第9話 同じ皿の裏側
「これで終わり」
航平はスポンジを置いた。
新居の台所には、使い慣れた物と、莉奈が選んだ新しい物が混じっている。
水切りかごへ最後の皿を立てると、隣で莉奈が布巾を広げた。
「ありがとう」
航平が手を拭いている間に、彼女は皿を裏返した。
「あ、ここ、まだ油がついてる」
聞き覚えのある言葉だった。
「もう一回、お願いしていい?」
「またそれか」
「また?」
莉奈が顔を上げた。
航平は口を閉じかけ、言い直した。
「いや。洗ったんだけど」
「うん。でも、ここ」
「気になるなら、自分で洗えば?」
前の家では、そこで話が終わった。
千春は黙って流しへ向き直り、航平は机に戻ることができた。
けれど、莉奈は皿をかごに戻さなかった。
「洗うって言ったじゃない。まだ汚れてるんだから、洗ってよ」
「一枚くらい……」
「だったら、すぐ終わるでしょ。お願い」
皿が差し出された。
航平は受け取り、蛇口をひねった。
泡のついたスポンジで裏をこすると、確かに指の感触が変わった。
莉奈は隣で別の皿を拭いていた。
手伝ってくれてうれしいと言っていた人まで、細かいことを言う。
航平はそう思い、息を吐いた。
自分が最初に言った「終わり」の方を、確かめ直すことはしなかった。
*
数週間たっても、食卓には菓子店の箱や外食のレシートが置かれた。
航平は月末の支払いを気にするようになっていた。
莉奈は買い物から帰ると、大きな紙袋を食卓へ載せた。
「何、買ったの?」
「バッグ。前から見てたの、やっと入って」
取り出した革のバッグを、莉奈は肩へかけた。
航平の目は、脇に置かれたレシートへ向いた。
「……五万八千円?」
「私のお金で買ったのよ」
「来月の支払いもあるだろ」
「生活費は、ちゃんと残してあるから」
航平は紙袋を見た。
ソファだけだと思っていた。そのあと食器を買い、今日はバッグだった。
「最初だけって言ってたからさ。この前は食器も買ってたし」
「食器は二人の物でしょ。これは自分のお金で買ったの」
「毎月それが続いたら、貯金なくなるぞ」
「航平のお金じゃないんだから、そこまで言わないでよ」
莉奈はバッグを袋へしまった。
喜んで見せたかったのに、帰ってくるなり値段の話になる。
自分の貯金で買っているのだから、何も困らせていないと思っていた。
航平は、これ以上言えば喧嘩になると思い、口を閉じた。
数日後、莉奈の方から生活費の話が出た。
「今月、少し多めに入れられない?」
「何かあった?」
「食費とか、思ったより出ていくから。足りない分、また私の貯金から出したの」
航平は家計のメモを開いた。
手取り二十四万円から、家賃が八万円。光熱費と通信費で二万円。湊の養育費が三万円。
食費と日用品に六万円、交通費などに三万円を見込むと、残るのは二万円だった。
「俺の方も、二万しか残らない」
「二万じゃ、週末に出かけたらなくなるじゃない」
「結婚する前に、明細も見せたよな」
「見たよ。でも、結婚してから節約の話ばっかり」
莉奈にとっては、いくら受け取るかと、どれくらい買い物を楽しめるかが、まだ別の話だった。
航平は紙の数字を指した。
「だから、外で食べる回数を減らそうって言ってるんだよ」
「ご飯食べに行くだけで、いちいち気にしなきゃいけないの?」
「月に一回くらいなら行けるよ。でも、毎週は無理だ」
「バッグだって、航平に買ってもらったわけじゃないのに」
「その分、生活費を多くくれって言われても、出せないよ」
莉奈は通帳を閉じた。
「せっかくの新しい生活なのに、好きなものも買えないんだね」
航平は紙を見下ろした。
もっと大きな金額をどこかに書き足せれば、莉奈は笑ってくれるのだろうか。
けれど、何度引き算をしても、残額は変わらなかった。
*
翌晩、航平は短時間勤務の求人を見せた。
「陸が幼稚園に行ってる間、少し働くのはどうかな」
「私が?」
「うん。無理のない時間で」
莉奈は画面を受け取らなかった。
「なんで私がパートなんかに出なきゃいけないの?」
「今の買い物を続けたいなら、どこかで増やさないと」
「働くなんて、結婚する前は言ってなかった」
「贅沢はできないって言っただろ」
「少し節約すればいいくらいに思ってたの」
航平は言葉に詰まった。
明細を見せた。家賃も養育費も伝えた。それで分かり合えたつもりだった。
莉奈は、一緒にご飯が食べられればいいと言った。
航平は、その言葉を都合よく最後の答えにしていた。
「買い物を減らせるなら、無理にとは言わないよ」
「じゃあ、航平がもっと稼いでよ」
「簡単に言うなよ」
「だって、私はこの家のことも子どものこともあるのよ」
千春も、家のことと湊のことをしながら働いていた。
その記憶が浮かび、航平は黙った。
それを口にすれば、自分が千春に言われて嫌だったことを、莉奈へ返すことになる。
「誠司とは、こんなお金の話をしなくてよかったのに」
莉奈の言葉が、胸に残った。
航平は求人画面を閉じた。
深夜、今度はパソコンで自分の転職先を探した。
今より高い月給の求人には、原則出社と書かれていた。
手元の勤務予定表には、在宅勤務の文字と、五時の迎えの予定が並ぶ。
転職したら、今のようには迎えに行けなくなる。
休みの取りやすさも変わるかもしれない。
航平は、弁当を広げた休日の写真を見た。
莉奈も陸も笑っている。
もう一度、このときのように過ごしたかった。
求人の画面に戻り、応募条件を一つずつ確かめ始めた。





