カフカに足りなかったもの
カフカの小説を延々と考察していて、わかったのは、とても簡単なことだった。
カフカの作品には、老熟がないのだ。主人公は若者だったり、中年だったりするが、老いて良いアドバイスを教えてくれる存在がない。あるいは、自分の理想の老後みたいな展望もないのだ。
老いる、一歩手前で、みんな死んでしまったりするのである。あるいは、お父さんがよく出てくるが、これも、困惑した存在になっている。全く、老い、というテーマを外してしまっているのである。
これは、大人がいない。ということと、同じことである。カフカの大人たちは、何かの法則、掟に、縛られているか、何も考えていない空っぽの大人たちだらけである。現実感が喪失されているのだ。
これは、カフカ自身が、強烈に、老年を拒否したからに他ならない。そして、それが、カフカの小説に物足りなさを感じてしまう最大の理由なのである。
不思議な世界なのであるが、現実とは関係がないと言うことが、わかり、段々読んでいるのがバカらしくなってくるのである。
カフカの小説の面白さというのは、論理性がありそうであまりないのであるが、かと言って、全く論理性がないともいえない、というような絶妙なもののあり方である。
それが夢とも比べられてしまうのであるが、要は、現実に対して一歩足りないのが、カフカの小説なのである。多くの人たちがこの真似をしようとして、たんなる寸足らずな小説を書いている。
私は、カフカには予知能力があったのだととらえる。するとわかるのである。あの日記の苦悩は、未来がわかってしまう人の苦悩だったのだ。
ギリシア神話のカサンドラに近いのである。しかも、彼自身も完璧に予知できてしまっている自分に気づいていないのだ。
彼の人生の正解を考えると、アメリカにとっとと亡命した方が良いのである。そうしないと、ナチスのホロコーストの犠牲者となるのだ。そして、それを彼は小説で書いてしまっている始末である。
そして、その話とはまた別に、人生で味わうべき果実というのを彼は描けなかったのだ。あまりの知性、予知能力的な鋭敏なる感性のために。
これは、まるごと、ポストモダン文学や、アメリカンニューシネマ作品などの欠点と通底してしまう。若い頃の『青春の挫折』というよくある物語で終わってしまうのである。
実は、多くの純文学がつまらないのもここにある。我々がほしいのは、実は、「中年以降の熟成」なのである。言い換えると、「人生の果実」なのである。
ジャズのスタンダードに、「最高な時はまだ訪れない」という歌があるが、カフカの真似をする人たちは、そういうつまらない小説を書いてしまうのである。今で言ったら、「はいはい。青春の挫折パターンね」で終わってしまう。
では、その先とは何か。これこそが、実存的変容後の人生なのであった。人生の本当の豊かさというものは、夢が叶わなかった先にあったのだ。我々が思ってもいないところにある、幸せ。豊かさのことだったのだ。
それをゲーテは、「ヴィルヘルム・マイステルの遍歴時代」や、「ファウスト第二部」で描いている。森鴎外が、史伝三部作を描いたのも、そこら辺の嗅覚が働いたのであろう。夏目漱石は、ギリギリ、その熟成が描けなかったのだ。
そして、その熟成とは、自我を超越した他者との交流にあるのだ。自我のことばかり拘泥した小説は、カフカ的な落とし穴にハマるのであろう。
直木賞作品の方が、芥川賞作品よりも、大人っぽいのは、こういう風な他者がちゃんと描けているからである。芥川賞の作品がほとんど読まれないのは、たんなる子供の落書きになってしまっているからだ。
日本だと、中島敦と、安部公房の作品がそうだろう。反対に、小島信夫と、古井由吉の作品が面白いのは、老年期の熟成に焦点を当てているのだ。この二人の作品は、だから、歴史的に残ってゆくであろう。
大江健三郎氏の作品は、私はこれも、カフカ的な問題を乗り越えていると思う。と言うよりも自我の乗り換えの見本市ではないか。「個人的な経験」や「人生の親戚」は。大江の「レイトワーク」の意図もここにある。
井上ひさしが、『吉里吉里人』を書き、村上龍がデビューした時、この二人は自我を飛び越えた小説を書くことになるのだ。私の好きな、ヘンリー・ジェイムズの後期三部作も、自己の乗り換えの物語であった。




