表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年は図らずも異世界に足を踏み入れた  作者: かまたかま
二章 それぞれの街、宴の夜
17/22

七話



 ルルの放った魔力の球は、大きな音を立てて壁に新しい入り口を作った。

 ユラルは余裕を保ったまま、芝居がかった仕草で、その破壊の力の投擲者に話しかける。


「そんな分かりやすい攻撃、僕には当たらないよ」


「うるさいっ! 死ねっ」


 ルルの罵声を気にも留めず、ユラルはそのまま視線を落とす。

 ワンピースから見える脚から細い腰。気持ち程度の胸。そして、気の強い猫のような瞳。

 ユラルは笑みを濃くした。


「うん、合格だ。その瞳が良い」


「はぁ? 何がよ?」


 ルルは意味不明の発言に思わず聞き返す。

 そしてすぐ、そのことを後悔する。


「君は両手両足を折ろう。そして、その後に泣いてる君の口を僕のモノで塞ぐんだ。ふふふっ、楽しみだなぁ。そういう生意気な瞳が歪むのは、いつ見ても素晴らしいからね。そして最後にゆっくり首を切ってあげる。愛撫するみたいに、ゆっくりと、ね。くふっ、ひひっ」


 我慢できない。そんな情動を示すように漏れる笑い声。優男のような顔は暗い悦びを形作り、膨らみがズボンを押す。


 ルルは嫌悪した。その異常な精神性と言動。

 そして何より、怖い、と一瞬でも思った自分の心に。


 そんなルルを守るように、英二はユラルの前に立った。腰に戻した短剣を、抜く事も忘れて。


「なんなんだよ、お前」


 英二の心の中から、怖さは殆ど消えている。あるのは、疑問。

 どうして、そんな事を言えるのか。そんな酷い事を――


「なんだよ。僕は男に興味は無いんだ」


 剣は来ない。代わりに、鋭い蹴りが英二を横に吹き飛ばす。

 受け身もとれないまま倒れる英二、ユラルは剣を振り上げる。


「安心してよ。殺しはしないから」


「ルル!」


 英二は叫びながら立ち上がるが、間に合わない。


 例えるなら、ルルと英二は剣と盾だ。ルルは剣。英二は盾。

 破る方法は簡単だ。英二に攻撃が効かないなら、効くルルを先に潰せばいい。当然の行動で、英二もそれを警戒していた。

 だが、英二は盾にすら成り得なかった。それだけだ。盾を失った剣は、今にも折られようとしている。


「舐め、るなぁっ!」


 ただ、ルルはそこで折れるような弱いだけの剣ではない。

 いいようにやられる、なんてルルの最も嫌いな状況。それこそ、たとえ死んでも許せない。


 優男のへらへらした口元。見下した目。恐怖を抱いた自分。ルルは怒りのままに一歩踏み出す。思惑も何もあったものでは無い。激情に突き動かされるままユラルの懐に入った。


 既に剣を振り上げているユラルの方が早い。しかし、余裕と目的がユラルの剣を緩ませる。

 この位置からだと頭を切るしかないが、そこを切ってしまうと目の前の人形がすぐに死んでしまう。それは、つまらない。


 仕方ない、とユラルは体を捻る。続けて下から空を切る黒い杖。併せて胴体程の大きさの魔力の球が、天井に向けて放たれる。


 やすやすと必殺を避けたユラルは、軽やかに距離をとる。そして、杖を振り切ったルルは、その慣性を支えきれずに膝をついた。

 その倒れ方を知っている。ユラルの口がいやらしく歪む。


 ルルが膝をついた原因。それは、魔力の使い過ぎ。


 英二は起き上がりながら、その原因に思い当たる。そう、魔力は無限ではないのだ。使えば減る。

 そして、減った先には自分達の、死。


「はははっ! これだから魔力は脆弱なんだっ。強きは、剣。僕は魔力などに負けはしないっ」


 ユラルは恍惚を声に乗せ、舌で唇を湿らせる。嗜虐的な視線でルルを眺めて、一歩近付いた。


「ああ、駄目だ、我慢できない。やっぱり斬ろう。お願いだから、綺麗に死なないでくれよ?」


 死んだら元も子もないんだから、と言いながらユラルは剣を振り上げる。白い残光が煌めいた。


 英二は間一髪、その間に体を割り込ませる。


「くそっ!」


 ぎりぎりだが、間に合った。しかし、力量の差は歴然だ。二人を合わせても一人に負けている。

 背中に白刃の感触を感じながら、英二はルルの脇に手を差し込んだ。


「ちょっ! なにすん……」


 騒ぐルルを無視して英二は力を込め、全力でユラルから離れた。

 持ち上げられたルルは暴れ、英二の首もとを掴む。


「何やってんのよ! あたしを助けるくらいならあいつを倒しなさいよっ!」


「倒せたら苦労するかよ!」


 息のかかる距離で英二は言い返す。しかし、それで状況が良くなる筈も無く。


「仲間割れは良くないなぁ、うん」


 好機にもかかわらず、ユラルは英二達を追わない。それも当然だ。弱者を見下すのは強者の権利なのだから。


 広間の隅まで英二達は下がる。背中に当たる冷たい壁。もう、逃げ場は無い。


「ルル、まだ魔具は使えるのか?」


 英二は真正面からルルを見る。ユラルは面白そうに英二達を見るだけで、近寄ってすらこない。


「当たり前よっ」


 ルルは噛みつくような表情で言い返した。

 英二は考える。一体どうすればここを切り抜けられるか。


――ルルが壁をぶち破った後、そこから逃げる。

 却下だ。ルルを担いだ状態でユラルから逃げ切れるとは思えない。

――自分を囮にして、ルルがユラルを狙い撃つ。

 これも無理。ユラルはルルの攻撃を何度も避けている。今更当たってくれるとは考えにくい。


――英二がユラルを正面から倒す。


 もし、またあの時のような爆発的な力が出せるなら、それも可能かもしれない。しかし、そんな予兆は微塵も無い。


 神に祈るような不確定過ぎる希望に縋るのはまだ早い。英二は必死に考えを巡らせる。

 そんな英二を嘲笑うように、ユラルは距離を詰め始めた。


「ほらほら、早くしないと死ぬよ? くくっ、それとも逃げるかい?」


 一歩、一歩。広間の距離などたかが知れている。時間は、無い。


 それでも諦めない。英二は死神の足音を聞きながら、うるさい心臓の音を振り払い、最善の行動を模索する。

 近付く死の気配。


「さぁ、泣いてくれよ。泣き叫んでくれよ! うふっ、ふはははっ!」


 ユラルは剣の切っ先を英二達に向ける。欲望と快楽の詰まった血袋を裂くために。もう我慢など出来やしない。


 狭まる距離の中、英二はそっとルルの耳元で何かを囁いた。

 仕方ない、と言いたげな表情でルルは英二から離れる。


「今回だけよ。あたしが従うのは」


 ルルは黒い杖にしがみつくようにしてようやく立っている。

 英二は前に出て、ユラルと相対した。そして、腰の短剣を抜く。


「俺も、こういうのは今回だけにして欲しいさ」


 ぎゅっ、と短剣を握る。人を殺す道具を。


 覚悟は、決めた。後はやるだけ。


「ルル!」


 英二の叫びに合わせて、ルルは杖を振り上げる。そして英二は一気にユラルへと突っ込んだ。


「甘いっ!」


 ユラルは切りかかってくる英二に袈裟切りを放った。剣は滑るように英二の体を上滑る。相変わらず効かないが、ここは牽制程度でいい。所詮、素人の英二の剣など、目を瞑っていても避けられる自信がユラルにはある。

 故に、意識は後ろのルルへ。今にも振り下ろされようとしている黒い魔具を、ユラルは警戒する。あの出鱈目な破壊の球さえ直撃しなければ、負ける事は決して無いのだ。

 斬られた衝撃でよろける英二。同時にルルが杖を振る。魔力は杖を通り、破壊のエネルギーへと変換され、指向性を持ち、放たれる。


 その先は、上。


 不意をつかれ、ユラルの動きは一瞬止まる。破壊の球が天井で弾け、破片は空中を待う。思わず手で頭を守った。視界は狭まり反応は遅れる。

 これはそう、目眩ましだ。

 ならば、本命は目の前の男しかいない。破壊の球が連射出来ない事は見抜いている。だから、目眩ましに乗じて短剣で攻撃してくる筈。


 素人の短剣といえど、当たれば危険。だが、笑止。

 視界の端に短剣がちらりと見えた。ユラルは頭を守っていた手を解き、あらんかぎりの速さで剣を振った。確かな手応えが甘い感覚を脳に送る。吹き飛ぶ短剣。勝った、という確信。


 だが待て。妙ではなかったか。あまりにも手応えが良すぎる。まるで、吹き飛ばされる事を前提にわざと置かれていたような――


「さっすが。剣に自信のありそうなお前なら、俺の得物を狙ってくれると思ったよ」


 英二はわざと短剣を差し出すように構えていた。いたぶるのが趣味のユラルならば、まずは武器を奪うだろう、という予測。

 全力で剣を振った直後のユラル。短剣を吹き飛ばされること前提で構えていた英二。いくら実力差があろうとも、どちらが先に動けるかは明白だ。

 英二は何も持っていない手を伸ばし、ユラルの腕を掴んだ。


「じゃ、俺と一緒に吹き飛ぼうぜ」


「屑がッ! 触れるな!」


 ユラルは英二の指を掴み折ろうとするが、剣だこ一つ無い貧弱な小指は異様なほど硬い。英二の肩越しに、ルルがゆっくりと杖を振り上げる姿が見える。


「まさか、道連れにするつもり……!」


 杖は振り下ろされる。持ち主は倒れる。そこまで叫んでユラルは理解した。これは道連れなどではない、と。

 体を捩って拘束を解こうにも、もう遅い。英二に必要なのは僅かな足止め。いかに実力差があろうと、時間をかければ解ける戒めだろうと、終わりはすぐにやってくるのだから。


「畜生がっ、一般人の分際で……っ!」


「結構痛いからな。俺が保障する」


 人の頭ほどの魔力の球が英二の背中に触れる。瞬間、衝撃が発生し、体が宙に浮く。そのまま英二の体はユラルを巻き込み、五歩ほど離れた壁に激突。煉瓦を鈍器で叩いたような音がして、二人は地面に転がった。


「……疲れたわ」


 緊張の糸を切り、ルルは地面に座り込んだ。気を失うほど多く魔力を使った訳ではないが、しばらく足に力が入りそうに無い。


『一発、目眩ましを撃ってくれ。その後、俺ごと全力で』


 英二の『自爆作戦』はどうにか上手くいった。相手の油断と、魔力の限界と、運。ぎりぎりだったが、とにかく勝ちは勝ちだ。

 のそり、と壁に激突した内の一人が立ち上がる。ちっ、とルルは舌打ちした。


「頑丈過ぎよ。一緒に死んでも良かったのに」


「…………痛てて。……何でそう可愛げが無いんだよ」


 戦いは、終わった。英二一人が立っている。


 英二は、諦めを感じながら座っているルルを見た。喜びを体全体で表現する、なんて思っていなかったが、ここでも憎まれ口とはもっと思っていなかった。しかし、本気で言っている訳ではない、というのはルルの気を抜いた溜め息で分かる。むしろ変に心配されたら、自分の耳が腐ったと焦るかもしれない。

 足下には自分と同じ破壊の球の犠牲者。英二は落ちていたユラルの剣を拾い、傷つかないように刃の腹で顔を軽く叩いてみる。

 長めの髪はぐちゃぐちゃ。女性的な顔は白目のまま。反応は、無い。


「……死んで無いよな?」


「さあ。どっちでもいいわよ」


 心底どうでもよさそうなルル。


 死んだのか死んでないのか。流石に重要な問題だ。確認のため、英二は更に近付いてユラルに手を伸ばす。


「君達、大丈夫か!?」


 突然響いた男の声。驚いた英二は声の方向に首を向ける。


「私はこの街の警備兵だ。通報を受けてやって来た。……しかし、酷い有り様だな」


 三十代くらいの、皮の胸当てを身に着けた男。鍛えられた体からは覇気が滲み出ている。どこか戦いの気配を身に纏った雰囲気。

 その眉の下に傷がある男は、破壊の痕が色濃く残る室内を見回しながら、英二達に近付いた。

 英二は持っていた剣を慌てて捨てる。眉の下に傷のある男は気にせず、倒れているユラルの首に手のひらを当てた。


「……死んではいないな。まさか、君達はこの男の仲間か?」


「とんでもない!」


 そんな男の仲間だと思われたくない。因縁をつけられた事、連れて来られた事、被害者だという事。英二はそれらを掻い摘んで、やや誇張して話した。


 眉の下に傷のある男は、黙って聞く。そして英二が話終えると、やはりか、と口を開いた。


「まあ、そんな所だろうと思っていた。ここの連中はいつ大犯罪を犯すか分からないような悪の集まりだ。今まで上手く逃げられていたが、ようやく撲滅の目処がついた。いや、もう撲滅されたか」


 眉の下に傷のある男はそう言ってもう一度部屋を見回す。意外に冗談も言うらしい。硬さが和らいだ空気に、英二は自然と安心した。


「ああ、名前も言ってなかったな。私はナド・ザトスだ」


「あっ、俺はエイジ・タカミヤです。あっちはルル・トロン」


 視線すら寄越さないルルの分も一緒に英二は名乗る。無愛想なルルだが、ナドが気分を害した様子は無い。淡々と続けて英二に話しかけた。


「君達は何のためにこの街に? クジュウから商売でも?」


「いや、そういう訳では…………。この街に来た理由は……観光、ですかね」


「観光か。まあ、この街に来る人間の半分はそういう道楽なのは事実だからな。クジュウからはるばるご苦労な事だ」


 ははは、と英二は愛想笑いで誤魔化す。本当は異世界に帰る方法を探すためです、とは間違っても言えない。


 本当に信じたかは分からないが、それ以上ナドは訊かずに、倒れているユラルの腕を縛りながら話を変える。


「宿はどこを取っている? そこまでは送っていこう。君達を疑う訳ではないが、少し話も聞きたいしな」


 また同じような人間に絡まれるのは勘弁願いたい。英二は一も二もなく頷いて、ルルへと視線を向けた。


「ルル、立てるか?」


「……当たり前よ」


 ルルは杖を支えに立ち上がる。が、震える脚は頼りなく、長く続かないのは火を見るより明らかだ。


 意地っ張りな奴。

 英二はそう思ってルルの前で背を向け、しゃがんだ。


「ほら、帰るぞ」


「いらない。助けられるのは嫌いなの。あんただけ先に帰ってなさいよ」


 ある程度予想していた偏屈な答え。英二は用意していた言葉を放つ。


「助けてくれたんだ。これくらいはさせてくれ」


「そういうのが嫌いなのよ。ほんっと、助けて損したっ」


 可愛くない奴だ。英二はやけくそ気味に立ち上がった。曲がりなりにも女の子を一人残して、自分だけ帰る訳にはいかない。例えそれが罵りばかり吐く生意気な猫でも。


「ああ、じゃあ俺は背も手も何も貸さない。だけど俺はお前の一歩前を歩くから、服なり腕なり掴んでくれよっ」


 詭弁でしか無いが、これならぎりぎり助けてないと言えなくもない。

 何でも良いから納得してくれ、と願う英二の背中に、微かな感触。


「…………早く歩きなさいよっ」


「はぁ、了解」


「……何、そのため息」


「いいや、何でも」


 歩き出す二人。出口付近で待ってくれているナドが、心なしか急かしている気が英二にはしている。


 勿論、それは気のせいだ。だって、非常に歩くペースの遅くなってしまう二人に、文句も言わず合わせてくれるのだから。


「しっかし、あんた服がボロボロね。似合ってるわよ」


「……リズに真剣に怒られるかもな……。その時はルルも共犯な」


「はぁ!? 汚れてるのはあんた一人でしょうが!」


「汚したのは半分くらいルルだろ? ま、仲良く怒られような」


 死ねっ、という声が太陽の見えなくなった通りに響く。夕陽の残滓に浮かぶ薄い影が二つ。歩みの揃った影達の距離は近く、繋がっている。


 英二達はゆっくり宿へと戻る。それに合わせて後ろを歩くナドは、そんな二人を無表情で見ていた。








「エイジ! 酷い格好じゃないか!」


 英二が宿の男部屋に戻ると、リズがすぐさま部屋に入ってきた。

 きっと心配していたのだろう。申し訳なさと安堵を感じながら英二は事態を説明する。ルルは途中で寄った『ローラン』という店で、中にいた大柄な女性に捕まった。英二は仕方なく、宿までナドと二人で帰ってきていた。


 英二の話は戦った優男についてへと変わる。


「で、そいつはリズを狙ってたんだ。心当たりとか無いか?」


「……その男の名前は分からないかい?」


「いや、流石にそんな余裕は無かった。ほとんど不意打ちで倒したみたいなものだし、出来れば二度と会いたくないな」


 視線を外し、思案しているリズ。それまで黙っていたナドが口を開いた。


「私はナド・ザトス。この街の警備兵だ。少し話を聞いて良いか?」


「ああ、申し訳ない。私はリザリラ・ファーウェイといいます」


 流れるように偽名を答えるリズ。ナドが気付いた様子は無い。


「この街へはいつから?」


「今日の昼くらいです。アリスナからエイジ――彼と遊ぶ為に」


「そうか。それで、その男に何か心当たりは? 街中で話しかけられた、とか」


「いえ。この街に来るのは初めてで。少し街を回りましたが、そんな事はありませんでした」


 ナドは当たり障りの無い質問をいくつかして、眉の下の傷を指で掻いた。


「まあ大方、街であなたを見かけて、妄想にでも取り付かれたんだろう。あなたはそれだけ魅力的だし、奴らはいつもそんなきっかけで暴れ回るからな」


 それは場を和ませる冗談。リズは上品に微笑む。


「ふふっ、私がその人達を骨抜きにするほど魅力的であれば、事件なんて起こらなかったんです。もっと磨いておくべきでしたね」


 ナドはその返しに破顔する。英二も思わず笑ってしまった。

 部屋の扉が開き、小さな影がリズに飛びかかる。


「お姉さま!」


 体当たりのようなシアの抱擁をリズは受け止める。リズしか見えていないシアは早口でまくし立てた。


「あのっ、エイジさんが、ルルさんが大変なんですっ! 私がぶつかったから…………あれ?」


 リズの腕の中で、シアは背後へと視線を向け、呆けたように英二の姿を見詰める。


「シア、ちゃんと宿に戻れたな」


 英二が笑って手を上げると、シアはリズの腕を飛び出して、英二へと頭から突っ込んだ。


「うわっ」


 シアの突撃に耐えられず、英二はバランスを崩す。一歩下がった所で体は傾き、背後の壁に頭を打ちつけて、ずるずると床に座った。

 稲妻のようなシアの行動に、ぽつりと追加される。


「…………ごめんな゛ざい゛」


 英二にしがみついたままのシアは、そう言った後に大声で泣き出した。

 我が儘もじゃれつかれるのも大丈夫だが、泣くのは駄目だ。英二は慌てた。


「シ、シア、言った通り、俺は大丈夫だったろ? ルルだってちょっと疲れた位で何ともない。だから泣くなって」


 朝に比べて随分とボロボロになった服は、更に涙と鼻水で汚れていく。英二の声が聞こえている筈だが、泣き止む気配は無い。

 困ったのは英二だ。シアが反省してくれればいいだけなのに、こんなに泣くとは思わなかった。小さな女の子に泣かれると、自分が悪くなくても無条件で罪悪感を刺激される。兄と妹がいて妹が泣いたら、必ず兄が悪いのだ。この感情は刷り込みに近い。

 背中をさすっても頭を撫でても、小さなシアは泣き続ける。何だか英二も泣きたくなってきた。


「シア」


 泣き声の合間。破けた心の隙間を縫い止めるような声が紡がれる。


「泣いたらいけないよ。シアが泣いたらエイジも悲しむし、私だって悲しい。だから、今シアがやらなきゃいけないのは泣くことなんかじゃないんだ」


 泣き声が小さくなる。しかし、顔はまだ英二の服に押し付けたまま。


「自分の失敗を知ったら誰だって悲しい。私だって今まで幾つも失敗したよ。でも、そういう時こそ俯いちゃ駄目なんだ。顔を上げて、ね」


 シアはゆっくりと顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃのその顔を、英二は袖で拭ってやった。

 幼いシアにとって、リズは何よりも大きい。その声の効果は絶大だ。


「エイジに言わないとね。ごめんなさい、じゃない言葉を」


 シアは英二を正面から見ようとするが、まだまとまらない感情が邪魔をする。

 それでも意を決して目を合わせ、掠れた声を絞り出した。


「……助けていただいて、ありがとうございましたっ」


「どういたしまして」


 間を空けずに返すと、シアはもう一度英二に抱き付いた。嬉しさを体現したようにしっかりと、首に手を回して。

 英二がシアの背中をとんとん、と叩くと、耳元で鼻をすする音がする。とりあえずは治まった。


 リズが窓に視線をやって言う。


「うん、元気を出すために、夜に美味しい物でも食べに行こう。せっかくファフィリアに来たんだから、ね」


 シアが英二から手を離し、不安げな瞳をリズに向ける。


「でも……わたしは外に出ない方が…………」


「シアが反省したなら大丈夫。今度は私もいるし、危ない所には行かないよ」


 シアは英二とリズを何度か見比べて、ゆっくりと頷いた。

 こほん、と咳払いをして、ナドが話し出す。


「じゃあ、私はそろそろ戻るとしよう。今度は何も起こさないように」


 短く注意して、ナドは去った。

 英二は膝の上に乗ったままのシアを降ろそうと、優しく肩を押す。しかし、何を勘違いしたのか、シアは英二の手を取って、ぎゅっと両手で握った。


「…………えへへっ」


 犬の尻尾の代わりのように、その手は上下に振られる。仕方なく、英二はされるがままに力を抜いた。


 ふと、リズを見ると、穏やかな笑みが浮かんでいる。何の変哲もない綺麗な顔。

 だが、どうにも違和感がある。英二は首を傾げた。


「シア、まだ時間はあるから、部屋で休んでいなさい」


 声も普段と変わらない。なのに、英二にはいつもと違って見える。


「はいっ、お姉さま」


 シアは素直に頷いて立ち上がる。扉を開けて出ようとして振り向き、一つ笑顔を見せた後に出て行った。


 部屋に残るのは英二とリズ。そしてリズは相変わらず笑顔を浮かべている。


 これは怒っているんだな、と気がついた英二は、先手必勝で正座した。


「悪いっ!」


 すかさず謝る。勝手にいなくなったこと。シアを危ない目に遭わせたこと。服をボロボロにしたこと。思い当たる理由はいくらでもある。


「…………何が悪いか、本当に分かってるかい?」


 氷山の豪雪が垣間見える声色。これは相当怒っている。英二はどれが原因か必死に考える。


「…………服を駄目にしたこと?」


「違う」


「じゃあ、シアを危ない目に遭わせたこと」


「それは確かに重要だけれど、今に限っては違う」


 じゃあ、と英二がまた口を開こうとする前に、リズはしゃがんで視線の高さを合わせる。


「どうして、逃げなかったんだい?」


「それは…………まあ、仕方なく」


 逃げられるなら英二だって逃げたかった。しかし、状況がそれを許さなかったし、途中からは怒りに似た感情が芽生えたせいで、選択肢から消えていた。


「君は戦わなくて良いんだ。いくら体が丈夫だからって、いつ危険がそれを上回るか分からない。それに外傷以外で苦痛を与える術だっていくらでもある。君は、とても危ない橋を渡ったんだよ」


 理屈は解る。だが納得は出来ない。結果としては怪我もしていないし、不気味な男も倒せた。結局、あの時は戦う事が最善だったのだ。

 言い返そうと英二が口を開こうとする。しかし、急にリズが立ち上がり、ベッドに向かったせいでタイミングを失ってしまう。


 リズは立ち止まり、ぱちんと顔を両手で覆う。

 そしてそのままベッドに飛び込み、シーツに顔をうずめた。


「あああああもうっ、なにやってるんだ私はっ!」


 全くらしくない、荒げた声。くぐもっていても、リズが言ったのは明白。いきなりの奇行に英二は思わず目を白黒させた。


「リ、リズ?」


 ばたばたと暴れる足を見ながら、英二は立ち上がる。なんというか、予想外の行動過ぎて反応が出来ない。


 ぴたり、とリズの動きが止まる。


「分かってるんだ。私がシアから離れなければ、油断しなければこんな事にはならなかった。私はもっと慎重になるべきだったんだ。ああっ、自分の不甲斐なさに腹が立つ!」


「それは違うんじゃないか?」


 全知全能の人間などいない。不測の事態は必ず起こる。

 そんな意味を込めた英二の言葉に、リズは顔だけ上げる。


「違わないんだよ。シアも、君も、ルルも。私が守らなきゃいけない。それは絶対なんだ」


 英二からリズの顔は見えない。しかし、ベッドの上の背中には、強い決意が見え隠れしている。


 少し迷って、英二はリズの隣に腰掛けた。


「まあ、ほどほどにな。あんまり窮屈だと息が詰まるし」


「分かってるさ。失敗は、しない。私はシアの前で完璧にしなくちゃいけないんだ。それでいて、他の全ても完全に」


 リズは英二を見ずに言う。

 これ以上は泥沼だ。そう判断して英二は話題を変える。


「で、夜はどこに行くんだ? シアに言ったからには、美味い所に行くんだろ?」


 すぐに返事は来ない。沈黙の後にリズはのそのそとベッドから降りて、ずれた髪飾りを直す。

 髪飾りの位置が決まり、リズはいつも通りになった。いまさらさっきの奇行が恥ずかしかったのか、少し頬が赤い。


「こほん。まだ決めてないよ。適当に人に訊いてみようかな、と思ってる」


 さっきの行動が嘘だったかのような流れ。

 何も触れないのだお互いのためだ。そう判断して英二は頷いた。


 扉が開き、ライヤーが入ってきた。


「おっ。帰ってたのか、二人共」


「まあ、色々あったけど、どうにか」


「色々……ねえ。ま、訊かねぇでやるよ」


 本当に色々あった。思い出すだけでも疲れる。含みを持たせたライヤーの台詞に、英二は苦笑いで答えた。

 そうだ、とリズが何かを思い付く。


「ライヤー。この辺りで良い店を知らないか?」


「良い店? 飯か?」


「ああ」


 それなら、とライヤーは顎をさする。


「少し歩くが、良い店がある。そこは美味くて安いし、なにより酒が良い。そこらで売ってる酒なんてメじゃねえ」


「……夜、そこに連れていけばいいんだろう? 今日は奢ろう。予約に行くから、案内してくれ」


「うっし、話が早くて助かるぜ。エイジ、今日の宴は決まったぞ」


 ライヤーに言われて今日の夜の約束を思い出した英二は、妙な気分になった。

 さっきまでとんでもない非日常の中にいて、今からは少し外れた日常へ。その落差が変に可笑しい。


 それが新しい日常か、と英二は思って、ベッドに背を預ける。疲れはそんなに無い。

 扉に手をかけながら、ライヤーは振り向いた。


「そうそう、お嬢ちゃんも来るぜ。少し遅れるけどな」


 それだけ言って、ライヤーとリズは出て行った。


 結局、全員参加が決定した今夜の宴。外はもう随分と暗い。


 そう、夜はすぐそこまで来ていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一言でも気軽にどうぞ!↓
拍手ボタン
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ