三話
人が蠢き、物が並び、喧嘩が起これば物見で賑わう。アリスナの人の多さとはまた質の違う、全てがごちゃ混ぜになった風景。
英二はファフィリアの中央通りを前に立ち止まっていた。圧倒される、とはまさにこの事だ。向けられる好奇の視線にはもう慣れた。
「…………これはなかなか……」
先に見える中央通りは広い。しかし、人の多さの前にはその広さなど意味が無い。通りの筈なのに、店に並ぶ行列や見て回る人々の壁があるのだ。
同じように隣で尻込みしているリズに、英二は人の壁へと顔を向けたまま話しかけた。
「人が多いとは聞いてたけど、ここまで多いなんて予想外だ」
「……すまない。私も予想外だった」
目の前の混雑に戸惑っている声。英二はリズの横顔を見る。
「なんだ、リズもここに来たことが無かったのか? この街の特産品の解説とかしてたのに」
「いや、その…………まあね。一応、この街に来たことはあるんだけど、こういう場所までは来れなくて」
視線を合わせないまま話すリズの頬が、羞恥に染まる。
勤勉な皇女にとって、知らない事は恥ずかしい事なのだろう。英二はもう一度中央通りを見る。当然、人は減らない。
「こっちは諦めて、別の所に行くか? 宿に行く途中にも良さそうな店があったんだろ?」
この中央通りは文字通り、この街の中心だ。人にしても物にしても、ここを目指して集まってくる姿は、言わばこの雑多の街の象徴とも言える。
勿論、少し通りを離れてもそれなりに店はある。何もここにしか物はない、という訳ではないのだ。ゆっくり見て回るなら、むしろそっちの方が良い。
だが、リズ・クライス・フラムベインは退かない。何故ならば、そこにまだ見ぬご飯があるから。
「いや、進もう。私達は進まなければならないんだよ。それが旅というものだ」
「いや、それっぽいこと言ってるけど違うからな」
英二の言葉は届かなかったらしい。リズは英二に手を差し出す。
「さ、はぐれるといけないから」
「え?」
差し出された手の意味を考えて、英二は目を逸らした。
「い、いや。子供じゃないんだから、手を繋ぐってのは…………」
「手くらいで恥ずかしがる程、子供でも無いだろう? それに、この混雑じゃ子供も大人も関係ないよ。まあ、もし君がはぐれても大丈夫、って言うなら別だけど」
文字も読めずお金も無く、この世界の常識も無い。加えて悪目立ちするクジュウの民の容姿。もしはぐれたら、比喩じゃなく死ねる。
そう自分に言い聞かせて、英二は差し出された手を握った。
「そう握ったら歩けないだろう? こうしないと」
握手する形で握った英二の手の甲を、リズはもう片方の手で掴む。右手と右手では二人が同じ方向を向いて歩けないのだ。今更ながらに英二は間違いに気付いて、二重の恥ずかしさで顔に血が上る。
「よし、行こうか。戦いの地へと」
握り直した手は、剣を扱っているせいか少し硬めだ。鍛えられ、荒れた指先が、英二の手を軽く締めつける。予想していた感触と違うとはいえ、曲がりなりにも女性の、それもとびきり美人の手だ。どうにも落ち着かない。
英二は軽く頭を降った。これは妹の手。そう思い込んで平静を保つ。
「こんな所を他の奴らに見られたら誤解されるなぁ」
「まあ、かもしれないね。あんまり多く食べる姿を見られたく無いから英二だけ呼んだんだけど、正解だったみたいだ」
「……っていうか、本当にそのためだけなんだな、俺を呼んだのって」
「ああっ! い、いや、ちゃんと目的はあるよ? ただ、どうせなら食べたいし…………ね?」
「何が『ね?』だよ。ったく、それなら早く行くぞ。俺も腹が減ってきた」
英二の目の前には、入るのにも苦労しそうな人の壁。早々と疲労感が漂ってくる。
いくらリズが強いといっても、こういう時は男から。
景気づけに軽く手に力を入れて、英二は人混みに突撃した。
「…………まさか、まさかまさかの展開だな、こりゃおい」
中央通りから少し離れた看板の裏。仲良く手を繋いで中央通りに入っていったリズと英二を遠目で見て、ライヤーは面白くなって参りました、とばかりに口角を上げた。
特に期待していた訳では無い。ただ単に暇だったからという理由で、ルルとシアを交えて始めた尾行は、急展開を見せてくれた。
なんと、あの『皇帝姫』が男と仲睦まじく手を繋いで人混みに消えたではないか。
ミスラム商会の地下では関係を否定されたが、これはひょっとするとひょっとするかもしれない。
皇帝姫が皇帝姫と呼ばれる由縁の一つに、リズの男の影の無さがある。
今までの皇女は、ほとんど大貴族の婿を取り、内政には関わってこなかった。皇女という立場は、それだけで一生を約束されているからだ。向こうから寄ってくる婿を選び、適当な時期に婚約し、子を成せば人生に不自由は無いのに、わざわざ自ら求婚を退け、政治の世界に飛び込む理由など無い。それなのに積極的に政治に関わろうとするリズは、言わば異端に近い。
皇帝とは絶対なる者。そして孤独な者だ。
『皇帝姫』とは、才ある皇族の中でも更に卓越した能力に加え、独り身でいることに拘るリズへの揶揄の意味もあった。
それがどうだ。ライヤーは自分の顔がにやけていることを自覚する。
「くくっ、不意を突かれて戸惑った顔。男に手を引かれて進むなんて、天下の姫様らしく無さ過ぎて…………ふっ、ぶはっ」
「気持ち悪い笑い方しないでよ。気持ち悪い」
ルルは冷めた視線でライヤーを見る。シアは何故ライヤーが笑っているのか理解出来ないようだ。
「お姉さまとエイジさんが手を繋ぐのって、そんなに面白いことですか?」
「ああ、シアにはまだ分かんねえかも知れないが、ぶっちゃけここ最近で一番面白い事件なんだぜ。ぷふっ」
諭すように話そうとしても決まらない。それはライヤー・ワンダーランドにとって非常に珍しい事態だ。
これは早急に解決しなければ、と心に決めて看板の影から身を出す。ルルも着いてきてはいるが、あまり乗る気では無さそうだ。
珍しいクジュウの民だからか、容姿が可愛らしいからか。おそらく両方の理由で集まる視線を鬱陶しげに一瞥して、ルルはつまらなさそうに言った。
「あの二人がそういう関係な訳無いじゃない。どうせ、人が多いから、とか子供みたいな理由でしょ。そんなの見てもしょうがないわ。それより買い物に行きましょう」
黒髪の少女は早くも飽きてきたらしい。
皇女と身元不明の変な男。まあ、確かに不釣り合い過ぎる。
ライヤーは顎に手を当て、英二達の消えた先を見る。面白いからこうあって欲しい、という考えを捨てて冷静に考えれば、ルルの言う事はかなり可能性が高い。この先に休めるような宿は無いし、あの英二に『皇帝姫』の男になるほどの甲斐性があるとは思えないのだ。
偶然が重なった非常に珍しい光景。リズの性格も考えに入れると、そう考えるのが妥当。
ライヤーの頭の中で、さっきまで感じていた高揚が色褪せていく。あの二人が恋人である、という確証があれば、更なる喜劇が見れるかもしれないが、今のところは無い。これ以上は望めないだろう。
つまんねえな、と思いながら、ライヤーは所持金を確認するために、腰にかけた袋に手を伸ばす。
「しょうがねえ、どっか別の面白い場所にでも行くか」
袋から金貨を取り出して親指ではじく。くるくると回りながら高く飛ぶ金貨。
それを感心したように見ながら、シアはさらりと爆弾を放った。
「そうですよ。お姉さま達は『こいびと』なんですから、邪魔しちゃ駄目です」
恋人が具体的にどういう意味を持つのか、実感していない幼い声。ライヤーは金貨を空中で掴み損ねた。慌てて拾ってシアに近付く。
「お、おいシア。今、何て言った?」
「え? 何がですか?」
「いやだから、リズとエイジが何ですよ、って言ったんだ?」
ライヤーは一般男性よりも身長が高い。遥か高みから見下しているような状態だ。
シアが困惑しているのに気付いて、ライヤーは足を曲げて琥珀色の目の高さに合わせた。
「大丈夫、怒ってるん訳じゃないんだ。ちょーっとばかりさっきの台詞に違和感があっただけで。で、あの二人がどういう仲だって?」
「え、えっと…………」
シアは一生懸命に記憶を掘り出す。
「わ、わたしがエイジさんと初めて会った時に、お姉さまが言ったんです。えっと、『私は君と深い仲になりたい』って」
これはこれは。ライヤーの冷めかけた心に火が点る。
「で、エイジはそれを了承したんだよな」
「は、はい。わたしは恥ずかしくて見れなかったんですけど、握手してました。だから、お姉さま達は『こいびと』なんです」
ライヤーはほくそ笑んだ。
皇帝姫が。あの男嫌いと言われていたリズ・クライス・フラムベインが。ただの男に惚れている。
大事件、と言っても過言では無い。ライヤーは立ち上がって考える。もしそれが事実なら、英二をこちらに引き込めばリズが付いてくるかもしれない。そしてそこから帝国打倒の道が――
はた、とライヤーは考えを止めた。この旅についてきた理由。いつでも逃げ出せるのに、未だにこの街に居る原因。それこそが帝国打倒のための組織ラクセルダスなのだ。
ラクセルダスは暴走している、とリズに言われた。確かに、最近は自分の手が回らない範囲が多くなり、他の人間に指揮を任せる事も多かった。そして決まって、別働隊のの報告書には成功と、いつもより多い民間人の死人の数が載っているのだ。
それは誤差の範囲なのかもしれない。まったく血が流れない解放など有り得ない。だが、ライヤーはその見えない部分に、嫌な胎動を感じていたのだ。少し、心当たりがあるから。
その事実を確かめる為に組織を離れ、旅をしている。
もし自分が作った組織のままだったら戻ればいい。簡単だ。そして帝国を倒し、平等な世界を造ろう。
違う場合は、作ったこの手で。
ライヤーは深部へと下がっていく心を止め、振り返らないまま後ろのルルに話しかけた。
「お嬢ちゃん、これは一大事だぜ」
立ち上がる自分の顔には、ひねくれた笑みが浮かべられているだろう。ライヤー・ワンダーランドという仮面はこの程度では揺らがない。思う所はあるが、今は目の前の事件を楽しむべきだ。そう思うと、仮面の笑顔と自分の顔が重なって、真実になる。ラクセルダスの頭領は、自分を律せないほど愚かでは無い。
ふと、ライヤーはルルからの返事が無い事に気付く。嫌われているとはいえ、無視される程ではない筈だ。
不思議に思って振り向くと、羨ましがるような嫌悪しているような、なんとも言えない表情のルルが、英二達の消えた先を見つめていた。
「お嬢ちゃん?」
もう一度呼ぶと、ルルは慌てたような素振りを一瞬見せて、すぐにつまらなさそうな顔に戻った。
「別に一大事じゃないわよ。興味無いもの」
だが、人を読むことに長けたライヤーは、その猫のような瞳が大きく揺れ始めた事実を見逃さない。興味無いなんて嘘。
ライヤーは腕を組んで頷いた。
「好きの反対は無関心だもんな。うんうん」
「だからっ、興味無わよっ。あいつらがどこまでいってようとっ」
「ルルさん、どこまでって、どういう意味ですか?」
「っ! …………し、知らないっ!」
シアの疑問を強引にかわし、ルルは元いた場所、つまり宿の方角へと歩き出す。
そんな後姿にライヤーは言葉の銛を投げる。
「お嬢ちゃん、愛する二人が何をするのか見にいかねえのか?」
ピタリとルルが歩みを止め、振り返る。
「愛なんて、ばっかじゃないのっ」
心底くだらない、と言わんばかりの不快な表情。
その表情を見て、ライヤーは自分の言葉の選択が正しかった事を確信する。
「愛は良いもんだぜ」
「そんな訳無い。くだらない」
愛。それがルルの心のざわめく場所。
銛は深く刺さっている。ならば後は力いっぱい引っ張るだけ。
「じゃ、愛の素晴らしさを証明してやる」
「……どうやって?」
「それは二人が進んだ先にある。見ればわかるさ」
ライヤーは自信たっぷりに、二人が消えた人ごみを親指で示した。
ルルは視線を人ごみに移した後、鬱陶しげに黒髪を払った。
「愛なんて幻想よ。それを証明するために行ってあげる」
ライヤーは近付いてくるルルを見て、おう、と軽く返事をした。
当然、愛を証明するつもりはさらさら無いし、二人の行き先なんて知らない。ただ、この場さえ凌げれば後はどうとでもなる。完全にはったりだ。
この先、二人を尾行するにあたってルルは不可欠だ。なぜなら、からかう相手がルルしかいないから。シアは疑うことを知らなさ過ぎて、からかいがいが無い。
楽しい事は楽しもう。自然と、ライヤーの笑顔は優しいものになる。久しく浮かべていなかった笑みだ。
隣に立っていたシアがぽつりと零した。
「こいびとなのは、やましいことでは無いですよね?」
「ああ。やましくないさ。やら……素晴らしい事だ。愛と平和の徒、ライヤー…………が保証するぜ!」
「…………なんだか、ライヤーさんが信じられなくなってきました」
ライヤーは大きな声を上げて笑う。
大いなる遊び心を満たすため、つまりは二人を追うために、中央通りの横の脇道へと、ライヤーは二人を引き連れ進み出した。
威勢のいい客引きの声。それに釣られるように見知らぬ男女が店に入って行く。どこもかしこも繁盛しているのは、それだけ多種多様な品揃えがあるからだろう。
ファフィリアの中央通りをある程度進むと、入り口のような大混雑は無くなった。それでも依然、道行く人は多い。やたらと集まる視線は、隣を歩く男が珍しい容姿をしているからだ。その男と手を繋いで歩いている自分は、まさに先程同じように男と手を繋いで店に入った女性と、同じ様に見られているかもしれない。
ただ、リズも伊達に皇女をしている訳ではない。他人の視線に怖じ気づくほど、繊細な人生を送るつもりは無いのだ。
堂々と道を歩くだけ。何もやましい事など無い。
今まで荒事など経験したことの無さそうな、恐らく自分より綺麗で柔らかい手を、リズは軽く握り締める。
「さあ、どこから行こうか」
「腹が減ってるんだろ? 俺はどこでもいいぞ」
「いや、せっかくこんなにも色んな店があるし、時間はまだたっぷりある。まずは見て回ろう。ほら、あそこなんて楽しそうだ」
言うが早いか、リズはその店に向かって方向を変える。繋いだ手に引かれるまま、英二もその店の扉をくぐる。
二人を出迎えるのは、まるで統一性の無い雑貨の数々。宝石の付いたブレスレットや、鮮やかな赤に染められた布。帽子や手袋の一角に、何故か重厚な鎧まで置いてある。
「いらっしゃい」
裏にいたらしい中年の男の店主が声をかけてくる。
「ウチには色々置いてるから、じっくりどうぞ」
作業着が少し汚れている。何か仕事の最中なのだろう。店主はそう告げて、また裏に引っ込んでいった。
代わりに髪の毛を三つ編みにした女の子がリズ達に近寄る。
「何をお探しですか?」
店員らしい。リズは苦笑を返した。
「いや、特に目的は無いんだ」
「そうですか。何かあったら、気軽に言ってくださいね」
ああ、とリズは片手を上げて、周りを見回した。
つられて英二も見ていると、小物を置いている一角に目が止まったらしい。くい、と手が引っ張られる。
「ちょっとあっち見ないか?」
「ん」
引かれるままに移動する。行動にしろ作戦にしろ、いつも引っ張る側だったせいで、誰かに引かれる、というのはどうにも慣れない。
商品の前で止まった英二は、細やかな細工の施された髪飾りを手に取る。そしてリズの結われた髪に挿した。
英二は思い出すように顎に手を当てる。
「たしか、こんなん挿してなかったっけ?」
「ああ、向こうにいた時はね。今は旅してるし、そういうのを挿してもしょうがないかな、って思ったから、置いてきたんだよ」
リズが片手で髪飾りを挿しなおす。一応、定位置があるのだ。
「私は基本男装だから、こういうところでお洒落しないと」
「ってか、なんで男装してたんだ?」
「剣を振るのに、スカートを履いてどうするんだい?」
違いない、と英二は笑って、また小物達に目を落とす。リズも小物を眺めた。ここの小物は他とは違い、全て繊細な細工で統一感がある。値段は普通の小物より僅かに高いが、質はそこらの物など比較にならない。特に髪飾りは洗練された意匠と実用性を兼ね備えた見事なものだ。
リズが感心していると、店員の女の子が後ろから話しかけてくる。
「その辺りの小物はお父さんが……店主が作ってるんですよ。綺麗でしょう? 昔、アリスナの東部の一等地に店を出さないか、ってお話があったくらいで」
アリスナの東部にはよほど金と腕が無いと店は出せない。新しく出す、となれば尚更上質なものが要求される。
「へえ、それは素晴らしいね。でも、何故アリスナに行かなかったんだい?」
「それがですね……聞いて驚かないでくださいよ?」
女の子は、店主である自慢の父親が大好きなのだろう。我がことのように胸を張って笑顔で話した。
「お話を聞くために私達がアリスナに行った時、丁度年に一度の『大舞祭』があったんです。その祭りで私達が歩いていると、なんとっ! あの第三皇女のリズ様を連れた行列が来たんですよ!」
リズは思わず声を上げそうになる。しかしどうにか押し留め、代わりに英二へと視線をずらす。案の上、英二も目を見開いて見返していた。
その反応を、二人が自分の体験に驚いている、とある意味間違っていない解釈をして、店員の女の子は更にヒートアップする。
「行列は『大舞祭』の目玉の一つで、どの方がどこを進むかは公表されないんですっ! だから、あのリズ様に出会えたのは、本当に幸運でした!」
何か言いたげな様子だが、ぐっとこらえて英二は頷く。
「そ、それは凄いな」
「いや、そこからが凄いんですよ!」
女の子は興奮しっぱなしだ。
「当然、その行列を聞きつけた人達がいっぱい集まってきて、私達は押されて倒れちゃったんです。それもリズ様の進路を塞ぐ形で。本当なら罰せられてもおかしくはないのに、リズ様は進行を止めて降りてきてくださったんですっ! 私達の前にっ! そして『大丈夫かい』って声をかけられて……きゃーっ!」
その時の事を思い出しているのか、真っ赤になった頬を両手で押さえて、女の子は説明を続ける。
「あの時のリズ様……男装し始めてから結い始めた髪に輝く髪飾り……吸い込まれそうな紅い瞳……まさに美の化身でした……」
なんというか、ここまで言われると申し訳ない気持ちすら湧いてくる。リズは頬をかきながら、話を戻すために口を開いた。
「え、えーと、それで結局、なんでアリスナに店を出さなかったんだい?」
リズの最初と同じ質問に、どこか虚ろになり始めていた目が正気に戻る。女の子は恥ずかしそうに一つ咳をした。
「こ、こほんっ。話がずれちゃいましたね。その時にお父さんが感銘を受けたらしくて『俺は驕っていた。この方に見合う細工を作れない俺が、アリスナに店を出すなどおこがましい』って言い出して、その話は立ち消えになったんです。話がずれちゃいましたけど、この店の小物はアリスナに持っていっても恥ずかしくない、良い物なのは保証しますよ。リズ様に着けて頂けるような物を目指してますから」
にこにこと笑いながら、女の子はリズを見る。
「お客様もお綺麗ですから、お洒落した方が良いですよ。リズ様みたいな綺麗な金髪ですから、ウチの商品は大体合わせられる筈です」
リズは置いてある小物に視線を落とす。確かに、言われてみれば納得する。どこか統一感があるのは同じ人間が作ったから、と思っていたが、本当は着けるべき人間が同じだったらしい。
しかしそれにしても、偶然というものはあるらしい。リズ自身、相手の顔までは覚えていないが、その騒動自体は覚えている。
女の子はふと目を細めて、ぐっとリズに顔を近づける。
「本当に綺麗ですよね。まるで本当にリズ様みたい…………あれ、もしかしてリズ様本人…………?」
女の子の表情が、親しげなものから真剣なものへと変わっていく。
リズは首を横に振る。
「そんな訳無いよ。こんな所にリズ様がいらっしゃるはずが無い」
「……そう、ですね」
「良く言われるんだ。光栄だけど畏れ多いよ」
口元には笑み。
アリスナで街に出る時にも、こういうことは何度もあった。しかし、変に力を入れずに返せば大体相手も納得してくれる。
それだけ皇女が街に出ている、というのは本来なら有り得ないのだ。
「……でも、声も似てるような…………」
更に怪しげな視線を向ける女の子。リズはここで駄目押しをする。
「エイジ、私はこの髪飾りが欲しいな」
「えっ? っ! あ、ああ、そうだな。良く似合ってるし、いいと思うぞ」
わざと、見せつける様に指を絡め、甘えた声を出す。返ってくるのは戸惑いの感触。
まったくもって自分らしくない行動だが、効果はあった。
「あっ……! そ、そうですよね。男嫌いのリズ様が、男の人と手を繋いで街にいるはず無いです。瞳だって黒いし。いきなり変な事を言って、すみませんでした」
女の子はリズと英二の間の『恋人らしい仕草』を見て、ぱっと吹っ切れたように笑顔になった。その頬は僅かに赤く、視線は恥ずかしげに揺れている。
リズは女の子の視線が落ち着く前に、後ろ手に硬貨を取り出す。髪飾りの値段は把握している。
英二は居心地が悪そうに身じろぎをして、リズに言った。
「そ、それじゃ、そろそろ行くか」
「そうだね。あ、少し汚れてるよ」
リズは言いながら英二に身を寄せる。丁度、女の子から手元が見えなくなるように。
後ずさりかけた英二はすぐに意図に気付き、さりげなく硬貨を受け取った。ねだったのはリズで、了承したのは英二。支払うのは男だ。
「はい、これでよし」
「お、おう。ありがとう。じゃ、これが代金」
「はい、ありがとうございます! 良くお似合いですよ」
つり銭は無い。そのくらいは配慮してある。
リズと違い余裕が無いのか、英二は早足に出口へと向かう。また引っ張られる形になったが、今はこれが自然だ。
やはりどこか落ち着かない。しかし、その落ち着かない形も、たまには良いかもしれない。リズは慌てる英二の背中を見てそう思った。
「ありがとうございましたー」
扉が閉まると同時に、英二は大きく息を吐く。
「リズ。あの子の事、知らなかったのか?」
「一応そういうことがあった、っていうのは覚えてるけど、流石に顔までは覚えて無いよ。国に仕える人間ならともかく」
リズはにやりと唇を曲げた。
「しかし、バレなくて良かった。バレたら街を見て回る、なんて夢のまた夢だからね。この手に感謝しないと」
そう言って、リズは繋いだ手を軽く持ち上げる。そして店内でやったように、わざと恋人のように指を絡めた。
英二は少し力を込めて、絡まった手を強引に下げる。二度は効かないらしい。
「それじゃ、次に行くか?」
もう平静に戻ったらしい。普段通りの声だ。少しつまらない。
そんな感情をおくびにも出さず、リズは頷いた。
「ああ、そうだね。まだ目的の物があるんだ。次はそれを探そう」
リズはゆっくりと歩き出した。すぐに人の多い通りに出る。
その人の波に乗る直前、後ろから声をかけられる。。
「リズ、髪飾りが外れそうだ」
「え?」
リズは立ち止まって手を離し、片手で髪飾りを取る。そしてその髪飾りを見詰めた後、英二に差し出す。
「どうも前の飾りとは重心が違うらしい。エイジ、君が付けてくれ」
リズは言いながら背中を見せる。
どんな反応が見られるか、と思いながら待っていると、あっさりと髪飾りが中へと侵入していく感触。
「出来たぞ」
「さっきもそうだったけど、随分慣れてるね。もしかして君は女性経験が豊富だったりするのかい?」
「するか。妹が居て、よく髪の毛を結ったりしてただけだ」
思いもよらない台詞に、少しだけリズは嬉しくなる。
「そうか。君が本当の自分の事を話してくれて、私は嬉しいよ」
最初に出会った時から、英二は自分の情報を何も話そうとしない。別に咎めるつもりも詮索するつもりも無いが、真実を話してくれる方が良い。
リズにとって、英二は非常に特殊な存在だ。最初こそは子飼いの部下にしよう、と思い、そういう風にしようと行動していたが、その関係は変わりつつある。
きっかけは、シアだ。
英二と庭にいた時、シアは本当に楽しそうな顔をしていた。温い檻の中で、自分以外に滅多に見せる事の無かった、本当に楽しそうな笑顔。シアがその笑顔を見せる相手に、敬語を使わせる訳にはいかない。だから禁止した。
その後が、英二の面白いところ。
普通、いくら敬語を禁止して、楽にしていい、と言っても、どこか距離を置くものである。何故ならば、自分はこの国の皇女リズ・クライス・フラムベインなのだから。一度、使用人のラミ・モルドナーにも言った事があるが、言葉遣いとは逆に、態度が余所余所しくなったほどだ。
しかし、英二は言葉通り、普通に接してきた。それこそ、まるで友人にでも接するような態度で。
友人。それは自分にとって、今まで必要ではなかったもの。英二は丁度、その空白の部分に納まりかけている。
だから、リズにとって英二は特別な存在で、隣に立っても違和感が無い特殊な存在なのだ。
どこから来て、どこに行こうと、変わらないもの。そういうものがきっとあるはず。それは魂とでも呼ぶべきものなのかもしれないが、まだしっかりとは見えていない。
だが、リズはその変わらないものを、信じる事にしている。シアとの繋がりもまた、変わってはいけないものだから。
「さ、行こうか。君はエイジ・タカミヤなんだ。私はそれ以上を欲さない」
英二が何かを言おうとするが、リズはあえて気付かない振りをして歩き出す。
「もたもたしていたら日が暮れる。先に進もう」
結局、英二は何も言わずに、引っ張られるがままに歩き出した。それで良い、とリズは握った手を少し強めた。
引く手。引かれる手。互いに役目を交換する時もある。
そして繋がった手はいつか切れる。先に離すのは、どちらだろうか。
願わくば、離される側でありたい。リズはそう思った。
そんな二人を遠くから眺める六つの目。
「な、なんだあの睦まじさは。か、完璧にバカップルじゃねえか…………ぶふっ」
「…………愛なんて、不潔だわ……」
「やっぱり、お姉さまとエイジさんはこいびとでした。わたし、なんだか嬉しいです!」
三者三様の反応をしているライヤー達は、英二達を順調に尾行していた。
身長の低いシアを肩車しているライヤーは、頭のすぐ上にある小さな体に話しかけた。
「シアはお姉さまがエイジと恋人で嬉しいのか?」
「はい! だって、『恋愛したい。出会いが欲しい』ってラミさんも言ってました! だから、お姉さまが出会えて良かったですっ」
シアは疑いも無く言い放つ。愛は素敵で、本の中の恋も綺麗だった。そこにリズが加わるのならば、それはもっともっと素敵なものなのだ。
「愛なんて……!」
しかし、ルルは納得出来ない。
「どうせすぐに飽きて、違う奴にまた『愛してる』なんて言うのよっ! そう、そうに決まってるわっ」
「一体どうしたんだ? お嬢ちゃん」
不自然なまでに否定するルルに、ライヤーは訝しげな視線を向ける。シアも不思議そうな顔だ。
そんな二人の視線を前に、ルル・トロンは宣言した。
「決めたわ。あたしが愛なんて嘘だ、って証明してやる」
「いや別に証明しなくても」
ルルは尾行を始める前と立場が逆転している事に気付かない。
「するったらするのっ!」
話を聞きそうに無い黒い瞳は、鋭く英二達が消えた先を見た。
ライヤーはシアを降ろしながら質問する。
「よっ……まあ、それは良いんだが、どうやって証明するんだ?」
純粋な疑問。哲学的命題にも似た問題にどうやって答えをつけるのか。自分が『愛の素晴らしさを証明する』と言った事を完全に棚に上げて、ライヤーは腕を組んだ。
ルルは猫のような目を、妖しく細める。
「簡単よ。エイジがあたしに惚れれば、愛なんて一時の気の迷いだって証明できる」
愛は二人に誓えない。永遠ではない愛に、真実など宿らない。黒い瞳はそう物語っている。
どうしてそこまで愛を否定するのか、ライヤーには分からない。だが、歪な恋の三角関係なんて面白い物を見逃す手は無い。それはライヤーの性分だ。
「くくっ……。よし! じゃあ、お洒落しないとな」
「ダメですよ! お、お姉さま達の邪魔はさせませんっ」
しかし、シアがそのルル達の行動を容認出来る筈がない。今まさに完成している二人に、ちょっかいを出させる訳にはいかないのだ。シアはライヤーの服を必死で引っ張る。
仕方ない、とライヤーはしゃがんで、シアへとそっと耳打ちした。
「なんだ、シアはルルが恋しちゃいけないって言うのか?」
「そ、そういう訳じゃないですけど…………あ! で、でも、さっき『証明するため』って言ってたから、恋とは違うんじゃ……」
「それはお嬢ちゃんなりの照れ隠しなんだよ。素直じゃないだけで、本当はエイジの事が大好きなんだ。だから、ここから先は俺達が口出しする事じゃない。当人達の問題さ。大人なら、黙って行く末を見守らないと」
リズには幸せになって欲しいが、ルルが不幸せになって欲しくも無い。しかし、それは両立出来ない。ならば、どちらに自分は味方すれば良いのか。それとも、ライヤーの言うように何もしないのが正解なのか。
悩むシアに、駄目押しの悪魔の囁き。
「リズだって、シアが一生懸命に何かをしている時、手伝ったりはしないだろ? それは自分でやらなくちゃ意味が無いからだ。それと同じさ。分かるよな?」
シアの脳裏によぎる光景。自分が何かをする時、優しい人ほど手伝ったりしない。本当に出来そうに無い時以外、最後まで自分を見守ってくれる。リズは勿論、初めてエイジと会った時もそうだった。
もし、最初から全部手伝って貰ったら、自分は未だにお菓子も運べなかっただろう。優しさと厳しさは裏表のようなものなのだ。
手を出さず、見守ってくれること。それは自分にとって、とても嬉しいことだった。
もう、自分だって大人なのだ。
シアは止めたい気持ちを、頭を振って追い払う。
「……分かりました。けど、ひきょうなことは無しですよ」
「おう、当然だ。俺は卑怯なことが大嫌いだからな」
ライヤーの笑みはどうにも薄っぺらく見える。シアは心配になりながらも、ルルを見上げた。
「ルルさん、頑張って下さい! 手伝ったりは出来ないけど、応援します」
「はっ、あたしにかかったら、男なんて楽勝よ」
間違った理解をして盛り上がるシア。よく分からない闘志を燃やすルル。
何はともあれ、更に事態は面白くなりそうだ。
ライヤーは笑いをかみ殺し切れなかった。
「…………ぶふぁっ!」