも手際良くコリストを台車に載せた時に、ダリアはその違和感に気付いた。
「おいモッズ。なんかこのコリスト、顔が変じゃないか?」
「ん? ……言われて見ればそうだな」
モッズはしゃがみこんでコリストの口元を短剣の柄で押した。
「どうやら、口元から顎にかけて骨が砕けてるらしいな」
「ひゃー、さすが皇帝姫。体術すら化け物並みですか」
「姫様を化け物呼ばわりするな! 恐らく噂に聞く魔力の応用法だろう。そんな技術を自ら編み出した姫様…………素晴らしい! ダリアっ、この技術は四年前、姫様の師範をしていたトルベール殿の……」
また始まった、とダリアはバレないようにため息を吐く。モッズは一度姫様スイッチが入ると、普段の寡黙さはどこへやら、小一時間は姫様万歳な話を続ける。
重いコリストは、台車を使っても二人がかりで運ぶのがやっとだ。よって、ダリアはモッズから離れる事も出来ない。
早く仕事を終えて、飲み屋に繰り出したい。
屋敷までの短い道のり。ダリアは酷く長く感じた。