一話
「…………冷たい」
高宮英二は膝下に感じる冷たい水の流れで目を覚ました。
仰向けの体を起こして、川から這い出るように移動する。どうにも長く浸かっていたらしい。気温はそこまで低くないとは言え、両脚は冷え切っている。
靴を脱いで、靴下を日の当たる場所に広げる。
ズボンを捲りながら周りを見れば、さっきまでとはうって変わって、青々と茂る木々。
(次から次へと……一体、俺が何をしたって言うんだ)
流れる川の音。植物の命の匂い。日差しを揺らす豊かな葉。名前は知らないが、小さなリスみたいな生き物がこっちを見つけて逃げて行った。
さっきまで見ていた世界とは違う、確かな生命の存在にどこかほっとしながら、英二は近くの岩に腰をかけた。
そもそも、自分に何が起こっている?
急に不可思議な場所に来た、と思ったら、また違う場所だ。
前の場所での最後の記憶は、あの澄んだ水を飲んだ所まで。ここはあの川の下流だろうか。
しかし、前の場所は明らかに地球では無かったし、世界中から見えそうだったあの樹も無い。まさか元の世界に帰れたのだろうか。
とりとめもなく考えるが、答えは出ない。
とにかく周辺を探索だ、と英二はまだ渇いていない靴下を右手に、水浸しの靴を履いた。
熊が、出た。
「よし、分かった。ちょっと待て」
英二は熊に、止まれ、と左手を上げる。。
よく見れば熊というより、さっき見たリスみたいな生き物を激しく大きくしたような姿だ。と思ったら、熊みたいな生き物の足元で、さっきのリスみたいな生き物が可愛らしく小首を傾げた。英二は殺意を覚えた。
心の中で悪態をついて、英二は視線を上げた。警戒しているのか、まだ熊らしき生き物は襲って来ない。だがこの均衡が破れるのも時間の問題だ。
洒落にならない状況に、心臓は狂ったように早鐘を鳴らす。全身から冷や汗が吹き出るのが分かる。
じりじり、と熊らしき生き物から、目を逸らさずに後ずさる。どこかテレビで見た知識。野生動物と出会った時は目を逸らしたらやられる。
良い子だから動くなよ、と念じながら後ずさる途中、かかとに何かが引っかかる感触。
やばい、と思っても体は重力のままに倒れる。視界の端で動き出す熊。背中に受ける硬い衝撃。
(ああ、死ぬかな、これ)
十八年生きてきて、それなりに世の中が見えて来て、さあこれから卒業して一人暮らしのキャンパスライフだ、という時期にこのバッドエンド。
ここは結局どこだったんだ。死んだらどこに行くのだろう。楽しい事も、悲しい事も感じなくなるのだろうか。
そんなのは嫌だ。
訳の分からない世界で、訳も分からないまま死ぬ。
走馬灯のように伸びる思考の中、英二は無性に怒りを感じ始めた。
ふざけるな。
そんな理不尽な話、認めてたまるか。 まだ、自分は死んで無い。死にたくないんだ。
だったら――
生きる!
「っだらぁ!」
間一髪、跳ね上がるように後転して熊の腕をかわす。自分でも信じられないくらいの自己最高の動きだった。多分、二度と出来ない。また鼓動が聞こえ始める。
熊は牙をむき出しにして英二を見る。餌が逃げて不機嫌だ、とでも言いたげな唸り声。
(まだ死にたくない! だったら、どうする、俺!)
英二を動かすのは強烈な生存本能だ。
現代では出会ったことの無かった圧倒的な危機。日常というぬるま湯で錆びていた神経が、本来備わっている筈の輝きを取り戻す。生きるための、魂の選択。
もう一度訪れる均衡。逸らさずに、さっきよりも近い熊の目を見る。
どうする。どうする。どうする。
がさり、とどこか音がした。それを合図に、熊は体長に似合わないとてつもない素早さで、襲いかかってくる。
音に気を取られて英二は反応が遅れる。痛恨の失敗。冷える心臓とは別に体が熱を持つ。
避け――間に合わない。
誰もが死を確信する状況。絶体絶命。普通ならこう思うだろう。
ああ、ここで死ぬのか、と。
だが、英二は諦めない。
声にならない声と共に、英二は破れかぶれの拳を繰り出した。圧倒的体重差。例え天地がひっくり返っても勝てやしない。
それでも全てを込めた拳は、偶然にも先に熊の鼻先を捉える。
体が熱い。これが命の輝きか、と頭のどこかで冗談を言っている。一瞬が長い。手の先に伝わる獣の濡れた鼻先。高宮英二のありったけを込めた拳。死ぬまで諦めてたまるものか。
そして次の瞬間、英二が見たものは、首から剣を生やした熊の姿だった。
「危ない所だったね。大丈夫かい?」
まだ状況が上手く飲み込めない英二は、声のした方向へとぎこちなく首を向ける。見知らぬ人が近付いて来る。この人間が投げたらしい剣が熊の命を奪い、自分は助かったらしい。
男装の麗人、とでも言うべきだろうか。
輝く金の長い髪は高い位置で一つに括られ、優雅な髪飾りで彩られる。華やかだが、動きやすさを重視した服は男物のようだ。しかし、確かな胸の膨らみと全体から滲み出る女性的なラインが、逆に彼女の魅力をアンバランスに引き立てる。目鼻立ちはすっきりしていて、なおさら中性的に見えるが、英二が驚いたのは瞳の色だ。
深く、濃い紅。癖のない金糸の髪の下、血よりも濃い真紅の瞳。
金と紅。初めて見る組み合わせに英二は目を離せなかった。
「しかし、まさかコリストの成体と素手で闘う人間がいたとは、驚いたよ」
英二は慌てて目をそらして熊、コリストから離れると、男装の麗人は剣を引き抜いた。どういう仕組みか、血糊一つ付いていない。
ちょん、と男装の麗人が大きな頭を押すと、コリストはゆっくりと倒れ、遠くで見ていたコリストの子供が逃げる。
緊張が抜けて、英二は思わず地面に座り込んだ。
「し、死ぬかと思った……」
「ははっ。運良く私が通りかかって良かったね」
英二は改めて男装の麗人を見る。
細身の剣を鮮やかな動きで鞘に納める姿にすら、どこか気品が漂う。明らかに普通じゃない。おまけに金髪に紅眼。
紅い瞳が細められて、英二に手を差し出した。
「見たところクジュウの国の民らしいけど、どうしてこんな場所に?」
英二はその手を握って、立ち上がろうとした。
「それは……あ、あれ?」
が、命の危機をくぐったせいか、腰が抜けて上手く立ち上がれない。
男装の麗人は快活に笑いながら、英二に背を向けてしゃがんだ。
「まあ、良くある事だよ。さ、どうぞ」
非常に嬉しい申し出だが、男としてのプライドが邪魔をする。だが、ここで助けの手を断って、置いて行かれでもしたら目も当てられない。
「えっと、お、お願いします」
それでも若干悩んで、英二はしなやかな背中に手をかけた。
男装の麗人は英二が掴まった事を確認して、しっかりとした動作で立ち上がり、歩き始める。
「それでさっきの質問だけれど、君は……、すまない。私としたことがまだ名前も名乗ってなかったね」
随分と力持ちだな、と感心しながら、目の前の癖の無い金の髪束を避けていた英二は、思い出したように礼を言った。
「忘れる所でした。さっきは本当に助かりました。俺は高宮英二、って言います。えっと、高宮、が姓で、英二、が名前です」
「タカミヤエイジ? それは珍しい響きだね。姓名が逆というのも珍しい」
言葉の振動が背中から英二に伝わって来る。男装の麗人は、こほん、と咳払いをして、その名を紡ぐ。
「私の名前はリズ・クライス・フラムベイン」
英二はふと気付く。何故、自分はこの人の言葉が解るのか。明らかに日本人ではないこの人が、日本語を喋っているとは考えづらい。常識など既に吹き飛んでいるが、それでも常識的に考えて。
そして英二は次の言葉で、更にぶっ飛んだ状況になっている事を、知る。
「まあ、早い話がこの国、フラムベイン帝国の第三皇女さ。あ、ちなみにここ、私の家の敷地だから」
英二はさっきとは別の意味で命の危機を感じる。不法侵入。不敬罪。フラムベインってどこだ。
金の髪がさらり、と英二の頬に当たった。太陽と甘酸っぱい匂いがする。からから、と明け透けに笑うリズの横顔から悪意は感じない。
だが、英二には、それが悪魔の笑みにしか見えなかった。