九話
まだ日も昇っていない早朝に英二は目を覚ました。
上半身を起こし大きく伸びをすると、肩が心地良い音を立て、それだけで眠気は消える。素晴らしく寝起きの良い朝だ。
ベッドから降り靴を履き、窓に向かって静かに歩く。ライヤーはまだ気持ちよさそうに寝ている。
異世界に来てから一週間と少し。英二が思ったより、元の世界との差は少ない。
しかし、何故自分はこの世界に来たのだろう。まだ薄暗い空気の中、英二は考える。
窓の外には、ちらほらと人が見える。店の準備だろうか。荷物を運ぶ動きは忙しない。
それは街が起き始めた証拠で、湧き出る泉の胎動のような、力強い命の予兆だ。今まで知らなかっただけで、元の世界の日本にもこんな風景があったのだろう。ビルの影に埋もれて、気付けなかっただけだ。
この世界に来た意味。いや、意味など無いのかもしれない。道端で蹴飛ばす小石と同等に、ただの偶然。
少し、英二は怖くなった。息を吸い、吐き出す。夜に冷やされた空気が肺を冷やした。
英二は頭をがりがりと掻いて、音を立てないように移動する。そして部屋を出て階段を下りた。目が慣れれば見える程度に薄暗く、一階のロビーに人の気配はまだ無い。
適当に散歩でもしようか、とそのまま外に出ようとすると、遠くから声をかけられた。聞き覚えのある声。
振り向くと、併設されている食堂から人が出てくる。見えづらい薄闇の中でも、高貴な雰囲気は伝わってくる。
「おはよう、エイジ。今日は随分と早いね」
「リズこそ」
リズが出てきた食堂の入り口へと、英二は目を向ける。
「もう開いてるのか?」
「いや、シア達を起こすのも悪いし、椅子を借りていただけだよ」
考え事もしたかったしね、とリズは頬を掻く。そして徐々に光を取り戻している窓の外を見て、英二にも分からないくらい小さなため息をついた。
「今日はいい天気になりそうだ」
そう呟いた言葉にも、霜が降りたような痛みが混じる。
その微かな冷たさには気付いて、英二も窓に視線をやった。そして、思い付くままに口を動かす。
「リズ、散歩でもしないか?」
リズは少し考えて、うん、と頷いた。
何か悩んでいるんだな、と英二は予想する。そしてその悩みは、するりと解決する類ではないだろう、ということも。
そういう時は下手な慰めをしても仕方がない。笑い飛ばさず、訊かず、ゆっくり歩くのが一番良い。少なくとも、自分がそういう悩みを抱えた時はそうだった。
その考えを肯定するように、朝の締まった空気は体を心地良く撫で、喉の奥を洗ってくれる。
空の雲の輪郭がはっきりしていく。その下を、二人は無言で歩く。段々と活気づく街が、二人の代わりに騒がしさを増している。
通りの中心の広場まで来て、リズはやっと言葉を発した。
「うん、やっぱりこの街は良い街だ」
「そうだな」
歩いて来た道を見ながら、リズは軽く伸びをする。隣に立つ英二も振り返る。
「やっぱり、想像するのと直に触れるのは違った。街の事を本当に知るには、その街を歩く事が大事なんだと改めて思い知らされる」
木が数本立っているだけの味気ない広場。ここも、もうすぐ人で溢れるだろう。その熱気はそこに居ないと味わえない。
英二は空を見上げた。どこまでも行けそうな雲一つない空に、太陽の姿はまだない。
それでも、明るいのだ。主役を今か今かと待ち続ける観衆のように、希望だけを映して。
英二が視線を戻すと、リズが自分を見ていた。偽装された黒い瞳に問いかけるより早く、紅い唇が動く。
「君は私が守るよ。君は、自分を守る事だけ考えてくれ」
一方的ですらある言葉。英二は腰に手を当てた。
「ありがたいけど、俺がカッコ悪過ぎないか?」
リズは笑った。
「ふふっ、今まで君が格好良い時なんてあったかい?」
思い返せば無いかもしれない。唯一活躍らしい活躍だったアリスナでの事件も、結局は気を失ってしまっていた。
英二は反論を諦めてまた空を見上げる。僅かに太陽が顔を出し、一気に街に光が溢れた。
「でも、君は君のままでいて欲しいと、私は思うよ」
「なんだそりゃ」
漏れ出た朝日を受けて、リズの髪がきらきらと輝く。
格好悪いままじゃいられない。何となく、英二はそう思った。
何も言わずとも、二人はゆっくりと宿に戻り始める。
互いに誓いを胸に立て。
ファフィリアの街が、さらに騒がしく動き始めた。
自室の豪華な机に座るラック・ムエルダは、力の限りに報告書を握り潰した。
四十近くの歳に、生気に満ちた目。丸めた報告書を投げる左手の小指は、第一関節までしか無い。
リズ・クライス・フラムベインの殺害は失敗。これは忌々しき事態だ。
ミスリム商会の事件。リズ・クライス・フラムベインはラック・ムエルダの秘密を知っただろう。そして、暗殺の手を逃れたリズは、その秘密を糾弾しようとする筈。彼女の潔癖さは有名だ。
自分が奴隷を買っていた事が世間に伝わるのは避けたい。そして国民の人気の高いリズ・クライス・フラムベインと敵対している、という事実は隠したい。
どちらも自分の足を引っ張るのが目に見えている。それでは己の覇道が閉ざされてしまうのだ。
ラック・ムエルダは乱暴に立ち上がり、自室から出る。警備の兵の一礼に手を上げ、重い足取りで向かった先は――
「失敗したか、ラック・ムエルダよ」
抑揚の無い声。王者の前で、ラック・ムエルダは膝をつく。
四十代の男。髪は長く、皺はそれほどない。その表情に色は無く、静かな圧力を身に纏っている。胸に大きく光る宝石は、世界で一人しか着ける事を許されない。
皇帝、ビスタルデニア・フラムベイン。
深い紅の瞳に感情は見えない。老成というよりも達観したその視線がラック・ムエルダに向けられていた。
「申し訳ありません。ビスタルデニア皇帝閣下」
玉座に深く腰掛けたビスタルデニアは、つまらなさそうに頬杖を突いた。
「構わん。時間などは腐る程ある。力無き者は足掻き、積み上げ、初めて微功を得るものだ」
「慈悲深き御心、有り難く頂戴します」
愚帝が、とラック・ムエルダは頭を下げたまま歯噛みした。
皇族の血筋は優秀だ。リズ・クライス・フラムベインをはじめ、文武に優れた者が多い。
しかし、皇帝になるには、現皇帝に選ばれなければ決してなれない。それはフラムベイン帝国の絶対であり、例外の無い掟だ。
くだらない制度だ。ラック・ムエルダは常々思う。
能力のある自分が、血筋という壁に阻まれる。それだけで一体どれほど損失か。
掟を破り、この国の頂点に立つ。力に酔った能の無い皇帝を引きずり降ろし、自分が新たな王に。
それこそがラック・ムエルダの野望。
そんな野心とは縁遠い、硬質な紅い瞳が動く。
「しかし、必ず鍵を取り戻せ。あれは必要な物だ。皇女などはどうなろうとよい」
皇帝閣下の命令には逆らえない。流れはこちらにあることを再確認して、ラック・ムエルダは見えないように唇を歪める。
ミスリム商会でラック・ムエルダが手に入れる予定の物は二つあった。
一つはクジュウの奴隷。ただのクジュウの奴隷、というだけならば買わなかったが、可愛らしいクジュウの少女、というのは是非とも手に入れたかった。顔すら見れなかったのが惜しまれる。
二つ目は、箱だ。
中身、差出人が一切不明の箱。皇帝の指示通りにその箱はミスリム商会に運ばれ、埋まっていた所をようやく掘り出した。ラック・ムエルダの情報網を持ってしても、たった一つ以外、全てが謎の箱。
そのたった一つだけ分かっている事。
「まだしばらく使わないが、これは大事な物だからな」
皇帝はそれに、奇妙な愛着を持っている、という事。
ビスタルデニアは手元に置いてあるその箱に、愛おしげな視線を向けた。そこだけ嫌に生々しい温度を感じて、ラック・ムエルダは吐き気を覚える。もし人払いをしていなかったら、衛兵の誰かが気付いたかもしれない。
しかし、そんな内面はおくびにも出さず、ラック・ムエルダは言った。
「トワイロ・ガリアンの証言通りなら、ライヤー・ワンダーランドか第三皇女が持っているはず。必ず、鍵を取り返します」
第三皇女を殺して、とラック・ムエルダは頭の中で付け足した。実際、付け足した所でビスタルデニアが反応する、とも思えなかったが。
案の定、ビスタルデニアはもうその話題に興味を無くしたように、元の無表情に近い表情に戻った。
「で、ラック・ムエルダよ。まだ戦争を始めないのか」
「まだ民は疲労しています。今までの戦争が永過ぎたのです。もう少し休ませねば、閣下の望む戦の大火は広がらないでしょう」
この手の問答は飽きるほど繰り返した。
人とは変わるものだ。ラック・ムエルダはつくづくそう思う。
前代の皇帝の時代。ビスタルデニアがただの皇太子だった時、まず戦争など言い出す性格では無かった。
兄に隠れて影が薄く、気の弱い、日和見な男。同年代だが、同じ時期に必死で足掻いていたラック・ムエルダから見れば、なんとも愚図な青年だった。
それが何の間違いか次期皇帝に指名され、皇帝の証である宝石を手に入れた途端、人が変わったように戦争を推進しだした。
皇帝の証である宝石は魔具である。手に入れるのは、絶大な力。
絶大な力と権力を手に入れれば、人は変わる。戦争狂になろうとおかしくは無い。愚図が身の丈に合わない力を持つから、とラック・ムエルダは呆れた。
だが、戦争ばかりして国が豊かになる筈がない。国が豊かでなければ、手に入れても意味が無いのだ。
響くのは抑揚の無い声。
「そうか。では行け」
ラック・ムエルダは一礼して玉座の間から出た。代わりに衛兵達が各々の持ち場に戻り、皇帝は退屈の息を吐いた。
「飽いたな。停滞のみがこの身を苦しめる」
その呟きに反応する者はいない。
「世話になったな、ローラン。連れも喜んでたぜ」
「光栄です、ライヤー様。またいつだっていらして下さい」
ローランはライヤーに熱っぽい瞳を向けた。店の前、大柄な体の正面で手を組む姿は、恋する乙女、と言っても差し支えない。
「私はライヤー様のためなら、どんな事だってします」
いや、それに近い感情がローランにはある。ただ、それでライヤーを縛ろうとは夢にも思わないだけ。
分かった分かった、と苦笑して、ライヤーはローランに背を向けた。
「じゃあな。連れ達が待ってる。またこの街に来た時は寄るぜ」
ずきり、とローランの胸が痛んだ。
「はい」
ライヤーが通りの奥へ消えていくのを、服に隠れた赤い布を確かめるようにさすりながら、ローランは見ていた。
連れとは、誰の事だろう。例えば、憎き皇女だろうか。
理性と感情が相反する。他人の空似。信じたい気持ちと、見違える筈のない顔。
もしもライヤーが誰かを愛しても、それは仕方の無い事だ。むしろそういう一定の女性が居ない現状がおかしい。
愛せ、と言われれば喜んで愛そう。死ね、と言われれば喜んで死のう。しかし、あの皇女と共に行動している、という現状だけは、自分でも嫌になるほど頭に残っている。
ライヤーが意味の無い行動をする筈が無い。だから、きっとリズと共に居る事にも深い考えがある。帝国を倒すのに必要な、重要な意味が。
そう自分に言い聞かせても、ローランの胸の感情は晴れない。さっきまでの安心も、離れれば不安に変わる。店に入った時に鳴る鐘の音が、寂しい。
ローランはそのまま奥へと歩く。そして狭い自分の部屋へと入り、上着を捨てるように脱いでベッドに倒れ込んだ。長く、豊かな髪が散らばる。
刻一刻と流れる時間。頭の中を整理しようとして、ライヤーの顔が浮かんで、ぐちゃぐちゃになってまた散らばる。
リズ・クライス・フラムベイン。ライヤー・ワンダーランド。自分よりも遥かに高い位置に立つ二人は、同じ視線で話すのだろうか。
また、心が散らばる。
ベッドの上で身じろぎして、ローランは赤ん坊のように丸まった。
リズ・クライス・フラムベインの顔は女の自分から見ても美しい。それに頭も良く、剣も強い。自分が勝っているのは、体くらい。
指先で手首に巻いた赤い布をなぞって、腕を伝い、胸へと手を滑らせる。
少し力を入れると、大きな胸は容易く形を変えた。
「……んっ」
唇から湿った声が漏れる。化粧品の香りが漂う狭い部屋に、とろみを帯びた別の甘い匂いが満ち始める。
膨らみかけた衝動に任せ、更に手を下げようとして、ローランは止めた。代わりに、シーツの表面を手で歪めた。
愛される事は望まない。それでも、愛が欲しかった。
狭い部屋に、街の喧騒が聞こえ始める。もう、人が増える時間帯だ。
ローランはベッドから降り、机に座る。雑に置かれた化粧品を片付け、手紙を書き始める。
長い時間をかけて書いた手紙は、一見すれば何の変哲も無いただの近況報告だ。定期的に書く、必要な手紙。
その手紙は英二達の歩みより早く、ラクセルダスの本部へと届けられる。
二章 了